2024年2月26日

𝕏で茂木健一郎氏の発言に宛てた、定型詩や短詩をめぐる形式主義論

お笑い芸人やファンが面白い、面白くないとか言ってる基準って、俳句や短歌の結社でいい、悪いと言っている雰囲気に似ている。
 中の人にとっては微小な差が大切だというテイで、外の人にとってはどうでもいい内輪の論理を磨きあっている。
 外では嵐が吹いている
 同じ日本文化として通底しているね。
――茂木健一郎

それはあらゆる分野で言えることだと思います。
 経済も産業も政治も文化も芸術も学問も!
 専門化すればするほど専門馬鹿になり、袋小路になるのではないでしょうか?
――kuninori ito

箱に入れるのが好きなんだよね。
――茂木健一郎

形式主義というのは世界中にあって、あなたが挙げていた定型詩についても同じです。
 要するに唯の偏見の糊塗、或いはあなたが嫌っていて理解できない2分野、具体的には「短詩含む定型詩」と「吉本新喜劇や吉本興業の芸人による喜劇」の、世界各地の形式主義類型について無知だという事にすぎません。
 例えば短詩・定型詩の類型には14行詩、二行連、四行連、五言律詩など各言語に固有または独特の形式が世界中にあって、主にその言語固有の律動を生かしています。
 日本語の短詩・定型詩に限っても、元々、長歌、旋頭歌など短歌にまとまってくる前の類型がありました。『古今和歌集』以後、国歌に使われる「君が代」含む今の短歌形式が勅撰和歌集の主流を占め始めてからも、芭蕉が革新を起こし更に短く切り詰め、以後も自由律など詩の形式は変化発展し続けています。

 形式主義はそれ自体が芸術の要素に過ぎず、形式化の面だけに注目するのは、芸術鑑賞の方法として唯一の見方ではありません。ある作品が一定の形式をとっていたとしてもその中に創造的な多様性があるからです。また、形式性は全ての芸術に発生するので、系譜や流儀を時に再利用するのも自然な事です。
 そもそも、アリストテレス『詩学』解釈による古典劇(三一致の法則、Classical unities)からの逸脱を正統とみなさなかったのが西洋社会の劇の形式でした。したがってあなたが形式化の傾向を「海外にはない特徴」とみているなら間違いです。また典型からの逸脱が芸術性の高さを意味するとも限りません。

 日本において、皇室によって権威づけられた短歌形式の定型詩の中でも、逸脱を敢えて特別な形式と見なす考え方がありました。でたらめだったり無意味な内容を審美的にみる「無心所着」がそれです。つまり、定型詩の中にある様々な歌学的解釈あるいは感覚論の体系が、自由度が低いという事ではありません。