2022年11月16日

美術品損壊罪について

日本の全美術館と全ての美術協会は議員に働きかけ、全権一致で、なんらかの活動家が国内美術館や自治体、その他組織、法人や個人らの持つ美術作品を意図的に毀損した場合、最高で数十年以上の懲役刑を含む厳罰に処す法律をすぐにでも定めなければならない。

 美術作品は美術家の人生自体とも言え、一度失われれば二度と世界に復活しえないものが無数にあり、人類の生み出せるすべてのものごとのうち最も希少価値の高いものだと言って間違いない。すなわち全世界でただ一つ、二度と生み出せない美術品が存在する。なおかつ、それらの伝える精神的意義は、人類に救いや生きる意味を与えうるほど極めて重大な内容を含んでいる。事実、芸術はいかなる人生より長く残り、後世にある時代、ある社会で生きていた人々の心を伝えうる唯一の仕事である。これらの内で「立派な技」こと美術の営為を次世代に残すのは、いわば人類文明史の究極の目的ですらあり、あらゆる人々をいれた全人生の総合結論と言っても良い。実際、我々はすでに滅びた文明の遺産として美術品の出土を経験してきているからだし、その様な形で現生人類のなんらかの美術品だけが未来の別の知的生命にとって我々を理解しうる唯一の道筋ということもたやすく想定されるからである。
 美術作品を単なる政治的活動その他ヴァンダリズム(ヴァンダル人風の思想、横暴主義。器物損壊主義)の仕方で破壊・損失させた際、この人物は、人類全体が世界に残すべく努力した全生存の成果を否定しているのだ。これら蛮族は文明を骨抜きにする悪玉というべきで、人々に強く非難され当然ながら、なお現代美術の一部にこの種の破壊活動自体を特殊な芸術とみなす様な考え方が含まれている事実もある(それ自体が美術たる建築物に無許可で落書きする落書き芸など)。
 我々は美術作品の持つ上記した特殊な性格に鑑み、その器物損壊罪の拡張により、美術館、自治体、組織、法人や個人らの持つ、貴重さを認めるなんらかの美術品へ、持ち主や作者の意図せず、あるいは許容しえない破壊・毀損行為を少なからず悪意あるものとみなし、法定刑の引き上げで、人類一般のかけがえない遺産を保護すべきことは確実である。作者が意図した原型を持ち主らがさまざまな事情で維持できない時も、もしそれが美術的意図を持つ作品、つまり思想の表現を特定形式(最も伝統的には音楽、絵、彫刻、建築、詩など)でおこなった作品であれば、公益性を帯びるかぎりで持ち主らには一定の管理・保護・保全責任が課されると考えていいだろう。他方そのうちこれら美術に関わる公的義務を逸脱したがる横暴主義による破壊活動は、思想信条・表現の自由や私有財産制あるわが国では、たとえ偶像崇拝を禁じる宗教観念のもとでさえ、ただ無理解や無知からくる蒙昧さを除けばいかなる理由のもとでも悪意の所業と大差なく、超時代的ならびにおよそ普遍的というべき価値を永久に損害する形では断じて黙認してはならないだろう。それは本来美術から我々が学びうる人類への共感的理解をそれら破壊活動は台無しにし、考えや感じ方の異なる文化や異質な精神性をもつ人間同士の平和的で互いに思いやり合う相互理解の体系を、ことごとくなくしてしまうからだ。

 もし浮世絵に感動していなければゴッホの作品群は決してあの様な姿では生まれなかったろう。商品版画を作っていた歌川広重たちからはるか遠い国に生きていたゴッホは生涯、その絵の作者らと一言も言葉を交わさなかった。だが、ゴッホは広重らに心から深い尊敬の念を持ち、自分の知らない独特の技法で理想化され描かれた異国の世界に、くりかえし模写するほどある種の憧れを抱いてすらいたのだろう。突然の雨の中を足速に走り去る江戸の町人らは、ゴッホの身近にある石造りの街の風景とはまるで違う世界に生きていて、しかも不思議と美しい自然にいだかれそれと戯れ調和して生きている。花鳥風月を愛で、世相の変転を謳いつつ、うつろい失われゆく自然なるものの一部である「浮世」の無常さを謳う極東の暮らしの一幕だった。神話の神々や人間を中心にしたかつての西洋美術のどこを見返しても、永久に思いつかない発想のもとでその絵は描かれていた。
 芸術を通じて人々は知り合い、また互いの人生を認め合うことすらできる。違う国に違う条件で生きている遺伝も、文化も異なる人間同士が、まるで異なる時代の美術作品を通して、心の交流をもつことができる。美術史にはさまざまな世界に生きていた人々の時空を超えた確かな対話の歴史がある。それは破壊活動に値しない、立派な人の知るべき、人間性の一部たるべきことは紛れなく確かである。