2024年2月25日

神の街について

人は自分に似たものを好む。
 例えば大阪人一般がほかの地域より明らかに、なぜあんなに喜劇ばかりやっているのか。それは彼らと似た愚か者に同感し易いからだ。
 京都人作家が本居宣長が「もののあわれ」と呼んだ姦淫罪を進んで書きつけ喜ぶのは、彼らの間にも類似の悪風があって同感するからである。

 だからこういえるだろう。もし最も優れた人々がいれば、彼らは神格を好むだろうと。まるで最美の神話の中の様に聖なる街があり、そこでは最善の生活が日々更新されていくのに違いない。しかもこの様な街は、相対的に到達できる。相対的に優れた人々は確かにいるからだ。自ら神のごとき行いをすべきだ。
『ドラゴンクエスト11S』の中に聖地ラムダという街がある。山奥にあり勇者を待つ使命を帯びた所だが、住んでいる人々がほかの俗っぽい街とは違って、総じて聖職者風にできていた。要は人類界で最善の人物が棲むに値する街とは、その様な聖地くらいなのである。神級の街も宇宙のどこかにはあるのだろう。

 某脳科学者が喜劇をまるで国家的一大事のよう強調するのは、彼自身が愚か者の一種だからだ。アリストテレス『詩学』にある様、喜劇は愚か者のおかしさを描くものだ。つまり某人は愚か者の趨勢を自らの自己愛を投影してみているからこそ、笑劇を国が傾くほどのおおごとかのよう勘違いしているのである。

 人々が特に何を好んでいるかをみればその人がどんな街に住んでいるかも、大体推測がつくかもしれない。似た者同士は相集う事になるからだ。
 この様な理由で、人は優れた人々に近づき親しむ様にすべきだが、劣った人々には決して関わらない事が有益だ。やがてはその人々の一部になってしまうからだ。