2023年10月18日

神の恩寵から見放された日本国の衆愚政治と正義の哲学による国事革命について

この世には神の恩寵から見放された人々がいる。
 人類史上、大量虐殺の被害者らは、実際その様な目にあった。彼らには往々にしてどこにも逃げ道がなかったのである。
 そして神の恩寵が圧倒的に慈悲深く賢明な人から善意の救済策の比喩だとすれば、確かに、神の恩寵は有限であり、無限のものではない。その事は弱い動物らがより強い動物らからどう扱われているかを見れば十分である。同じく、人の社会にあっても、強さにおきかわった賢さの高下にあって、下にいる愚者らに上にいる賢者らがどうふるまっているかをみれば、その社会での恩寵の質と量とがわかるだろう。

 もし暗愚な人々であっても彼らが美徳さえ帯びていれば、同情によって賢明な人々は何らかの救済策を講じることもある。だがもし暗愚な人々に悪徳が明らかならば、その様な処置が却って社会に公害をもたらすと多少あれ察知し、賢明な人々は救いの手を弱める事になるだろう。却って、弱いばかりかかつ悪くもある人々には、反省を促す目的か、抜本的な淘汰目的の懲罰のために彼らが悲惨な状況にあっても賢者らが更に手厳しい措置を加える事すらあるだろう。

 フランシス・ベーコンは『随想録』("Essays")13章の冒頭あたりで次の様に言っている。

 行き過ぎた力への欲が天使らをおちぶれさせ、行き過ぎた知識欲が人をおちぶれさせた。しかし慈しみには行き過ぎというものがない。天使も人もその為に危うくなりはしない。
 The desire of power in excess caused the angels to fall; the desire of knowledge in excess caused man to fall; but in charity there is no excess, neither can angel or man come in danger by it.

 ベーコンがいいたかったことは理論的な空回りにすぎない。
 悪徳に満ちた人々は善に向かう根本動機がない。それは心理病質性(サイコパシー)の高い人々を間近にみてみたことがあればすぐわかることだ。彼らは元々神の恩寵の外に生きていて、当然ながら神意をおそれる様なかしこまった道徳的謙虚さも根源的にもちようがない。確かに、彼らは脳機能の障害を抱えているが、一般にその個性に開き直って生きているので、反社会的あるいは他害的ふるまいに快楽を覚えている闇四格(ダークテトラド)や、そもそもご都合主義的な利己心しかその人の本質にみいだせない闇三格(ダークトライアド)の様な人格の場合、彼らの社交的悪質さは決定的になる。
 現実路線では、救うべきでなく、救われるべきでない人々が確かに生き残っており、彼らとの戦いが、この世で善良な資質に生まれついた人々、つまり生まれか育ちか利他性が高く、共感知能や道徳知能の高い人々の大きな、おそらく人生最大の課題なのである。

 性善的な人々にとってこの地球のヒト社会は確かに地獄の様な場であり、それは世人一般の彼らに比べた邪悪さが、共感性や道徳性の低さからはっきりしているからである。その時、性善的な人々が邪悪な人間界から学びとれることは、いかに人類一般からの悪影響を避けるかであり、また彼ら生まれながらの相対悪役らを攻略して、中に混じっている根っから悪しき人々をいわば敵役としてどう政治的に倒して、善の勢力で世界を支配し直して行くかということなのだ。
 プラトンが末期的な衆愚政治状態にあった古代アテナイで最後の希望の綱としていた理想国の語りは、この種の正義を司る王の出現を待望する理論だった。彼の主著『国事(ポリテイア)』によれば、彼は全学問の最終段階として正義を司るべき政治哲学にひいでた君主の出現を準備し、その者によって絶対政治がおこなわれ、多数支配の堕落した民衆政治ことデモクラシーを革命し、賢明な王政へ抜け出す事を自国の国事に望んでいたのだろう。そして彼の洞察は現時点、西暦2023年の日本国でも全く同じく機能すべきで、確かに、正義の根本欠落した同調圧力で動く単なる群衆心理的な多数派である民衆の間からは衆愚政治の状況しか起きえないのであり、最高の道徳と、はっきりした絶対主義をめざす政治哲学をもっている王の出現に期待するしか、現状の自堕落すぎる最悪政治ぶりから国事を救う事は多分できないのであろう。

 カール・ポパーはこの種のプラトン思想を全体主義的であると批判したことがある。しかし多数支配や少数支配に妥協的な場合でも、やはり正義の理解度の人数分布、すなわち正義の多寡によって国の政体をつくりかえる必要があることは変わりがない。ある場面では単独支配が、別の場面では少数支配、あるいは多数支配が最適なのは、アリストテレスがさきにプラトン思想を批判していっていたとおりだからだ。

 結局、この意味ではある道徳的閾値を超えて堕落した民衆が彼ら自身の普段のおこないの悪さの為に自滅することを避ける方法はその悪癖に伴う慣性の致命さからありえず、寧ろ賢明な君主が出現するまでの自縄自縛の腐敗段階として、彼らの日常がはっきりと悪徳の証明をし、完全に自殺的国事によって誰の目にも国というものが持続不可能にまで終わり、全く別の政体にうつりかわるしかなくなるまで、彼ら退廃した日本国民全般の間にあって彼らと殊更或いは徹底的に接触を避けてかかわらないでいることが、唯一のおのが身を守る手段なのである。もし国内残留で身の安全を確保することが原理的に不可能なら、善良な人々からノアの箱舟に乗る様、海外に進んで脱出することが道徳を喪失して狂った日本人衆愚からの難を逃れる次善の策となるのも必定といえるだろう。