ユーチューブのノリってのが僕には少しも共鳴できない。
テレビのひどさは前からいうまでもないけど、チューブのひどさも恐ろしいもので、毎日みてはいるんだけど、吐き気がするほどひどいのがほとんどすべてである。
何がひどいかといえばいろいろあるが、俗悪さが凄い。
みてて吐き気がしてくると書いてるけど、本当にそうなのだ。
目まいとか吐き気がするほど低俗な連中だらけ、というのが今のチューブで、第二テレビみたいになってきて、もう完全に文化としては終わってんだろう。
しかしこの種の俗悪な連中の跋扈って今に始まったことではない。
大体が、江戸時代の江戸の町人文化あたりからすでにそうだったのだろう。そのころからすでに自分には共感できないものであふれかえっており、 今もその延長上にあるのだろう。大衆的・商業的な文化というのが、自分とは著しく相性が悪いらしいのである。なので東京・横浜とか大阪・京都とか、名古屋とか、町人文化が激しい箇所と自分の相性も著しく悪い。そのあたりの人たちと会話してて馬が合うと感じたことも一度もない。完全に違和感しか感じない。違う世界で生きてる俗悪な連中だなという風に感じる。
しかしその種の相性の悪さが、単に文物にとどまるならまだましだ。ヒトという生物の生態自体にそういう感じを受ける。
僕だけがそうなのか、だが、自分が間違ってなければ、僕と似た様に感じている人ってまちがいなくこの世界には相当数いると思う。日本とかいう列島が特殊なのは、その様な人々の声が表に出てこれないところだ。大衆商業主義が大好きな人達、ほぼ一体化してる人達を「町人階級」「町人」としよう。この階級の人々の声ばかりが全力で流されて、その階級に軽蔑感というか違和感を持っている側の声は全然表に出てこれない。なぜなら町人が多数派で、数の暴力で押しつぶしているからだ。そればかりかマスメディアとかミニメディアとかなんでも寡占して、少数派の意見を踏みつぶしているし、むしろ少数派を卑しめてさえいる。江戸時代までは「武士階級」とか「公家階級」みたいな歴たる貴族がいたし、「農民階級」も別に多数派としていたので、町人がそこまで増長していなかったのだろう。しかし近代以後の日本は商業国になっていったので、今の南関東圏とか完全に9割以上が商人、町人であるからして、彼らの生活様式があたりまえで全世界の中心で彼彼女らの価値観が至上のものかのごとく威張り散らしているわけである。そして、端から僕はこの種の町人根性、より正確に言えば東京風・関西風・名古屋風の町人根性が全然共感もできないし好きじゃなかったし、今も好きじゃないのである。完全に別の人たちだな、と感じている。
僕は人生で嫌だったことが無数にあるけど、その中でも一番嫌だったことの一つが、町人の人たちに繰り返し差別的言動をはかれた事だ。僕は15歳の時に画家になろうと思ってその後もその様なルートで生きていた。すると、特にネットで町人と接触する場合があるんだけど、町人の人たちは労働至上主義みたいな価値観を持っており、しかもその労働というのが被雇用者至上主義みたいな価値観で完全にうずまっている。ひどく世界観が狭いのはいうまでもなく、とにかく被雇用者じゃないと人じゃないくらいの言動を普段からしていて、それ以外の人生は人生とは思っていないらしくて差別的言動を吐き捨てて攻撃しようとするのだ。
それで僕はこちらは完全に善意で生きているのに、知り合いでもなんでもない赤の他人でしかない町人、殊に関西だの名古屋だの東京横浜だのの人間に差別的言動を初対面で年がら吐かれるので、途中から町人、具体的には労働者という階級の人たちが嫌いになってきて、そりゃ相手からも面と向かって差別的言動をしてくるくらいだから画家という職業に何らかの敵意をもっていたのだろうが、あるいはあまりに狭量でその様な職業を職業分類だとは思っておらずに攻撃してきていたかどちらかなんだろうが、いづれにしても、日本の労働階級と自分という画家の相性は最悪であった。だから僕は労働者に対して非常に強い敵意を感じる様になり、相手が敵意をもってきているのだからこちらとしても同類とは思えないし、途中で労働者にだけはなるまい、労働者になるくらいなら死んだほうがましだと感じ始めた。東京人のあるひとは自分に漫画家になれば? みたいなことをいい、これも自分にとっては「は?」って感じでありえない話なのである。鷲に向かってげじげじになれ、みたいな感じだ。純粋美術の絵かきと大衆商業美術である漫画家って一から十までまるで違う生態なんだからしょうがない。そうは言わなかったが、それだけ差別的な言動ばかり吐く様な連中なんだから道徳性が著しく低い、ろくでもない不良集団なのは誰の目にも明らかだった。
今の時点では労働者の人たちを完全に別分類の人間、別の人間だと感じる事になった。軽蔑すべき人達とだれだって同類だと思われたくはないだろう。初対面とかであれだけ侮辱しまくってきていたってことは、被雇用者・労働者の皆さんにとって画家というものが、正確に言えばなるだけ関わり合いになりたくない、互いの相性が非常に悪い、理解しがたい職業の人達ということになるのだろう。画家を差別しまくっていた労働者の皆さん、それはそうでしょ。僕は単純に高1のとき最初の美術の授業でどうも周りよりデッサンができるようだったし自分的にも得意そうだったのでそのまま絵描きの道に入ろうとして生きていただけなのである。それだけの少年・青年をいじめまくるばかりか、単なる純粋な悪意で、集団虐殺だか集団虐待しようとはかる、正確には特に虐待を実際にする、虐殺もやってみようとしたがこちらが根性がありすぎて失敗しただけって、よほどの邪悪さがないとできない。労働者の皆さんにそういうよこしまな悪意があったのはまちがいない。それというのは、この労働者の人たちってのは自分達が奴隷的生活をしていることに対してもしかしたら不満だか驕りだかを持っていたのかもしれない。だがそのなにかを他人にも押しつけようとしてる? のか謎なんだが、とりあえず、自分と違う職業、被雇用者ではない人々への差別で、その自分の仕事への不満だか過剰な虚栄心をそらすという習慣を彼彼女らとくればほぼ一様にもっているらしいのである。そんなの画家の人にとって関係ないでしょ。僕にも関係がなかった。だって自分に興味があったのはより良い絵とはどんな絵なのか、ということだけだったのだ。それを実際に見るか、存在しなければ自分で描いてみてみたいだけなのだ。それは被雇用者になってどうとかと一切関係ないだろう。関係ないのに差別的なことを言われるんだから、そりゃー労働者にいい思いをもたなくなるだろう。
こういう経緯で、僕は町人という人達、労働者階級なるものが、別に差別意識とかはもっておらず、中立的なんだけど、なるだけ関わり合いになりたくないという思いは強くもつ様になり(だって少しでも会話するとほぼ例外なく、職業的な労働者の人たちからはほぼ一様に差別的言動されるんですからね)、最終段階として、労働者、被雇用者という人達に余りに不躾な差別的言動を吐かれ続けたので、今ではある種の超越的な感じすらもっているのだ。途中では表向き態度として示すかとは別に、労働者に対して憎しみとか恨みみたいな感じだったわけだが、そういうのはこえてしまって、単に「別の人たち」なんだと感じる様になった。職業選択の自由がある国だ、日本って。そこで自分が好きな職業を選んだらいい。それだけの条件はある。そのなかで、わざわざ労働者、被雇用者を選んでる人達なんだから、その人らから画家になろうとした自分が差別的な文句を吐かれる道理なんてどこにもない。道理を曲げていたのは労働者の人たちなのは明らかである。
何らかの理由で職業選択を間違ったら何とか自分に向いてる職業に鞍替えしたらいいし、それができなかったからといって実際に自分に向いてる職業に就いてる人に嫉妬だか合理化で攻撃だかするなんてもってのほかである。だって職業選択の自由があるのは自分に一番向いた職業に人々を任意につかせるためなのだから。
なにしろ画家になろうとして実際絵をずーっとかいてた人に、というかどうみても年下であろう青少年に、侮辱的言動を吐いていた労働階級の人らって、一体なんであんな言動をしていたのだろうか? 僕以外の画家志望なり画家自身の皆さんにもおなじことしていただろう。しかも画家や画家志望なんて無数にいる。芸大美大があれだけわんさかあるのである。今振り返ってもあれだけ職業差別をしまくっていた労働者の彼彼女らの言動に何一つとして共感もできない。そこにはどんな人道的・倫理的正当性もないと思う。明らかに非人間的な仕業である。
ちなみに、僕もアルバイトみたいなことは一応したことがあるので、具体的にいうと建築士試験の試験監督と建築設計の手伝いだけども、賃金労働みたいなことに全く理解がないわけではない。だからこそ、労働者を専門の職業にしている人々のあの画家への態度は、完全に差別的言動だろうという事は見え透いていたのである。端的に言えば一般労働者ってのが一般教養がないから、視野が異様に狭くて、自分の職業と遠い職業の人達へ驕りだか偏見だかからかなり侮蔑的な言動を平気で吐いていた、という事だと思う。そういう意味で労働階級ってのは非常に問題がある階級だ。ある意味で、手に職がない、又はなんの特技もない、もっというと能力がない人達が行きつく果て。ワーキングクラスに対する扱いが下流扱いであるところのイギリスのめいろまが、前アベマでその様なことをストレートにいったらロンブーの敦から政治的不正だみたいなことをいわれて逆上していたが、一般労働者がものすごく威張り散らしている国が日本だ、という事は確かだ。しかし世界的にみると決してそうではない。サラリーマン・OLがうまれながらに自明の上流階級だと思い込んでいるのはおよそ全世界で日本だけである。僕は子供のころからその逆に思っていた。サラリーマンにだけはなりたくないと。なんでかというと父親が公務員で、なんか面白くなさそうだったからである。当人的にも別になりたくて公務員になっていたのではない。親の親からしくまれてそうなっていたのである。
労働者から余りに差別的言動をされた僕は自分が一番苦手というか嫌っていた商売の分野について、今から5年位前だろうか、或るきっかけで本腰を入れて学びだすことになった。具体的にいうと、ピグにいたいちごって男が、一緒に起業しようぜとかいってきて、どういうわけか起業競争みたいなのをすることになり、結果、自分で商売というものを1から勉強する事になった。その後、僕の全人生で唯一、勉強しすぎて過労死しかけるという経験をした。昔、水戸の予備校の数学教員が、勉強しすぎて死んだやつはいないと言った。あれは嘘である。僕が実例で、普通に1週間くらい寝ずに朝から晩まで勉強してたら、トイレに入ったら気が遠くなり真っ青になって失神しかけた。その後、まともに立てない様な感じで、頭の血が引くみたいになり、寝ていた。要するに死にかけたわけです、過労で。まぁ夢中になりすぎて寝てなかったせいかもしれないけど、勉強しすぎて死ぬという事は普通にある。少なくとも全人類で僕より勉強してて体力の限界がきて死んだ人が0だとは思えない。福沢諭吉って『福翁自伝』で『論語』の文脈で肘に枕し云々で勉強自慢してると思いますが、僕の方が絶対に福沢より勉強してきていることは確実にいえる。その最も極端な状態に至ったので、後世のためにいえるのは、勉強しすぎて死ぬことは普通にあると思う。発狂するとかじゃなくて、体の方が限界を迎えるって意味でです。
で、この経験で自分は、それまで一番苦手としていた、正確にいうと新渡戸稲造『武士道』よんだ影響で19歳くらいから結構な軽蔑まじりに、ある種の儒学的な貴族道徳、賤貨思想で避けていた分野が商売なんだけど、それを本気で勉強しまくってみたところ、克服するを超えて、今では5年後だけどかなり得意というかすらすらわかるようになった。モギケンって脳の分野についてはかなり的を射ていることがある。ほかの分野についてはいつも赤点に近いことをいっているけど。苦手分野を克服すると得意分野に代わることがある、とドーパミンサイクルをもちだしていっていたけど、これは本当みたいである。僕は人生で何度かうまれかわるというか、大体似た様な事をしてきた。画家になろうとしてたがある理由で足止めくらったので建築分野を学びなおすためにほぼ0から理転というのをして自然科学を0から勉強し直した時も非常に大変だった。自分は高校の時は芸術系コースだったので、文系の科目はデフォで早慶A判定でるくらいまではやっていたが、数学とか適当にやっており、生物とか化学とかは一切やっておらず、独学で0からやるしかなかったのである。しかし大変だった分、なんというのか普通じゃないところまで行ったような気がする。20代のころとか宇宙論を一人でその時点の数学力で行ける限界まで勉強というか研究していたわけで、自分にはいつもそういう所がある様だ。そして今回もそうだった。いちごと起業競争とか言い出したために、勢い余って経済学・経営学の分野を大学・大学院の講義は全部ききおわっちゃったばかりか自分が手に入れられた経済学の書籍も全部わかっちゃう感じだから、自分で理論つくらないといけないところまでいったので。で、経済学、経営学、商業という活動自体に苦手意識というのはなくなった。おこなわれていることが根本的に理解できたので。