2024年2月20日

𝕏上で茂木健一郎氏へ宛て返信した、「落語関西起源説」の中にある自文化中心主義による権威づけの批判と、「落語文学江戸起源説」の措定および文化多元性の回復

「ツイッター(𝕏)で誰かが落語も上方(関西)からきたんだと。そんな事は当然知ってるんであって今更レクチャーされなくても。確認のためにそういうんだったらいいけど、なんかマンスプレイニングしてくるから、不思議な人達がいるもんだなって思うんだけど。そんな事は当然知ってるんであって誰でも。現代の話をしてるんだよね。現代の日本を取り巻く状況の中で……」
――茂木健一郎
茂木健一郎の脳の教養チャンネル『コメディは、本来は最高の知性の表れ。日本のお笑いは全員落第!』2024年2月20日、7分38秒頃から

落語の起源について調べてみたのですが、茂木さんはこの動画内で上方(関西)からきたのは当然誰でも知っていると仰っていますが、おそらく歴史的事実に反します。
 正確には江戸と京都でほぼ同時期に生まれ大阪でやや遅れて発生したというべきで、上方落語は昭和時代に初めて使われた用語の様です。

 江戸落語の祖は、
鹿野武左衛門(しかの・ぶざえもん、1649-1699)
・出身の詳細は不明(京阪説がある)、若くして出た江戸で30歳ごろ専門の噺家になった。
・天和・貞享(1681-1688)の頃から、江戸の中橋広小路にて葭簀張りの小屋掛けで興行をした。

 京都落語の祖は、
露の五郎兵衛(つゆのごろべえ、1643-1703)
・もと日蓮宗の談義僧。
・寛文・延宝・天和(1661-1684)の頃から京都の祇園真葛原、四条河原、北野天満宮などで辻噺を演じた。

 大阪落語の祖は、
米沢彦八(初代)(よねざわ・ひこはち、1688-1704)
・鹿野武左衛門や露の五郎兵衛らにやや遅れて活躍。
・元禄(1688-1704)の頃から大坂の生玉神社の境内で辻噺を興行した。

 それまで京都落語、大阪落語と分かれていた関西2流派をまとめ、1932年(昭和7年)7月1日発行の雑誌『上方』19号で初めて「上方落語」の名称が用いられた(花月亭九里丸『寄席楽屋事典』東方出版、2003年)。

 さらに緻密にみると、石橋生庵の日記『家乗』延宝9(1681)年1月10日に記された鹿野武左衛門の「福居徳庵門札」など13演題が、落語の題名として最古の記録だという事なので、寛文・延宝年間に辻噺を始めていたとされる露の五郎兵衛が人物として最古、文学上の落語劇作家として最古なのが鹿野武左衛門でいいかと。

 したがって茂木さんがいう「落語関西起源説」への無批判追従は、単なる自文化中心主義者または文化ナショナリストらがよくいう「何でも韓国起源説」やその批判の関西版みたいなものへの自殺点にすぎず、現代以後の議論をする時にも、権威づけの起源にするとしたら特に大阪にその権威は元来ない事になる。
 落語題目の文献記録として江戸側が日本喜劇史上、今のところ最古と考えられるので、「落語の起源が関西側にある」というのは間違った事実認識ともいえる。もしそう主張したければ鹿野が直接、ほぼ同時期に関西で行われていた五郎兵衛側の辻噺を直接まねた証拠を挙げなければならないでしょう。

 勿論これらは今後の日本内の喜劇の展開にとって枢要な議題ではないかもしれないが、「何でも関西起源説」の根底にあるのが「何でも韓国起源説」に似た、地域ナショナリズム或いは自文化中心主義であるという事は見逃せない。その種の偽の権威づけが実力勝負に陰を落とすのは確かでしょうし、陸でもない。

 それと。
 或る種の明治人帰朝者風の英米出羽守式「ハイカラ仕草」で、茂木さんはここで日本側の全喜劇を土着的で洗練されていない要素で満ちているとして全否定している様子だが、元々、人の心は多様で、全てがその種の英米側の喜劇に包摂されないでしょう。勿論喜劇的情緒でも同じかと思われます。よってあなたは一種のハイカラ帰朝者地位話をしていると解釈する事もでき、それによる啓蒙面で日本側で現に生きてきている人の心を酷く侮辱している面もある。余りに心の理論が未発達。特に文化多元性の熟知に関し信じられないほど雑なのですね。自文化植民地主義というべきその粗暴ぶりには呆れ果てる。
 思うには、茂木さんがこの種の明白なスノビズムを主張する様になったのは、イギリス風俗喜劇からの影響が大きい。その影響下にある勿体ぶった教養貴族的要素を、他の全喜劇に当然履行すべき所与の要件として直接あてはめてしまっている。単純に分類の誤りというか、そのミームを受けない流儀もあるのに。 

「東京のテレビ、視聴者に吉本の笑いが受け入れられた経緯には、ストリート系、関西の文化に対する寛容が「政治的に正しい」という意識もあったように思う。一方で、現場の東京の演芸関係者からは、本音の部分では反発の声も聞く。笑いの文化は東西で違う。吉本一辺倒は見直される時期に来ている。」
――茂木健一郎
𝕏の投稿、2024年2月18日午前11:33

上述の様、きのうは関西括りで現地の喜劇文化を攻撃し、今日は日本括りでそうする。しかし文化多元性の観点からみれば、どの地域独特の喜劇であれ、理知的要素を必ず含まなくてもいい。つまりあなたはあなたの信じる特定の形式主義を全喜劇に押しつけているといえる。それはあなたの多文化理解度が低いせいです。

 確かに英語圏から風俗喜劇系だのあなたの挙げたダグラス・アダムス通俗SF系だの、棒立ち芸系だの、何か持ち込んで国内に新潮流を作り、時にそれが理知的要素導入や江戸落語の復権でも、公益に適えば有益じゃないでしょうか。
 でも他の喜劇を弾圧はよくない。色んな喜劇があればこそ人々の心が慰められるのでは。

 また、純粋に哲学的に申し上げれば、主知主義は諸思想の一部を占める一理想論にすぎず、あなたがここで言う様に、諸感覚の戯れごとを単なる「最高の知性」とやらにのみ還元できないのは、芸術論としていうまでもないです。それは思想史上は初歩的な部類の過ちなので指摘するのも億劫ですが敢えていうと。