2024年2月3日

超平面論批判及び真の立派な技について

村上隆のYouTubeは、全く空気が読めていない。もう年寄りだし当然なのかもしれない。色んなチューバーとコラボしていたのに、大してノリがわからなかったのかもしれないしむしろ、彼らのノリにあわせてしまうとよりワルになるだけなので、元々意味がなかった。いや、正確には最初から村上隆界隈はノリが悪かったし、日本で彼の仕事に敬意を持っている美術家を自分は見た事がないので、パチモンという位置づけはずっと変わらないのだろうと思う。
 この事の経緯は彼が欧米美術の権威を笠に着て(そんなものがあればだが)、日本へ逆輸入戦略がずっと機能していない事を意味する。
 京都で展覧会やるみたいだが、自分が知る限り国内で彼の仕事を認めるのは森美術館を除くと学芸員社会で或る意味で初なのではないか。京セラ関係にみえたので、あんま見てないが、企業メセナ的な何かなのかもしれないけども、要するに自慰像などで戦勝国に猿回し(当人が著書でそう自称している)に行きウケ狙いしてきた、ある種の反日自虐系オタクネタ作家というのが「リトルボーイ展」以来、彼の国際的に公式の位置取りなので、扱いが真面目な公的美術館では最低でも国内的に難しく、正面きってとりあげると「公共展示にふさわしくない」と反発が予想される面が以前からずっとあった。しかも国内市場は本格的なサブカルで競争してるので、元々すきまがない。いちいち反日自虐ネタなんて入れてられないから、欧米で受けたから偉い扱いしたい勘違い意識高い系美術左翼しか殆ど無反応だったのである。

 京都市と称する事になった地域は桓武天皇一味の「(奈良こと山の所から見て)山の後ろ」ことやましろの国での都市開発以来、平安京なる移民区として過剰適応の行き過ぎで中華思想風の自文化中心主義に陥った末、自業自得の明治維新コンプレックスまで抱え込む事になり、裏返って京大左翼が発生もした。
 この為、少なくとも文化と称する非政経分野で覇道を主張したがる面が『世界文化自由都市宣言』や文化庁誘致が代表例だがある。その腹のうちにあるのは、首都東京への劣等感で、府ぐるみでの同市による皇族誘致も結局は庇を貸され母屋を取る方式で(或る意味奈良にもそうやってきたのだが)上皇なり天皇一味を住まわせ、真の首都は京都と名乗りたいだけの強烈な自負や虚栄心と、完璧な利己主義がなせる業なのだろう。数万年以上都市史あるこっちからみると千年で大袈裟なのだけど。
 そこで、欧米では人気の左派アートは、ある意味で好都合な位置を占めていた。文化的先進性や優越性を示す目的では、国内勢が炎上や被弾を恐れ尻込みしている自虐ネタを果敢に取り上げれば、ほーらうちは欧米基準、全国まだ遅れてるわねみたいな。国内馬乗り位置を取れると踏まれているとみられるわけだ。

 果たして、その思惑があたるかあたらぬかだが、自分は今から分析するが、かなり難しいとみる。

 しかし、改めて思うのは、村上隆って嘗て一度もいい作品を生み出したことがない。前から僕は友達の田中君ともそう言っていた。村上さん自身も絵が下手だという自覚がある。卒制の自画像みてみたらいい。多分宮崎駿の様なサブカルの天才をみている自分(彼自身)の像で、「完全に圧倒され負けた」みたいな独特の表情している。大分引いた構図の、横顔の絵で。負け犬のポートレートとでもいうか。博士課程でも首席とれなかったと自著で語ってたし。あの絵が彼の経歴全体を象徴的に示していると思うのだ。村上隆はアニメーター志望なのに挫折したひとだ。だからああなのだ。
 京アニ事件もあったが、要は、オタク業界では全くといえるほど無力な自分を輸出業者に転身させる形で、海外ではファインアート史こと美術史の一端みたいな、北斎ポジション取りに行く形で、手段を選ばず下ネタ込みで、とにかく商人根性で自分をゴリ押ししてきた人で、絵自体はどれもよくないのである。

 京アニ事件と京セラ村上隆展。この2つは好対照をなす「負け犬の遠吠え」だという事だろう。青葉真司氏はラノベ創作で挫折、まだ最終判決でてないし詳細わからないが多分、妄想からきた逆恨みで大量殺戮を犯した。対する村上隆氏は、逆輸入戦略の野望でオタクアートの奇形ぶりを世界に宣伝した立役者だ。

 実作みて不細工だなぁって思わず無意識に声を出してしまったのは村上隆のドラえもんが人生初の経験だ。自分は基本的にというかどうも根が上品で、他人なりロボットなりの顔へ否定的に言及しない筈だから、そんな事いったのは僕自身にして、本当に珍しい。本気で全人生で、それ以外に一度もなかった。というか多分村上隆の手描き版ドラえもんのパチモン感の前でしか決して出ない反応だが(トレース版は藤子F不二雄そのままだから除く)、隣にいたおばねーちゃんに某ドラえもん展でギョッとした顔されたが、もっとギョッとしたのは僕の方である。あんなに下手なドラえもんを見たのは、中学3年の時のクラス旗を小学生の頃からテストの裏とかにいっぱい描いていたドラえもんを適当に描いた僕のにされた自分からして、経験的に初めてだったのである。ドラえもんは描けばわかるが、下手な人が描くとはっきりと中国のコピー商品的な偽物感が出る。特に目の離れ方の部分と顔にめぐる猫のおけけスペースみたいな、たぬきとみまごう箇所の接続は、模写せず想像で描くと実は繊細で、難しい。しかしドラえもんが真に好きな上にちゃんと特徴を捉えてると本物感か少なくとも親しみが出るから、とりあえずできれば描いてみたらいい。その正確味とジャズ的崩しの系譜を当流行ってた人らのかく各ドラえもんらにみてたのだが、村上隆が一番できがひどかった。言及したくないが会田誠のしずかちゃんのシャワー姿は敢えて描きませんネタも実につまんなかった。なんで下手な絵描きを理屈でほめるのか。東京人の大半は絵が分からないのだろう。
 直感でよくなかったらよくないのだと思う。理屈は理屈であるとして、絵自体の巧拙はそれを超えてくる節がはっきりあると思うのだ。

 彦坂尚嘉という現代美術家がYouTubeやってるから全てみたのだが、やっぱ似たような感じを受けたのか村上隆のチャンネルつまんないね、やっぱチューバーノリとテレビノリ違うんだねみたく、あのテロップつきキムタクチャンネルとあわせ言及されていた。僕もそう思った。しかしそれだけでもない気がする。村上隆の本質にあるものが彼のチャンネルにはでている。それは元々隠蔽されていたものだった。それは、彼の本質にあるものがただ競売での高値自慢による逆輸入戦略で、中身はからっぽだという事だ。
 宮崎駿は「子供にこの世は生きるに値すると伝えたい」と引退詐欺会見で言った。そんな大志がない。
 村上隆の本は彼が出したやつは一応全部もっているし、当然、僕は後進世代だから全部その理論体系も徹底研究ずみである。大抵の後進世代はそうしてる筈だ。ファイン・アートこと立派な技に真剣なら。命懸けだからやむをえない。
 しかし彼自身も本で言及してたが後進世代からすると彼は技を崩す相手だ。
 村上隆の仕事の本質は、欧米と日本の軍事力的格差からきた国連での地位の落差を利用して、日本の方からしたてに出ていき、欧米ファインアートをクラッキングするというやつだった。確かにその面では成功した。欧米人はリアルオタク社会では明らかなごみ未満にすぎないものを超高値で取引しているからだ。
 だが詐欺は詐欺なので、例えば宮崎駿との対比で、パチモンつかまされたといづれ気づかれざるを得ない。その頃には欧米美術史に彼の仕事がくみこまれてしまって、超平面理論はぬきさしがたく彼らの排除できないウィルスになっている。村上隆自身が理論化できてないが、彼は極東発アートクラッカーなのだ。

 京セラ美術館の雰囲気をページからみると、それより遥か素朴な学芸員なのだろうと思う。欧米でうけてはるお人でほんまええどすな的文脈しか感じれない。だが、村上隆って前から観察してたが京都に逃げ場を確保してたと思われ、逆輸入戦略を諦めておらず、また京都の自文化中心主義をハッキングしたのだ。
 二重の詐欺が進行しているというのが今年のアートイベントでも、ひとつ目立ったできごとになるだろう。なぜなら京都市長選と被っていて、市政刷新になるか、門川式延長の自公立のりいれ松井市政で京都市の文化中華思想が極限まで進むか、いづれかだからだ。後者の場合、村上隆は日本ハックに仮成功する。

 村上隆の絵はパチモンか、本物か。このうち日本勢は総勢としてパチモンであるという審判を下していた。だからどこでも置かない。だが京セラはメセナ的プログラムへの侵入を許した。一種のいなか者の国際通ぶりたい心が、欧米でうけてはるのやからきっと本物に違いない的太鼓判を押しつつある。森の次に。
 僕は言いたい。実際彼の手描き版ドラえもん見たから確信をもてる。村上隆はパチモンである。断言しかできない。しかし、宮崎駿は劇場でみなくとも、たとえ金曜ロードショーでも。中3の時ラピュタの終わりの曲を合唱で僕が指揮してなくともまごうことなき本物である。両者の格は元々余りに違いすぎる。

 さらにいおう。イギリスは美術史ではパチモンの国である。余りに海賊団に冷たすぎるといわれるかもだが、復讐だ。BBC記者ルパートウィングフィールドヘイズがJ-POPディスってきたので全力でやり返す。オザケン聴いて何が悪いのか。人生で最初に『カローラⅡにのって』CDを父に買って貰って何が悪いのか。したがってイギリスの会社――サザビーズとクリスティーズら――がやる競売による権威づけも、パチモンである。そこで高値だろうと、美術の品位と一致するとは限らない。なぜなら経済価値に芸術価値は必ずしも全て還元されないからだ。ガゴシアン画廊も同じ意味で、パチモン売りである。問題は芸術性自体だ。
 本当の話。イギリスにはターナーがいるだけだと岡倉天心がどこかで、多分創業したての藝大でやった『日本美術史』講義だったと思うが言及してた。正確にはミレーやサージェントくらいはいるが、ベーコンとか悪趣味といわれてもやむをえず、事実は事実であろう(注1)。美術面でフランスやイタリアに大変劣る。まぁイギリス全体を敵に回した所で漂白エルギンマーブル返せ運動でギリシャ以外特に何もえられないから程々にしておくが、村上隆が帰朝者面だから偉い、という事はない。また競売で売れたから偉いという事もない。美術としてみて真に質が高いかどうかが重要である。風評は完全無視しなければならない。

注1)  なお勿論、「イギリスにはターナーしかいない」的岡倉天心説とおぼしき文脈の引用。これらはイギリスの画家が地球美術史にあたえた影響や仕事の質的意義の地位を今わかっている限りなるだけ公平に評価する為の誇張の修辞で、本当はもっとぽつぽつと美術家自体いるし、いい作品も中にはあるけど。

 そして。純粋に絵だけをみるかぎり。村上隆は何もといえるほどよくないのだ。一度も感激させてこない。実物見たら違う系統だろうか。そうかもしれない。だから集客力あるともいえる。しかし、僕はわざわざ京都なんて遠いし、行きたくない。だからいかない。都内ウォーホル展すら面倒でいかなかったのだ。東京勢は馬を鹿という。なぜなら村上隆をあれだけ持ち上げ続けてきているからだ。確かにクラッカーかもしれないが、欧米技にクラッキングしかける事がそんなに偉いだろうか。まともな人ではないだろう。まともに正面きって欧米人に神ダネと言わせる訳ではないとすれば、単に草間彌生流のアジア枠である。
 イタリア人は他国民にスゴイネといわれたくて『最後の晩餐』を描いたのだろうか。違う気がする。本当に偉大な絵とは何か探求し続けた結果、レオナルドさんは神の技を再現しようとし、遂にはラファエロさんが『アテネの学堂』に至った。それはフランス人が真の前衛とは何かカフェで議論しまくった様に、真の美術に真剣だったからだ。
 果たして、死ぬ前に、村上隆の絵をみれてよかった、私の人生は報われました、なんていえるだろうか。いう人もいるかもね。しかし、ちょっとふざけてるな、と感じるのが本音であろう。漫画自体にそういうおふざけがあるから、てんとう虫コミックスである。本気で立派な技を極めてやるとの正気ではない。我々が、これ本気でいい絵ですね、と思えないなら、それはいい絵ではない。この意味では岡本太郎の主観至上主義の感覚論にも一理あった。なぜなら、美術史の知識だの画材や手法の知識だのなんてほぼ無限といえるほどあり、網羅的にやれる人ばかりでなく、どうせ自分なりに絵へにじり寄るしかないからだ。
 確かに専門家と素人では絵の解像度が違うだろう。それはプロ野球選手からしたら一流の何が凄いかよりわかるみたいなもので、二流は二流と認識できなければならない筈だ。だから村上隆の絵が舶来づらの二流品で、本物の漫画でない、ましてや美術でもないという事について、我々は強く主張する必要がある。「村上隆が美術でない」? そんな事があり得るのか、という話になってしまっているのが国際潮流だが、自分は超平面派はファインアート(美術、直訳すると「立派な技」)のパチモンだという位置づけを強く主張する事が日本界隈の絵を救済すると考える。なんでも漫画で染まった今、多様性を回復しよう。

 確かに漫画風の表現をする自由はある。というかありまくるからpixiv界なんてずっと盛り上がっているんじゃないか。エロマンガ即売会(コミケともいう)に数十万人も動員する東京勢からしたら、春画ジャンルがこれだけ主に国内でだが人口に膾炙するなんて想定外であろう。寧ろ問題は真の美術の冷遇だ。
 村上隆の一頭脳なり補佐的な唱道者でもあった――著作権関係か何かで商慣習上だらしなかった弟子筋にあたる黒瀬陽平一派を庇ったばかりに、猪瀬都政時代の協働クールジャパンのりこみ工作失敗以後、側近から排除された様に見えた――東浩紀氏。超平面派たる彼もまた、徹底批判の追撃対象でなければならない。

 嘗て東京藝大創始者の岡倉天心は自らの学校で講義し説いた。精神があれば美術は興ると。そこから日本画なる概念がうまれ、結果的に西洋古典美術の模倣派こと洋画と分裂状態をもたらした面もあったが、最初の文化勲章者の一人で彼の一番弟子の横山大観はじめ、やまと絵の伝統をきちんと継げたともいえる。
 もし村上隆が彼らの後輩として意義があったなら、彼は超平面理論で、大衆美術を純粋美術とまとめあわせようとしたのだ。浮世絵、春画、錦絵など、大和絵や水墨画といった貴族的な高文化から排除されていた庶民の為の絵を、同じ中間芸術の視野で見直させようとした。他方この試みは品位の堕落も伴った。同人誌と同列に琳派を扱う。どっちも商業的だったから。この中間芸術推しが、京都人からしたら一般に、「東京の」「欧米帰りの」皮肉な誉め言葉いいたくなる潮流として何らかのひねくれ反応もたらすだろうが、僕はいいたい。そもそも村上隆はよくなかったのだ。
 宿る精神が唯のオタク自虐芸だからだ。
 嘗て宮崎駿は言った。麻生太郎の漫画ミュージアム構想に、大人がやる事じゃないみたいな事を。私設美術館ならまぁいいけど、国単位でやるのはどうかと思ったのだろう。宮崎氏の謙虚さの根拠は、彼が高尚な目的の「立派な技」じゃなく「娯楽作品」を子供向けに作っているという確信にあるのだと思う。

 村上隆はどうだろう? 彼は自分の仕事が欧米ではアートとして認められているからそれは立派な技だといいたげである。だが違う。立派な技という認識は、我々がそれを見て、思わず敬意をもつ様な感激の中にある。なぜなら描き手に魂の高貴さがあるからだ。横山大観がまず人格を高めよと言ったのはその為だ。
 ゲス根性を感じる絵は、幾らみても目が節穴でさえなければ、我々の魂をげんなりさせる。或いは、下卑た感覚を伝え、我々自身の心を多少あれ堕落させてしまう。今や世にあふれる漫画勢がそんなのばかり描いて毎度炎上してるのは、性的対象化の自慰目的の絵しか描けないほど描き手の魂が自堕落だからだ。

 究極の所、絵にできる限界は、いわば天性の描き手の全努力の果てにある代えがたい才能の飛翔に触れ、その中にあるべき最高のたっとい心に触れる事にある。ある描き手の魂が高貴なら高貴なほど、崇高なら崇高なほど、その画業で伝えられる精神性も、人知の頂きにのぼるよう我々を誘導してくれるだろう。立派な技だといえるのは、その仕事が、限りある生の中、人間になしうるあらゆる命の営みの中で、確かに尊く、ほかの仕事では代わりにならない上に、ただの娯楽だと呼べるほど低級でも低俗でもないからだ。だからこそ立派な絵を描き続ける事には著しい困難があり、金銭でなんでもはかろうとしたり、カネがなければ負け組扱いし何一つ快楽をあたえない資本主義の強い圧力から自力で外に立たねば、到底続けられないのだ。この資本主義引力圏の外に出るという美術上の努力は、まるで仏道の修行みたいなものだ。
 村上隆は逆に、資本主義引力圏の中での帝王ぶりで、商業性をわざと前面に打ち出し、下品な紛い物さをお高く留まった美術界の反定立として確立してきた。だが、それが真の立派な技ではない事は彼の作品を一目すればわかる。
 飽くまで、美術は商品作りではない、と示す技こそが、魂の純粋な表現なのである。

 この国に限らず世界中のアートファンは、本当にこぎれいな商品を適当に作ったアパートだか自邸だかの壁にかけ、セレブづらの金持ち達に自慢する目的で、美術館だか画廊だかを見て回っているのだろうか。それは部外者だ。本当に重要なのは、絵画文化が帯びている時代と場所を超えた心の交流なのである。

 絵が救いになりうるのは、絵の世界では、この不条理な世界の身分をこえた心の交流があるからだ。少なくとも目がみえるか、目がみえなくとも絵に何が描かれているかを感知する事すらできれば、別の時代のどこかにいた別の描き手と、みた瞬間、自然に心が通じ合う。この為に、絵は異次元の社交場なのだ。
 もし村上隆ですら、死後も、彼の絵に入っている心は別の時代の別の描き手に影響を与えるだろう。それは宮崎駿だろうとレオナルドだろうと同じだ。我々は異次元での交流をしているわけだが、心の在り方にも尊卑がある様に、取るに足りない絵画上の主張もある。
 全部まとめると村上隆の主張は下らない。
 なぜ下らないかなら、色々説明してきてみたが、一言でいうとオタク技を自己正当化するため厄介な手練手管を駆使しているが、結局は、通俗ゲス根性を立派かのよう偽装しているにすぎず、到底、ほかの歴代画家らに品性で適わないせいだ。様式自体も平面強調ネタばかりでしょぼく、端から根本的進化がない。動画で多重刷りの自慢してたが、ウォーホルとか浮世絵師らがやってたと思う訳だしウォーホルについては彼自身も言及してたしで専門的にいって、別に彼の独創ではない。単に納得できるまで何度も刷って凝ってます、といいたいだけだった。こういう風に厳格かつ緻密にみられるから、プロはごまかせない。

 確かに「オタク技もいいじゃん」と言いたかったというのはわかったが、というか彼のせいでオタク技全盛期を演出し、東浩紀一派も散々稼いでいたわけだから、よっぽどよかったのではないか。今となっては中国勢とかもっと強い真似技がでてきて日本のお家芸とはいえなくなったかもだが、一時代は作った。オタク技はオタク技でいいのかもしれぬが、立派な技かといわれれば白眼視されてもしょうがない様な幼稚な内容で大抵の漫画家作風が埋まっており、しかも根本的に大衆商業芸術系の表現様式だから、通俗性とか人気依存とか色々、美術として一流の資格を喪失し易い面が沢山ある。超平面理論ごと欠陥品だ。
 したがって僕は漫画表現の様式からは、近づかないでおこうと思って大分距離を置きだして今に至るが、村上隆と宮崎駿に代表されるオタク技の系譜は、もう沢山だよ、というのが実感であり、殆ど創造性はないと言ってもいいと思う。似た様なのをちょっと味つけかえて量産してるだけだ。庶民向けの商売だ。なるだけ忘れたい。村上隆と並べるのは失礼なんだろうけど、宮崎駿含め、漫画家らが異常に威張り散らしていた時代があったという事は。茂木健一郎氏も美術論で東浩紀派の脇役と思うのだけど、彼ら世代が順次お陀仏になれば、その次の時代はもう外国人にあうたび漫画とか一言も言及すらされたくない。

 因みに、子供向けでいい作品もあるにはあるんだろうし、大人向けでもいいのもあるにはある。議論百出になりそうだし話題がずれるから作品あげないが、自分がみてきた歴戦の漫画で一番良いのは、大人にも考えさせるし、内容も古典文学級だと思う。だからまじめな漫画ならギャグ系だろうといいんだと思う。パチモンを美術でございというのがおかしいのである。昔、福島のいわき市立美術館で「鳥山明展」を自分は子供の頃、姉と一緒に家族でみにいったのだが、本物は本物で、美術というには一段格がおちるのはおちるのかもだが、原画から本当に深刻に線描として凄まじく絵が巧いのが事実なのはまず確かと思う。
 プラトンは『国家』で、ソクラテスの口から、「子供はなんでもうのみにし易いから分かり易く美徳を教える寓話が有益」と、彼の詩人追放論と矛盾しつつ語らせていた。その文脈にピッタリあてはまっている本物中の本物が、手塚治虫や宮崎駿、一段おちるかもだが鳥山明や藤子F不二雄らなのは真実だろう。
 だから本物の漫画家なら、寓話作家として真っ当に偉いのだ。
 村上隆の帯びる複雑性というのは、そのなりそこねなんだけども、欧米人をだまくらかして、美術っぽいアート運動みたいに超平面理論で、中間芸術万歳といってきて、色々ごちゃまぜにしてくるせいだ。
 整理すると彼はパチモンなのである。