我々の世界は、ろくでもない人にはろくでもない末路を、立派な人には立派な末路を用意している。公平世界仮説は我々の道徳知能に属する平衡装置であり、その人為の業がしっかりとした正義の後天設計通りにならないかぎり、どんな絶対権力も遠からず打ち破る最高度の動機になる。この意味で、我々の道徳知能があり正義の設計を他者や後世に伝えうるかぎり、神意とは人のもつ道徳性の同義語だったのだと解釈できるだろう。知的設計者とは、それが後天設計に属するかぎり、道徳的な人そのもので、人為を心術に基づいて操り、人為的業に必然の法則的結果をもたらそうとする知能行動の担い手を指す。
実際、道徳性がごく高度になればそれは神意とおよそ見分けがつかない。したがって神格とは、極めて高度に鍛えられた洞察力をもつ道徳的人格そのもののことと解するのが、言葉の意味からして最も妥当な見解といえる。人より高度に道徳的な地球外知的生命の影響がはっきりしない段階では、少なくともある主観から見てある閾値をこえたこの種の道徳的人格こそが我々の人類社会に於ける神格なのであり、しかもその位格もまた、道徳性の質の高さによっている。
人がめざせる最高の人格的完成度とは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』でそう勧めていた様に、人生のなるだけ多くの長さを理論的生活に費やした者に期待できる特徴で、それは同時に道徳哲学の質の追求に於いて、最高度の完成をみる。人が社会的動物であるかぎり各時代のある所にはより道徳面で優れた利他性を帯びる人がありうるが、そのうち、質的に最上の善を洞察できる者が、すなわちその集団での神なのだ。
日本語で接頭語のおを重ね「おかみ」といいカミの部分に位置として「上」の文字をあてていうのは、この種の道徳性を帯びた存在がその集団の安全や幸福を設計するのに、上位の価値づけとみなすに十分なほど重要だという経験から導かれていた用法だったのだろう。その語彙の対象が通俗化し本来の道徳性を失って、ただの暴力装置となったとき、「神様」としての神聖さを失い、ただの政治屋のことに転用されたはずである。
畏れ多いものとしての「オオカミ」(狼。『日本語源大辞典』によれば一説では「大神」より)や「カミナリ」(同語源書によれば古くは「神鳴る」)などにも、おそらく古代人が逆らい難い強大な力のもちぬしや物理現象へ人為をこえた道徳性と多少あれ混同し、人の生殺与奪権をもつ超常的威力にあてていたカミという語彙のなごりがみえる、とも考えられる。
しかし、当時より知識の進歩した現代からみれば、先天設計を意味している領域に対し、道徳的平衡をとろうとする人為の担い手こそが神意をもちあわせると考えてよく、それは他者の心理や行いの人間性理解による道徳認知を甚だ鋭く、また深く帯びている、優れた倫理哲学者らのことに最もよくあてはまる。