2024年2月14日

僕の英文学習

茂木健一郎がいった事の内、確かに会話英語だと人口比から米語中心の現状かもだが、気軽に言えて通じればいいみたいな世界で、しかも米語標準が存在するのはあるのだが、それすら言わずに、国際通用語として適当英語でもジャンク文法でいいじゃんという雑さは、僕はあまり感心しない。日本語でも同じだ。
 一々いうのはおこがましいとはいえ僕が色々英文読んできて、というのも、僕は正直な話、英国の人々一般は本当に京都市の自称洛中人みたく深刻に驕っててすれてて、ひねくれてて、性格ひどく悪いと自分としては感じたからあまり好きじゃない事が殆どだけども、立派な英文だな、と感じるものもあったのだ。余りに凄いからまねできないがシェークスピアのソネットがそれだった。言い回しの妙がちょっと無理だなと感じさせる。やはり母語で完璧にレア表現使いこなしたレベルを非母語学習者が単純においぬくのは多大な困難を要する。やろうとはしたんだけど、やったから何って話でもあり、藤原正彦の言う通りだ。
 こうともいえるかもしれない。原理的に無理があると。異言語話者らはいつもこの問題と向き合っている。僕は確かに言語も言語学習も相当好きなので、いつもというか毎日欠かさずやってはいるが、日本語でデフォルト脳が作られてしまったので、途中で別のOSいれてもいつも厄介な構成になり整理に苦労する。なので母語で全力でやった状態を非母語でやってみても、飽くまで別OSを入れて無理やり動かしてるみたいになって巧く機能したとしても中途半端な動きになってしまい、もたもたした所が残ってしまうわけである。あれですね、今でいうとマックにウィンドウズいれて動かす感じで。無理は無理なので動くだけ。つまりこの問題からいうと、あの流暢なシェークスピア英語という次元に到達する事は殆ど無理なのである。それは日本語話者の間ですら、漱石級の語彙や修辞や言葉遊びが難しいのと似ている。しかも異言語学習者の負荷が加わり難易度はそれにまさっているのだから無理に近いだろう。うん。実感でそれです。

 所が、単純な語彙や言葉遣いなんだけど他人に伝わり易い表現というのもあって、そちらは異言語学習者でも十分できるといえなくもない。特にこの問題は一定の複雑さがあるから今から書く。
 まず米語標準や女王英語がそれでは必ずしもない。だがどちらもその単純英語の要素を含んでいる。
 単純英語ならできる、しかも、巧い事できるまでなら或る程度まで行けるのだ。努力で行けてる人や初歩的語彙だけでいいや、という諦めで特に女性がおばかにみえてもまぁ女性だからネみたいな自他甘やかしのジェンダー差別逆利用で行けてる場面はよくみかける。外国語圏に女がとけこめ易い理由の一つだ。
 自分はネット上ならかなりうまくやりとりできる。というのもネットだと文通できるからだ。自分は学校英語と文学からやってきて文語英語である。口語は殆ど分からない。僕の頃は聞き取り試験もなく話す必要もまず全然といえるほどなかった。なので丸で漢文の読解みたく英語の読み書きに努力してきたのだ。日本語圏としては嘗ては漢文、今は英文にかなり通じる社会だと考えていいだろう。でも口語の方はさっぱりといえるほど苦手だ。この特徴は、或いは今後も続くか残る様な気がする。文科省は最近少し方針をかえたけど、コミュニケーション用じゃなくて研究用の文法教育から始める特徴は学究的性格を示す。
 それで、じゃあしょうがないからもう英文で熟達しようと思ったら、シェークスピアの壁が厳然としてあった。恐らく、前世代だと最初にその高みに圧倒されたのが漱石だったのだ。それで彼は英語で書く作家にはならなかった。このところは実に面白い。建築家志望だった彼が本当に造家学科に行っていたら? ゴシック建築を学んだかは知らないが、恐らく疑似西洋建築との暗闘が建築家漱石の中で始まった筈だ。西軍勢の辰野金吾や片山東熊は思いっきり猿真似した。しかし漱石は不条理に息子を折檻するほど西洋追従を嫌っていた。自分にシェークスピア英語は無理だとの絶望は彼の中でも和文固有の特徴に悟らせた。
 僕も同じ経験をした。自分は『ハムレット』の翻訳を趣味ではじめたのだが、途中までになっている。前半部分だけ残ってるからそのうちだすかもしれないけど、代わりにゲームで2回もとりあげた。要するに英文和訳への熟達は翻訳家の仕事だ。飽くまで創作者の僕としては時間が膨大に無駄になると感じた。村上春樹はずっと翻訳も同時にやっている。趣味みたいなものだといっていたけど、そのせいで、彼の文体は翻訳調化していって、読みやすいわりに一種のぎこちない癖の強さに陥った。一旦脳内で米語風表現で考えてからそれを日本語に落として書く技は、彼が最初の『風の歌を聴け』からやってる奇癖なのだ。同時にジェイ・ルービンによる翻訳時には立石に水で、英語から各国語に訳されて得々としているが、春樹的やり口を大まかにこんまり的カジュアル日本凄い論でまねたのが、英国出羽守として有名なケンブリッジ・スノッブの茂木健一郎だった。なんか日本の受験英語教師にディスられ腹立ったのだろうきっと。
 日本人が書いた英語の系譜は、新渡戸稲造と岡倉天心の先例があって当然我々は参照しているが、彼らの英語の難しさは相当で、普通に学部英語レベルよりずっと上だといえる。しかし僕は茂木の英語論はおかしいとも思うし英文が綺麗とも思わない。英文は、通じればいいという事ではないと自分は思っている。チャールズ国王のかつて皇太子時代に書いた『英国の展望』だけど、自分はこれの文体が最もまともな随筆の書き方だと感じた。その種の正統文体みたいなのは、確かに今の天皇の皇太子時代に書いた『テムズとともに』でも感じた。どちらも文法を学校文法そのものみたいに崩さずに使う、という特徴がある。
 僕が最も優れているな、と感じる文体の内でも、芸術的な応用要素を或る程度減退させたとしても、まずは学校文法をきちんとやった方が我々の英語としてはまともな表現になって、今後の為だと感じるのはこの為だ。国王も天皇もそうだからという権威主義が理由ではない。教科書の文が書ける事は教育的だ。
 僕は野望があって、シェークスピアのソネットを超えるものを書きたいのだ。春樹の場合は、大長編の総合小説がそれだと言っていた。いまだにできていない。自分は英語たるべきものを日本語でまず書きならし、応用段階としてはかなり上まできているが、英語表現に逆翻訳すべきとの長期作戦をとっている。

 まぁそれは野望と書いたが、大志ではない。大志としては別にある。言わないが。今いった手順は、同時代でいうとカズオ・イシグロとは別のルートで英文社会の芸術面を攻略するという潜行型の最前衛の戦闘なので、恐らく僕以外でやってる人はいないと思う。
 一度試した。そしたらすでに成功していた。
 ある米国の中学生女子が僕に色々詩をみせてくれた。とてもといえるほどよかったのでいづれ有名になるかもしれない。親や先生に励まされているという。それで僕は自分もソネット作るよ、といった。そしたらみせてというので、英語で書いて送った。その女子はなんか僕に或る種の好意を感じたみたいだった。
 ちょっと童話みたいな感じでその女子を月の神みたいな兄みたいな心から励ますやつだった。ノルウェーのイノさんの隣にきてあんたこの人のなんなのよ的なことを言っていたが、その女子は自分に少しの特別感を持ったのだろうと思う。そこにある心の動きをみていると、いづれ自分にはできると踏んでいる。英語の学習はもうずっとやってきているし、文語なら基本的にわかるので、イギリスの知人にヒトラーの『わが闘争』だかを紹介された時の事だった。僕は和文で既読だったので英文だと手間だと遠回しにいったら、未読と思ったのか、お前は何年英語学んできたんだと言われた。彼は日本語余りできないのだが。

 前からブロガーのオベール・ガメという人がいる。ずーっと前にみつけて直接ブログ読んだのだけど正直僕は好きじゃなかった。なんか恋人だか妻だかなんかへの直接的な発情表現みたいなのをべたべた書きつけており、それが日本語圏だと全く感じが悪い。我々は奥ゆかしいから私信でしかそんなの言わない。英連邦の一部にいるのだろうけどあの種の表現を本国で好むかというとそれも違う。イギリスの知人が読んだらなんか皮肉の塊をいうんだろう。若干痛々しさをほめながら。それなんだけど、ガメは自分が世界の常識だみたいな顔をして、日本を外から腐す様な変形を遂げていった。評論家になってしまったのだ。何が深刻な問題かというと、コメント欄なのだろう。そこに西洋崇拝系の日本女がわんさかたかる。この人達が彼をつけあがらせてしまった。明治のボタンの掛け違いはそれをお洒落だと言い繕う。結果、目も当てられない比較文化悪用が産まれる。外国語を学ぶだけならいいがお国柄をその国語で否定は酷い。
 ところがまた日本の知性界には独特の風習があり、知的謙虚さの行き過ぎもあって自国否定が好きなのだ。それをやらないと右翼だと思われるから、本気の話、疎まれる。東浩紀や茂木が正統知識人の地位を事実上追われてきているのは主にこの為だ。しかもその空気に取りいり易い位置をガメは図らずも執る。
 この間、他の類型もみた。色々厄介な話になるが、第二の怒鳴門鬼に就くのだろう禿げた外人がいる。東大で教えてたらしい。ロバート・キャンベルというその人は、恐らくわざとではなく不倫帰化女を大和撫子と称揚する恥をかきすてつつ反論者らへ種族主義扱いで片腹痛いといっていた。傍らで心が痛かった。敢えて書くと野暮だが、片腹とか誤用で「かたわら」、即ちそばにいると共感力から可哀想で心が苦しく感じる、という古語からの語彙だ。『徒然草』で俺知ってる貸してみな式に出しゃばりをみた吉田兼好が感じた感じと似ている。僕も正にそう感じたが返信と引用全部読んだのに、誰も突っ込めてなかった。知らんぷりしておいてもいいんだけどそれはそれで心が痛々し過ぎた。よく関西芸人がいたた、とか言っている。それの知識人版に耐えがたくなり、一言和歌をかきつけておいたのだけど、ロバートが理解できたとは思えない。しかも遠回しじゃなくて直接本当の語彙を使ったのだけど。彼の文学力は鬼に劣る。移民国家からきて日本の秩序をガチャメチャにする。やればいいだろう。東京あたりなんてそれをサイバーパンクだと思いあがるしかないほど都市計画からして大混乱しており、自分らでつくっといて自分らで大規模なカネかけて日本橋を慶喜公の揮毫ごと移動するおつもりときている。水戸勢としては心苦しい。
 僕はおもいだす。水戸一高の正門をくぐって嘗てのお城の正面に鎮座している至誠一貫のあの実にこの上なく立派な書を。慶喜公は烈公の書前だと知ると襟を正し、正座を始めた。公伝の逸事に出てくる。後年にも確かな畏父の躾に誉れ高き不世出の英才が作られた事を思い返すと、東京勢の書の扱いが軽すぎる。
 文は書と共に洋の東西を問わず、基礎的な学芸だと考えられてきた。扱い方は詩の単位だったり文法・修辞・論理の単位だったりするが、片や六芸、片やトリビウムとして教育の基礎だと考えられた。
 けれど茂木はそれを疎かにし、売れる本を書いたり単に流行の話題で講演できればいいと考えているのだ。
 めいろまとかとかサンドラ・ヘフェリンとか、或る種の欧米出羽守系の比較文化乱用論者は最近𝕏を中心にはやっている。大抵見苦しいばかりか無礼千万なのだが、それというのも彼らは違いを準拠すべき標準があるみたくいうのだ。差は差でいいだけなのに多文化共生の中道をとれない。無学で狭量だからだ。
 大吉原展への放火は瀧波ユカリという漫画家がはじめたみたいにみえた。漫画自体は有名でないのでフェミニスト評論に生き残りの活路をみいだしてる人みたいだが、漫画かけばいいのにいきなり嫌味みたいな口調で、まぁみたいみたいを連打しているみたいだが、みたくもない。北海道から江戸文化再考の弾圧。同調している漫画ファンの学力の低さ。少しも関心できない。何しろ粋の美学や色道の文化人類学は無視し、過去に今の時代の倫理観を直接あてはめて断罪とか。それなのに複数基準で同時に平安朝の天皇強姦文化を賞美、『光る君へ』の事だが、さらに遊郭遊女賞美の善逸が出る『鬼滅の刃』を賞美していた。
 深刻な低教養がもたらした諸々の禍が結晶して膿になったのだろう。それが大衆消費文化を通俗性に最適化してばらまいてきた東京勢の業だ。最大数の共感を呼べばそれが立派になるわけではない。しかも浮世絵も漫画もその種の江戸東京の大衆美術だったのだ。一代目茂木が何をしたいのかさっぱりわからない。

 とにかくこの論考でいいたいのは、英文の事だ。僕は英文はかなり好きなんだけど、やっと骨がつかめてきた。随分時間がかかったが、一言でいうと、母語みたく実感を伴って使える所まで進む必要がある。初学段階だと頭で記号操るみたいな感じがするだろうけど慣れてくると母語みたいな語感を感じられる。
 遂には僕はやりおおせるだろう。その語感を使う事が自在にできれば、我々が日本語でやりえている事を別の言語でもできるはずだ。天衣無縫に空を飛ぶあの鳶か何かの様に。
 そして日本語圏の英語学習の為にいえるのは、文法を軽視していいという事は丸でないと思う。外国語学習には基礎が有益だと思う。