政治広場新聞がモギーを放っとけという。あと30年もすればしぬとか。その頃自分は老人だろうに。
モギーは同時代を散々荒らしている。学校でも大体そんな風にいわれてたらしい。大人になっても総じて同じである。繊細で敏感な程荒れたクラスに影響を受ける。多分自分が一番ダメージが大きいのだ。
僕はとても大人しい。芸術家になるべくしてなった人だ。心が恐ろしいほど細やかである。ちょっとした事をしぬほど大きく感じる。いわゆる超繊細な人、Highly Sensitive Personの典型例である。
それだけじゃないかもしれないのだ。ギフテッドに感覚の過度激動ってのがあるが、それに似ている。具体的には外を歩いてるだけで、物凄く感激したりする。街の綺麗さとかで。木々や空気や車や鳥や自然の響きとかで。多分自分が何に感動してるか、大抵の他人は何も気づかないのではないか。
東京とかガサツさ地獄みたいだった。
また自分の類型は、単に感覚の過度激動があるだけではないらしい。自分の感覚の鋭敏さでも、特に先鋭化されてる部分は、いわゆる道徳感覚らしいのだ。義憤というものを極めて強く感じる。侍に近い。というか侍なのだろう。
僕んちは一応おじいちゃんから公務員なので、昔でいったら自分も郷士ではないか。家の影響かは不明だが、遠い親戚に新渡戸稲造がいる。新渡戸家とは間接的に繋がってるだけなので、僕に稲造氏の血は入ってない。ただ家系図で遠い親族なのは確かっぽかった。新渡戸記念館も行ってみたが、確かに何かしら自分の血統に至る理由を感じた。僕も新渡戸の『武士道』を10代で読んで、かなり深く感じいった事があった。魂がよく似ている。
恐らく旧水戸藩領の文化も影響ある。この地域は道徳に誠に厳しい。確実に水戸の徳川家の高い格式の影響だ。あの家は貴族の中の貴族であり、将軍家を継いだし華族でも最高位、東日本で唯一の公爵だっただけはある。最高格式を地元で補佐してんだから、そりゃあ厳しい。武家教育の権化みたいな。
素は超繊細なんだろうが、それが文化や血統の影響で、極めて道徳感覚に鋭敏化したんではないか。だからモギー教の悪影響も莫大に受ける。
ほっときゃいいと政治広場新聞はいう。ほっとけるならそうしてるに決まってる。自分にしか気づけない邪悪がそこにあるのだ。イトキチ退治みたいなもんだ。
ただ幸運な事に、自分は器用さがあったので、芸術家としてやれるだけの才能はあった。もしそれがなかったら、いわゆるリアル侍になるしかなかったろう。現代の侍階級ってのがいるなら、それは公務員だったのだろう。
自分は公務員は退屈そうだから嫌だった。自由な芸術家の方がよさそうと感じた。従って自分は芸術表現で、世間に何かを表明できる。
文化庁の定義だと、著作物とは、文芸、学術、美術か音楽の範囲に属し、思想か感情を表現したものを指す。思いっきり自分のおもな仕事はこの範囲に入っているので、芸術家や思想家・哲学者と名乗っていいだろう。ゆえこの領域で戦うしかない。
政治広場新聞はよくわかってないのかもだが、自分は芸術や思想・感情の表現で、大魔王モギー一派の様々な邪悪さと戦ってるのだ。
モギー一派退治後は、また別の勢力と戦わねばならない。それが侍なんだからやむを得ない。勇者は悪が退治されきるまで戦うしかないのだ。それが道徳の使命なのだ。
道徳性というのは基本、比べられるものかもしれない。AさんよりBさんの方がいい人とか、ある場面でよいふるまいをしたとか。絶対的な道徳性もあるかもしれないが、それは人同士で比べても仕方がない。侍の仕事はより良い側に回って、より悪い側と戦う事が全てである。これを勧善懲悪といえる。道徳感覚の過度激動というのは、勧懲感の鋭さに至る。クラスでいうならクラスメイト政治だ。より良いクラスにする人間関係ゲームで、最も優れた働きをする事に焦点がくる。
政治広場新聞は自分がイトキチ一派退治してた様、モギー一派退治が国事の焦点だと悟ってるのに気づかない。それだけの話。