2023年2月13日

水戸学の徳治主義について

正直たちが悪い相手だからとても気分が悪くなるのでやりたくはないが、内田樹の水戸学への言及部分についてもう一度、正確に批評してみよう。というのも、彼が関西人の代理人としてそれなりの発言力を持っているからには、恐らく彼の言説をうのみにする人、特に西日本勢は相当数いると予想されるからだ。

 内田は2023年1月1日『ミルの『自由論』について』というブログ記事で、ある種の象徴として比喩的に水戸学に言及した。しかし彼はこの思想体系やそれが置かれた江戸時代から現代までの文脈を十分理解していない。多分、文献自体を読んでいない。無論、水戸に直接きて理解を深めるつもりもないのだろう。
 結論からいえば内田は彼個人が根が悪辣な人格なので、よく知らない標的へ無理やりその悪性ぶりを投影しているとみられる。彼の他のブログ記事には、その様な彼の資質に言及してある箇所がある。大学時代の親友に素で、「内田って、本当に嫌な奴だな」と言われたという。文の感じ、確かにそうみえる。
 ずいぶん昔になるけれど、大学時代にクラスメートからしみじみとため息まじりに「内田って、ほんとうに嫌な奴だな」と言われたことがある。そう言ったのは温厚で、めったなことでは人の悪口を言わない友人だった。彼は100パーセント正直に心に思ったことを口にしたのである。
――内田樹の研究室(ブログ)『春日武彦『鬱屈精神科医、占いにすがる』解説』2022年12月29日
 水戸学は戦国期が終わり平和が確立された江戸時代に、隣国の明が崩壊し、亡命してきた儒学者の朱舜水が、義公こと徳川光圀に迎え入れられ、異文化交流的な化学反応を起こした所に一つの起源がある。
 朱は義公へ、日本側の皇帝にあたる天皇が、政府とは別に維持されている独特さに、理解を深めさせた。
 義公は自著『大日本史』の序文、あるいは自伝『梅里先生の碑文』に有る様に、兄に代わって家督を継いだが18歳のころ読んだ司馬遷『史記』に感銘を受け、兄の子を後継者として悌を貫いてから、司馬遷に倣い日本の皇統を明らかにしようとした史学者だった。

 義公が「易姓革命の否定」なる日本独特の伝統主義的な政治観を語った。前期水戸学の、代表的な思想史上の成果の一つだ。
 なお水戸学は前期と後期に分けて研究する事が多い。平和な時代の前期は史学、欧米植民地主義の波を受け内外に動乱が起きていった後期は政治学色が濃く、内容が相当異なるからだ。

 義公が「易姓革命の否定」を語った箇所の一つが、『古文孝経』を引き、述べた次の文だ。
 嗚呼汝哉。治国必依仁。禍始自閨門。慎勿乱五倫。朋友盡禮儀。儀且暮慮忠純。古謂君雖以不君。臣不可不臣。
――義公
徳川光圀・著、徳川綱條・編、『常山文集』巻十五、1724(享保9)年
 当時の正統的な学術言語だった漢文(真名)で『大日本史』という皇統を明らかにする正史を残そうと、義公は恐らく日本で最初に墳墓など遺跡の発掘調査を始めた為、現実的に、日本考古学の祖となるかもしれない。江戸時代前期までに知られていたのは考証学など比較文献の手法だったが彼は実地調査もした。
 研究の途中で明らかになった事のうち後世に重大な影響をもたらすだろうと予想されたのは、南北朝期の事だった。皇統が変わっていたのだ。しかし三種の神器を相続した、と考えさえすれば、血筋ではなく家の単位で同じ皇室が続いたと見なせる、と解釈した。いわゆる南朝正統論

 義公薨去後も水戸の徳川家が集めた史学者らにより、皇統の研究は続けられ、幕末に至る。
 幕末の水戸学者らは烈公こと徳川斉昭のもとで『大日本史』の編集を続けていたが、欧米列強のアジア侵略があり、清がアヘン戦争で事実上植民地化されるなど、日本政府(徳川幕府)そのものに存続の危機が訪れた。

 1824(文政7)年、英国捕鯨船が徳川家の領地に漂着した大津浜事件があった。既に外国船が頻繁に日本の領海へ侵入している報告が政府にあまたきていた。外国語の筆談役になった際、いよいよ日本の番だと思ったのだろう藩校弘道館の学長・会沢安は、主著で後期水戸学の代表作の一つ『新論』を翌年著した。『新論』は事実上、それから199年もたつ今も、皇室含む日本政府の基本OS(Operating System、操作系)となっている。前期水戸学の、皇統について当時までに得られた極力詳しい知識をもとに、また当時の日本人が得られた全科学をもとに構築したしくみだったから、極東の政府として大変使い易かったのだ。
 『新論』は政府と天皇の関係を、日本思想史のみならず世界思想史ではじめて、はっきり同時並立たるべきものと定義した。いわばCPUとGPUを2つもつ感じだ。政府が現実政治をおこない、天皇は神権政治をおこなう。この2つが同時に起動していれば安定する、という発想は、他国に類なく極めて独創的だった。『新論』の発想は極めて新しく、正に文字通り革新的なものだった。それまで政府と天皇はどんな関係性でどう協力しあえばいいかずっと曖昧なままになっていたなかで、政府と天皇がいがみ合う必要はなく、両者の上に新たな「国体」こと日本国なる枠組みを構築すればよい、との建築は、思想の革命だった。
 会沢が『新論』で議論している事は、目の前に迫った欧米列強からの植民地侵略に急いで備えなければならない、との危機意識に他ならない。侍階級は今でいう公務員が自衛隊員を兼ねている。よって侍階級にとって自分達の仕事がどの状況に置かれているか客観的に把握するのに大変有益なので筆写で広まった。大隈重信の『大隈伯昔日譚』には、遠く佐賀の侍の家にも、本棚には必ず『新論』が納めてあったほど広く読まれ、また重要視されていたとの記述が載っている。さながら今でいうベストセラー、今の時代ならしばらく前でいう藤原正彦『国家の品格』級に、諸国へ口コミで伝わった国家論の元祖だったのだろう。
 会沢が『新論』で説く事のうち、国体と呼ぶ祭政一致論の箇所以外にも、現代以後も必ず国際的に重要視される記述はある。それは植民地主義の非難だ。のち大津からすぐ隣の五浦にいた岡倉天心が『茶の本』で語った文脈を81年先取りし、会沢は欧米による先住権侵害を悪質だと言う。それまで侍の間では令制国を治める各藩の戦国大名へ忠誠の対象が限られていたが、藩の単位を超え同じ統一国家を形作ろうとする『新論』の新OS構想がきっかけとなって、尊王攘夷の志士が各地に生まれていく。会沢は欧米の国家間競争に負けない為、いわば日本で最初に同じ「国民意識」を起動させたのだ。

 吉田松陰は遠く西の果ての萩にいたが、わざわざ奮い立って会沢に習いに東の果ての水戸へ短期留学にきた。彼がとても感銘を受けたのは無論で、また生涯、後期水戸学の影響下にあったのは『東北遊日記』『幽囚録』などに記述される事実だ。だが21歳吉田は素直な学生ではなく、69歳会沢の構想を書き換える。吉田は郷里に帰ってから水戸に習って国民意識を呼び覚ますべく日本史を教えだすが、途中で広島の僧・宇都宮黙霖に説かれ、倒幕論に転向していく。水戸学の基本OSにある政府と天皇の並立計画コードを破壊した、別のハッキングOSを自製しだしたのである。これがのち薩長藩閥の明治寡頭政治に繋がっていく。

 吉田のOSはのち彼の弟子らによって作られた日帝こと大日本帝国の政体を動かしていた。この版を我々は明治OSあるいは日帝OSと呼べる。天皇が絶対権力を握り、政府はその手先となり、国民は天皇に操られる政府へ絶対従順でなければならない――これが吉田がある時期組んだ日帝OSの建築で、一君万民論という。実は、のち反政府テロを企て捕まった獄中から郷里への手紙で、吉田は別OSの計画を書き送っていた。いわゆる草莽崛起論というもので、今風にいえば長州閥寡頭政治による反皇室・反政府革命をめざす、無政府恐怖主義の極左テロOSだ。
 ほかにも吉田は獄中『幽囚録』で、欧米をまねた植民地侵略を唱えた。

 会沢は『新論』で植民地獲得競争を蛮行だと人道の観点から非難していたわけで、まともな儒学を立派に修めていただけにいわゆる仁愛の人間主義面が強くあるが、吉田は決してそうでなく、水戸学OSの持っていた国民意識の点だけひっこぬくと、ほかは専制的帝国主義そっくりの侵略計画に書き換えたのだ。
 安倍晋三や茂木健一郎など、西日本勢は吉田を「先生」と呼ぶ事が多い。特に彼の郷里にあたる山口県萩市を中心に、ほぼ同心円状にその権威は高く、吉田が仕えた毛利家いわく、山口の各高校は吉田の銅像が必ずしつらえてあるという。ある意味救えないほど現地で神格化されたのだ。

 最後の征夷大将軍・徳川慶喜は水戸の徳川家出身で、母も皇族の吉子女王、父は義公の家を継ぐ烈公と、尊王の権化となるべくしてなった家柄だった。幕末政変のさなか、宗家の家茂が20歳で急逝すると、幼い頃から英邁で知られた彼が政府と天皇の板挟みにあうのは必然だった。彼が譲った江戸城は皇居になる。もし慶喜が水戸学OSにこだわり、庭訓に背く朝敵とされても、王政復古クーデターで幼帝を擁した西軍を潰したら、明治以後の歴史は恐らく今の姿ではなかった。彼に終生仕えた渋沢栄一は『徳川慶喜公伝』自序で慶喜の天皇家への禅譲を自己犠牲の英断とした。

 薩長土肥をはじめとする西軍は、吉田の教義による日帝OSでの侵略政体を実現する事が、近代化と等しいと勘違いしていた。現実には会沢が『時務策』で慶喜に勧めていたよう、徳川家のかねてからの方針だった一国平和主義による近代化はできた筈だ。例えば北欧圏も似た様に植民地政策をとらず近代化できた。最近でも茂木健一郎とルパート・ウィングフィールド・ヘイズのツイッターでのやりとりをみればわかる様に、イングランド勢は帝国主義を文化面ですら多かれ少なかれ継続している。そして多文化共生の為には余りの思いやりなさでは同質以下というべき佐賀勢も、彼らとさして変わりない自己中心性しかない。
 会沢の構想した政府と天皇が並立するOSは、日帝より寧ろイングランドの政体に似ていたので、戦後さも何もなかったかのよう名目王政のふりをし、今の天皇はお茶を濁している。天皇家は日帝時代に誤った。それは彼らの専制が全体主義に陥って即負けしたからだ。GHQに拾われ、天皇は英国王に追従している。

 では当学派をめぐる日本思想史とその政治史的経緯を解読した所で、ミル『自由論』の解説で、なぜ内田が水戸学へ唐突に言及しだしたか分析しよう。
 内田は週刊東洋経済へ寄稿する為この文を書いたという。なお自分は一応愛読書の一つに入っていて岩波文庫でこの本を持っている。

 自分は内田のいう『自由論』の読みがまともなものだとは余り思えない。正直そんな事は書いてないだろう、そんな風な意図でミルは書いてないだろうと思って、内田の読書力を大分軽蔑せざるを得ないのが正直な所だ。ミルはこの本で「他人を邪魔しない限りの自由」を法的に定義していると私は記憶している。『自由論』最大の欠点は、社会主義批判の文脈で、いわゆる障害(条件)を負った人々を政府が保護する事は望ましくない、と書いてある部分があった、気がする事だ。今手元に直接本を持たず記憶を頼りに言ってるが。要は自由主義政府の元での社会進化論を遺伝子淘汰の優生学風に正当化する説を唱えている。
 現実には人は相互協力関係の元で社会を作っていて、仮にある関係が表面上偏利的でも、何らかの間接的目的にとっては有益かもしれない。具体的には、植松聖と違いダウン症の子をもつ親がその子が生きていて心が救われる場合もあるかもしれない。アスペルガー条件者がある時テスラ車を作るかもしれない。実益に適わなくとも、単に損害ばかり膨らんだとしても、集団に遺伝的多様性がある状態の方が、その例をもつため何らかの学びを得られるかもしれない。ある時サイコパスなひろゆきがいたため賠償金踏み倒しの民法上の穴を法律家がみつけ、ノイマンの邪知ゆえ反動の科学者倫理が惹起されたかもしれない。

 だが内田は全く別の読みを『自由論』にしている。内田にとってミルは自分の賢くなった経験知をこの文で開示しているらしい。自分は全くその様に思わなかったし、そうではないと思う。内田は国語が基本的に読めないのだ。ミルが直接書いてない事を勝手にあてがったらそれは国語の試験ですら間違いになる。自分は神戸人が哀れに思う。だって内田みたいな人が身近にいたら自分だって悲しい。国語が読めないのに哲学者と名乗るのだから民度低すぎでしょと感じる筈で、自分達の文化の質の低さに愕然としてしまう。だが、神戸人一般はまだそこまで基礎国語が読めないので、内田を同時代の知者だと感じるのだろう。この本の中で、内田がいうのとまるで違って、ミルは「どうすれば私の頭はもっとよくなるか」などという受験勉強屋的にガラパゴった議論は一切していない。愛読書だけに重々分かるが、内田は完璧にこのブログ記事のその箇所で、手前勝手な嘘をついている。内田が三文売文屋たるゆえんで学術界の部外者だ。
 どういうわけだか内田は『自由論』を過激派対穏健派のうち穏健派の肩をもつ物と解釈したらしい。全くそんな内容は書かれていない。彼個人の勝手な考えだ、それは。「シンプルな解に居着かないで、つねに葛藤のうちで揺れ動くことが知性の活性化には最も有効である」なんてこともミルは一言も言ってない。中村正直が『自由論』(『自由之理』)を訳したのは有名な話だから高校倫理や日本史の教科書にも載っていて、それ以上の教育を受けていたら当然知っていなければならない。だが内田はここでも変な解釈をしている。
 日本はそもそも民主主義社会ではなかったし、そうなるべきだという国民的合意もなかった時代の話である。
――内田樹の研究室(ブログ)『ミルの『自由論』について』2023年1月1日
彼が言うのと違って日本一帯は天皇侵略含む古墳豪族登場前、あたり前だが多数支配で共和政の社会だった筈だ。つぎに
「自説に反対する者はすべて悪だ(だから殺す)」というような水戸学的単純主義を「成功体験」として内面化した人々に政治を任せては近代国家の建設はおぼつかない。
――同前
と内田はいうが、全く意味をなしていない。既に述べた通り現に近代化した日本は会沢の構想した祭政一致の元で今も運用しているからだ。
 はたまた
「自説に反対する者はすべて悪だ(だから殺す)」
――同前
などという論調を、会沢らがしていた試しがない。彼は一国平和政体のもと穏健に近代化したかったのだ。
 内田が、なぜこんな悪意や敵意、ないし誤読誤解と邪悪な偏見に満ちた妄念を世間に吐き出したかだが、要は彼の親友の発言通りだろう。
 もう一度引用すると
「内田って、ほんとうに嫌な奴だな」
――内田の友

と大学時代の温厚で誠実な友が内田に言ったという。自分もそう思う。だから関わりたくない。内田は友の発言が真実だと思ったので心を清めるため武道を始めたとブログに書いていた。だが根が根なので何も変わっておらず却って悪くなっている。

 善悪二元論の単純な構図を、かなりひねくれた言い方でもちだしているのは内田自身である。即ち彼の中では陸に知りもしない学派を、意図的に矮小化し丸ごと「敵視」し、その敵視対象に悪意を込め端的に負の印象づけをしようとしたのだ。水戸学OSは日本近代化計画だから象徴天皇制として今も動いてるのに。恐らく内田は吉田の日帝OSと、会沢らの水戸学OSの違いを全く感知できないほど日本思想史に詳しくない。それはOSを現につかってながら内部計画を知らない人と似ている。このOS使えねーよ、と言いたいなら分かるが、近代日本の基礎が天皇政体なのは確かではなかったか。それが水戸学の基本計画「国体」だ。

 もし内田がいうよう近世・近代日本で、江戸政体でも日帝でも戦後政体でも動いている水戸学OSをアンインストールしたとしよう。途端に天皇は権威の根拠を失い各政府から追放され、戦国式の群雄割拠に舞い戻る事だろう――今ならさながら本田△大阪民国が出現しそうである。内田はその方がいいと思うのか?
 成功体験も何も水戸学OSは普通に機能しており天皇を大義名分的に奉りつつ、政治家は民衆の為に愛民政治をしているのだから、要は義公・烈公・慶喜公らがおこなおうとした旧水戸藩での徳治政治をそのまま、戦後国事がなぞろうとしているといっていい。完璧に茨城県政をまねられてないので中途半端なだけ。自説に反対する者なんてわんさかいた。だから水戸藩は二大政党制を全国に先駆け早くもおこなっていた、国内で最も近代的な文明だった。しかも別に諸生党と天狗党が「政府」「天皇」どちらにより忠実たるべきか議会政治していたからと言って、必ず相手をあやめたわけではない。それは井伊直弼や日帝の話。

 はたまた水戸藩士とその末裔らは、仕える徳川が天皇へ禅譲する側に回ったので、水戸学OSによる近代化を成功体験とは必ずしも思ってないだろう。内田は吉田松陰を先生と呼ぶ西日本の西軍勢力の残党と、それと全く別といえる東日本の色々な政治勢力の文脈を混同しているのだ。無知からくる驕りは恐ろしい。例えば徳川家譜で水戸家から出て一橋家、宗家を継いだ慶喜に侍った渋沢は、次のお札だけど、日帝の敵・味方とかそういう文脈に属さない元お侍だろう。また芹沢鴨は水戸家に仕える神官兼郷士から出て新撰組をつくり、慶喜の母の実家にあたる有栖川宮家に仕えたお侍で、敵味方以前に尊王一途の民兵団長だ。香川敬三は水戸からでて公家の岩倉具視に仕え、のち宮内官僚として皇后に直接はべるまで大成したお侍で、西日本勢得意の西軍を絶対正義化した単純文脈で語れるお人では到底ない。例えば彼は回天神社で桜田烈士のひとり蓮田一五郎に哀悼の碑文を寄せている。
 最初の茨城県知事・山岡鉄舟も徳川家臣だ。
 関東で、古代を除き、最も伝統的な政治様式は、少なくとも武家政体といっていいだろう。将軍政治はその鎌倉府以後の形だが、江戸府で徳川が禅譲してから日帝では天皇が将軍を兼ねていた。戦後政体では首相が将軍を兼ねる。
 内田は関西人で将軍政治の伝統がない。このため複雑な主従秩序が分からない。内田はブログでくりかえし、複雑な言論を単純なそれより好むという。それなのに彼は水戸学OSが単純なものだと勘違いしている。要は無知、無学だが、徳川家はじめ旧大名は現役で国中にいる。彼らが天皇家の元にまとまる事にしたのは、正に『新論』で会沢が説いた事が真を穿っていたからだ。皇統は尊しと。関東が関西より遥かに強大な力になったのは現に事実だ。それどころか単一都市圏の経済規模として現に世界一になっている。この経済力を軍事力に転用すれば、恐ろしい。だからこそ我々は慎重に計画してきた。近代日本で我々の力を統御しているのが、国独自の徳治思想・水戸学だ。

 最後に一例を出すと、水戸学OSを完全に使いこなしていた一人が、飛虎将軍こと杉浦茂峰だろう。彼は台湾を「愛民」哲学で守ろうとした。郷里水戸のお侍なら当然だった。彼は日帝空軍の兵曹長として大戦中、民衆への被害を最小化しようとし、それに成功したが、自分の命は失った。

 しかし、天下の副将軍の故郷からいでし杉浦少尉の自らを貴族義務に律する立派な行いに比べ、神戸人・内田の着せた汚いぬれぎぬはなんと浅ましく、なんとおろかしい悪意や誤読に満ちており、何と卑しい言動だろう。
 茨城空港は神戸とつなぐ。だが私は彼の歪んだ根性を叩き直せなければ、それを憂う。