岡崎体育『うっせぇわ』を繰り返し聞いてみると、やはり、アドの声がおかしいのであって楽曲自体がおかしいのではないと分かる。1番までの歌詞だと何ら挑発的な内容でもないし不良ぶってもいない。声がおかしいから不愉快になるのだ、アド版は。アド声はほかの曲でも不快になる。昔、モギケンがまーた変な事いってた。アド版の『うっせぇわ』は最高みたいにほめちぎってた。そのせいでアドファンダムも相当調子に乗った面もなくはないかもしれない。なんというのかモギケンという人はハイカルチャー側だと思ってはいけない第一人者で、全く反面教師に使うしかないのである。本気で。
アド版はなんというか、ガラスを金属でひっかいた時みたいな感じがする。声自体に不快感をもたらす要素があり、それが物凄く嫌な感じにさせてくる。不協和音みたいなのが出てるのかもしれない。裏声みたいな感じもダメな感じだし、声の揺れも嫌な感じがするし、僕は本気でアドの声は一番嫌いなのだ。
美しい声を褒めるならわかる。だがモギケンは不愉快で嫌になる声をほめる。それは悪趣味という事だ。街中でアド流れてたらそりゃあ地獄だろう。
米津玄師もうんざり系だろうし当人も自覚してたみたいだったけどまたかよと思うが、『パプリカ』大流行の時、まーたモギケンがほめちぎっていた。アドがいいんだ~みたいに思いこんでいたやつの一人がマリコとかいう人。茂木信者にいる。意味わかんなかった。そんなわけないだろう。
モギケンの返信欄にいた子供の1人が「声だけは認める」とかまた阿呆な事言ってるのも呆れた。そうじゃなくて声が嫌なんだろうに。曲は当人が作ってないんだもの。
例えばあとでリンクはるがHeize、Taeyeon、Nayeonとか韓国系の女歌手で声もよければ歌もうまいだろう。同時代日本系だったら菅原紗由理とかnikiiとかUruとかだ。最新だとeillという人も声単体で芸術性がある。聴いたらその場でわかる筈だ。感覚で聴いてさえいれば。モギケンは感覚で聴いてない。アドのばあいデフォで調律が狂ってるからただ歌ってるだけでも歪んだ音が出て、ディストーション掛かってるからそれが面白いからボカロ曲歌わせると機械っぽくならないと思ったに違いないのだ。作曲者側が。しかし、それはいらない。そうじゃなくて例えば『おねがいダーリン』の実声版みたいなので十分よかったのだ。
ボカロ曲というのは沢山あるので聴き尽くしてる人って多分いないのかもしれないけど、『おねがいダーリン』は完成度が極高い。自分が感激したボカロ曲は少ない。しかしこれは完全に一流芸術の域に達している。現代の古典だといえる。
ボカロ
実声
なんというのかこの曲はボカロ曲で実現可能な或る閾値を超えてきている。基本的にボカロは人が歌ってそうな感じに作るのが難しい。いわゆるヴェロシティの調整とかを細かくやらないといけないから。それが割と適当にみえて的確に作ってあって、実声にしたら惣流アスカ的実感が声楽で立ち現れるのが凄い。昔から思ってたが、音楽ファンには2種類いる。
1.アイドルファン
2.音楽自体の聴者
自分は恐らく確実に2なので1とは別種族である。音楽を偶像崇拝の場という風には思えない。歌手とか演奏家・作曲家、歌舞家に何らかの魅力を感じる人らもいるに違いないが自分は主に音楽自体の構造を聴いている。ボカロの場合、そもそも歌手が実在しない訳で、1のアイドルファンみたいな人達は雲散霧消している。精々初音ミクみたいなVチューバーみたいなキャラ偶像視してるしかできないんだからその点で発狂度が低い筈かもしれないが、別に民度高くはない。ただ2の音楽聴者にとっては元々単に音楽聴きたいのだ。この点で、モギケンとか部外者としか思えない。音楽界だけでなく芸術界の、なんだけど。だって音楽聴者として「いやーそれはないでしょ」みたいな調子はずれな事ばかりいう。彼ははっきりいって芸術音痴なので絵とか小説とかでも的外れな事ばかりいうのでいつも迷惑しているが、アド礼賛もそうだと思う。
声単体で芸術性を伴う現代の歌手ってのは次の様な例で示せる。
Heize
Taeyeon
Nayeon
菅原紗由理
nikii
Uru
声だけで曲の本質を表現できる。
しかし自分のきいた感じアドは決してそうではない様に思うのだ。なんというのかどれもアドアレンジみたいになってしまってそれらのどれもディストーションが凄いので、まぁオリジナルなのかもしれんが作曲者としてはそうじゃねぇんじゃねぇのみたいな編曲になると思う。しかもそれが趣味よくないのだ。しばらく前だととても高い音程をだせるので特徴的な特別仕様の楽曲を小室哲哉にあてがわれてた『save your dream』の華原朋美がいい例だと思うが、飽くまで声も楽器と捉えられるのでアドに向いた曲ならああいう感じじゃないのかもしれない。でもなんか違うと思うのだ。ほんとに。
『うっせぇわ』も、Syudoという人がどういう経緯でこの曲を彼女に歌わせたかはしらないけどアド版では悪趣味な楽曲にきこえさせてしまっているが、絶対どうみても最初に出した岡崎体育版の方が優れている。聴いててとても可愛い感じだし優等生的楽曲だ。がアドは楽曲の良さをころして、寧ろ不愉快さとか不快感を増幅させてんだから、それは演奏が下手って事になる。まぁ要はパンクロックなのかヘヴィーメタルじゃねーけど的あるいはノイズまじり的に不協和音を沢山使ってますよって解釈なんだろうけど、とにかくうるさい。うっせぇのは確かだ。なにもよくない。じゃあ素直に「これはよくないねぇ」といっときゃいいだろう。普通に不愉快なだけなんだから。その不快さが反社会的表現っぽくていいんだ、みたいに言い繕ってる事自体が、音楽の本質というか、音楽の本体が分かってないのは間違いない。そうではなく、不快な無調の音楽ってのはシェーンベルクとかいた。しかしアドの不愉快さというのは、無調である事からくるそれではない。声の感じが怖いのである。なんというのか声の調子を裏表をくるくる変えながら人を不快にさせようと脅してくるみたいな声音を使うのが嫌な感じだ。ある種の魔女の様な声づかい。それを素直にそう聞けばいい。馬を指して鹿と為す。そういうことは必要ない。不快なら不快といっときゃいい。だって無調とか十二音階とか使いだしたのもわざと古典音楽秩序を破壊してそういう不協和な音楽を作りたかったからだった。似た様に、ボカロ曲のまともな調律をぶっ壊そうとして大袈裟な破調の声音にしたのがアドだったのだ。アドがやたらはやってるのは若者の心が情報汚染で大都市スラム化され退廃した、無秩序で、混沌とした閉塞感の中で、絶望的な反抗心をかなり内向きに自傷表現みたいに使ってるせいであって、それまでのある意味で明るいロック色をもっと歪んだものにしたからだ。その不調和が共感を呼んでいるだけだ。趣味がいいからはやってるのではなくて、悪趣味な上に不快さばかり与えてくる高ストレスな不調和が、漫画でいう所の単に殺戮ばっかり出てくる『チェンソーマン』的文脈で、今の世相にあってたからにすぎない。ほめられるわけではなくて「もう終わってるな、俺らの社会」感を増幅させてくるだけである。おそらく成田悠輔とかひろゆきとかが子供にとってかなり共感できる対象扱いなのも同じ意味で理解でき、「もう終わってんだから何もかもぶっ壊していけばいいよね」的な加速主義の権化として、負のキャラクター属性として闇の英雄的存在だったのだ。しかし、それらは唯の別の形での反抗の姿にすぎない。