2021年9月15日

関西地方や南関地方の人々に伝染している天皇家の中華思想

竹田恒泰氏は、この動画『【古事記の窓】古事記にあった!『韓国の処方箋』|竹田恒泰チャンネル2』のなかで、韓国・朝鮮の人々へ大層差別的な事を言っている。

 これをみると、この人物が天皇の玄孫な事を鑑み、天皇家を美化する色々な言説は全てうそだった事を間接的に証明していると思う。実際、彼が引用している『古事記』以来の天皇家界隈の言説は、確かに彼がここで言っているのと同じ趣旨での大蛮行を、天皇と自称する暴力団長の地位から、日本人全般に対してやってきたのである。

『古事記』が中古奈良人の捏造したインチキの書なのは確かだが、それを根拠にして民衆を煙に巻こうとするところから、竹田氏の言説は一切変わっていないのだ。発想が愚民観でできており、自称天皇家が上位者で親分、諸国民は犬同然の下僕、と封建制を再確立しようとしている。今度は日本人に向けていた矛先を韓国や朝鮮の人々へ向けだしているだけなのだ。

 東京高裁が竹田氏を「公的な場に立ったり、公教育の現場にだしてはいけない、人権侵害常習犯の差別主義者」と評した山崎雅弘氏による言説を、論評の域を出ないゆえ名誉毀損にあたらないとした判決は、確かに公平だったのである。

水戸徳川家の余りに善意に片寄った天皇解釈について

 こうして省みると、水戸の徳川家は天皇家を余りに尊崇し、余りに忠誠を捧げ過ぎていた事になり、現実の天皇家は端から尊敬されるべき人格ではなかったのに違いない。私が客観的に見るかぎりでも、仁徳天皇のやった減税策をもちあげている天皇・神道信者らは、義烈両公のやった減税に加えた農業・産業・学術振興策の足元にも及ばない程度の仁政で感激しているほど、政治的民度が低かったのに違いないと思う。
「行く末もふみなたがえそ秋津洲 大和の道ぞ要なりける」と烈公が詠んだ。だが烈公は、この大和国こと奈良県の公民度を余りに美化して捉えていたのだ。現実の大和や奈良は、天皇と称する悪魔じみた邪教祖達が帝国主義的な独裁暴政をしてきていたにすぎないのである。そしてその暴力団の悪質さが余りに甚だしすぎた上に、少なくともそれ以下の公知公徳しか持たなかった人物らしか現れなかった関西圏で、天皇家界隈の売官腐敗政治(受領政治)が長らく続いていたにすぎなかった。

 自分はここ最近、奈良出身ユーチューバーのじゅんちゃん、彼が信奉する長野県上田市出身の関良基氏、あるいは京都市出身の企画制作会社主催兼小説家・原田伊織という人物らの水戸学派や歴代水戸藩主らへの悪意ある偏見に満ちた語りを色々と観察してきて、実に酷いものだと感じた。それというのも、義烈両公は常陸国史に於いて善政、仁政、徳政を行った確かな史実があり、それについて領民は敬意をもちこそすれ、少しも悪く思っていた様には思えないからである。一々列挙しないが、特に笠原水道を通しあるいは飢饉に備え食糧庫や農人形を作って検地し直し、農本主義的な政策をしたのが事実だ。実際、これ以後、のちの茨城県が日本で長らく本州で最も生産力の高い農業県として確立していくことになったのだし、元々『常陸国風土記』や令制国・親王任国の時点から潜在的のみならず顕在的に、当時のコメ経済で最も重要な農業生産力が高い大国とされてきていたのである。然るに原田氏は常陸国を「とにかく貧しかった」「さほど豊穣とは言えない土地」など現に農業自給率が最低級の京都、現時点でも茨城県以下の生産力(県内総生産)・人口の京都を故郷にしながら、自分の地元の事だろうと言える様な他県への悪口を好き勝手書きつけている。似た様な事は関氏やじゅんちゃんにも言えて、要するに人々がどんな悪口を書きつけるかを観察していると、当人達が一番言われたくないだろうことを言う傾向にあるという性悪説の点から省みると、彼らの落ち度がよくわかる。
 要するに関氏は、地元の君主をもちあげたいがため他国の君主とその側近らを無理に貶めようとする、根の浅ましい郷原の本性を示しているにすぎない。しかも彼は世界史の観点を欠いているので、藤田東湖ら当時の防衛階級(武人、軍人)が、阿片戦争直後の幕末当時の列強に囲まれた被植民地化の危機が迫る海洋国の立場から、分割統治防止のための列島統一の急務を前提に、長らく続いていた平和ボケに警鐘を鳴らし防衛戦の覚悟を決めていた事実を、さも野蛮な恐怖主義者かの様に嘯いているのだ。藤田東湖『常陸帯』で知られるよう農本主義的改革へ懸命に努力していた武官の立場を知らない、長野の農学者とは一体。
 じゅんちゃんという人物が関氏の謬説をうのみにしてしまうのも、端的にいって平和ボケというものなのだろう。彼らは戦後の仮初めの平和が、米軍の間接統治によって維持されている状態に慣れてしまい、侍階級の如く自分達自身の手で国を守る必要がある、という自覚すらないのだ。悪意のある侵略者に対し、どこかの誰かが勝手に戦ってくれて、或いは自衛隊(昔でいうなら武官)というどこかの他人の階級がやってくれていて、それで自分も自国もどうせ守られると思い込んでいるに違いない。その武官らがいざとなれば他国からの侵略者を退けるべく防衛戦をしなければならない準備に怠りがないなど知らずに。それどころか、阿片戦争直後に大津浜事件があった事を知ってか知らずか、当時の全アジア人・有色人種へ侵略戦争や絶滅・奴隷化政策を含む明らかに差別的待遇をしていた欧米列強が、純粋な善意で極東にきて平和的な公平貿易を求めていただけなのだ、という彼ら関氏や彼の説の引用者のじゅんちゃんが論の前提に置いているのだろう俄か妄想が酷い。当時の国際情勢をみても、欧米の議会や行政の趨勢次第で、日本だって列強に攻め込まれたらその瞬間どうとでもなりえたのである。関氏とじゅんちゃんは、余りに富国強兵策後の日米同盟の有る上に人権規約が批准されている戦後と、圧倒的武力不足のまま差別される極東アジアに朝鮮を除きおよそ植民地化ずみだった列強に周囲をうろつかれる孤立した連邦列島があったにすぎない幕末の状況をとりちがえている言説を平気で吐いており、この意味で、不平等条約をペリーの砲艦外交により当時の政府首脳陣が弱腰で結ばされたという屈辱に対し、烈公らが尊王攘夷の趣旨から当時として抗議したのも普通に何の不思議もない筈だ。少なくとも征夷大将軍として対外防衛戦を孝明天皇から求められている状況で、徳川将軍家(宗家)が勝手に条約を結ぶのも、尊王を大義とし、かつ将軍家もだけれども天皇家の親族であった水戸徳川家としては黙っておくわけにはいかないだろうし、それだけならまだしも不平等条約ときているのだから、定府副将軍が外部監査役として黙っていられるという風に考える方がおかしいのではないか? もしそこで黙っていたら端から『史記』伯夷伝に感動して史学を志した義公が中国史では幾度も亡びてきたが日本ではずっとあった古い皇帝の家である皇族と婚姻もしていないだろうし、『大日本史』以来のあの学風が形成される事もなかったろうし、要するに常陸国の近世史を知らなかった井伊直弼が、余りにお門違いな粛清事件を起こして烈公や孝明天皇ら君主階級へ挑発行為をおこなったのだから、それに対して侍階級が黙って置くというのもこれまた不可能なことだったのである。桜田烈士の行動って、恐怖主義とは何の関係もないだろう。単純に、死刑を含む冤罪事件による大量粛清者を自己犠牲でパージするしかないところまで追いつめられた侍階級が、直接の主君である徳川家とその主君である天皇家への忠義の為、行政上にやむをえない最終解決といったものだった。もし恐怖主義的といえるなら、公平にみて、井伊直弼のやった大量粛清劇の方だった様に思われる。果たしてポルポト打倒とか、ヒトラー打倒って「恐怖主義」だろうか。逆に恐怖主義者の排除ではないのか。烈公らが説得を試みた末に、井伊が一方的に話し合いを拒否してきて、議会すらない状況で、不当な冤罪や死刑・刑罰・お家取りつぶしの脅迫などをくりかえされ、廃帝まで仄めかされた。だとして、武力を是とする階級同士が、徳川家専制体制のもとで内部闘争によって結果的に井伊家を退ける形になったって、果たして恐怖主義といえるのか。天皇家だろうと徳川家だろうとあるいは井伊家だろうと、それらの政治権力は完全に武力で得た地位である。余りに武力支配が固定し続けるといつの間にか天然の権威と勘違いされていた場合があっただけだろう。だとすれば、彼らは全て恐怖主義者という事になるが、恐怖主義をどう定義しているのか。戦国覇者による武士道を議会主義と勘違いしているじゅんちゃんや関氏は、多重に無知すぎて、もはや歴史を語るに値しない知識水準だというしかないだろう。似た事は、京都の公家式の悪口や陰口での陰険な足の引っ張りあいが、イケズな受領の売官が、或いは天皇家式の無条件の世襲が――故に平安期以来の底抜けた政治腐敗が、国内どこでも普通の政治だ、寧ろ誇るべきだとでも思っているらしい原田氏にもいえるけども。そういう腐った政治しかできず、元寇にも無力だし収奪した税で贅沢三昧に耽って民衆の困窮を省みなかったから、京都政権は平将門の乱以来ついえたということを原田氏はいまだに反省していないのに違いない。
 長野が山奥の国で、京都市街地や奈良も山奥の盆地にあって、対外的危機感を感じるという機会は全然ない、或る意味、地形的に閉じたど田舎だといってもいいだろう。そういうところで生まれ育っていると、海洋国である常陸の知識人が、当時のアジアが列強の侵略においつめられていく世界史をとりまく状況で、正体不明な異国船の増加に逐一諸外国の情勢を調べてどう対処と戦略を練っていっていたか、知っている側としては、じゅんちゃん、関氏、原田氏らの言説はまことに傍ら痛い。しかもそれだけではなく、彼ら薩長・徳川ら武家勢力無理やりまとめてテロリスト扱いの悪意しかない言説の数々が憐れでみじめにみえて仕方がない。

 岩崎英重の『桜田義挙録』は、所謂ノンフィクションとして桜田18烈士がどんな経緯であれらの行動をとったのか追っている。自分が読んだ、歴史のドキュメンタリーとして明治期に丹念に資料や現地人の聞き取り、周辺状況を読み込んで書かれ、非常によくできた本に思われた。
 しかしそれに比べ、いかに現代の作家やチューバーの幼稚な事か。
 どうしてここまで民度が下がるのか自分は本当に呆れてしまった。まぁ正確に言えば、岩崎の様な誠実で真面目な物の見方をする人は現代にもいて、その人達とはまったく別個の不真面目極まりない外道が、ネット通俗化時代で悪目立ちしているだけなのだろう。

 暫く前、自分はじゅんちゃんというチューバーが自分より若いので、まだ未来があるのではないかと考えていた。それで彼が水戸学派についてろくに何も知らない段階らしいので、どうみても三文小説レベルの作家の本をうのみにし、原典や実地にすらあたらず勘違いを極めて見当違いの事を言っていると自覚さえできれば、少しは反省的に進歩する余地があると思われた。コメント欄で彼にその旨を返信してみたのだ。そうしたら、このじゅんちゃんという人は、恐ろしく意地が悪く、ひろゆきレベルの揚げ足取り的言説をしだし、自分は心の底から驚き呆れ、いわば「またか」という感じでゆとり世代の教育の失敗についてまたまざまざと知らされてしまったのだった。
 じゅんちゃんという人は、自分はもしかしたら将来何らかの物になりうるのではないかと初め感じていたのだ。それというのは、彼は安倍晋三氏の暴政の分析について、自分がみたかぎり最もうまくやっている様だったからだ。ところが実際に少しじゅんちゃんとやりとりして自分が悟ったのは、彼がどうしてそれをうまくやれているかなら、安倍氏と同程度の知能だから理解し易かったからだったと伝わってきた。破綻した思考は破綻した人格でしか理解しがたい。その意味で、彼の全ネット言論を鑑みてみると、じゅんちゃんが明らかに性悪で悪意がある三文論述ばかりしているといえる異端論客の様な人物に惹かれやすいのも、彼自身に似た部分があるかららしかった。自分は人物を見誤ったのを知った。自分は人を見る目にはかなり自信があった。しかしこのじゅんちゃんという人に、孔子的な「後生畏るべし」の観点から期待を持ち過ぎていたのを深く後悔した。

 全く同じ事は、水戸の徳川家も、天皇家に期待しすぎたのである。
 思うに、生まれや育ちがいい様な人物というのは、こういう思い違いをしやすいものなのである。慶喜公は、全生涯をみるかぎり、余りに生まれや育ちがよすぎたのだ。幕末にあちこちで跋扈していた連中は、明らかにヤクザの様な有象無象の魑魅魍魎達だった。西郷隆盛とか大久保利通とか木戸孝允とか岩倉具視とか伊藤博文とか。吉田松陰とか。坂本龍馬とか。どれほど裏切りや、腹黒く悪意に満ちた連中だったことか! それに比べて慶喜公といえば、烈公から尊王の大義を家訓で叩きこまれ、或いは弘道館の至善堂で四書五経から最新の水戸学者らの講義までを受けて、那珂湊まで御馬で駆けて散歩し、高萩の山荘から兄弟で海をみている様な、いかにもよき田舎でのびのび育てられていた。江戸に養子にとられてからは、都会の風俗で少しは世慣れたろうが、結局、烈公が計画したとおり田舎で清廉に育てられたという本質的な部分が、京都とか山口・鹿児島・高知とかの下士・下級公家の貧乏社会で揉まれ、恨みつらみを基に政権簒奪を狙い続けていた権謀術数主義者らの間では、非常に摩擦を感じたのに違いないのである。
 確かに、この意味では慶喜公と孝明天皇は、息が合っていたのだろうと思う。慶喜公の方が開明的で、孝明帝は保守的だったかもしれない。しかし親族だったのもあるし、互いに公の為に自分を犠牲にする精神をもっていたろうし、どうみても相互に協調している。問題は、孝明天皇を毒殺したとする岩倉具視の妹(堀河紀子)の証言がとれた、毒殺だったことをほぼ確実に示唆する明治天皇・生母の手紙や祈祷した僧侶・湛海権僧正の日記が出てきた、という新資料の点から省みて(『天皇家の歴史(下)』ねずまさし、三一書房、1979年。『中山忠能日記』所蔵、中山慶子の手紙。1866(慶応2)年12月18日から毎日加持に参内していた湛海権僧正の日記。孝明天皇の末期症状は『孝明天皇記』でとられている病死説に於ける天然痘の症状と合致せず、急性砒素中毒の症状に近似)、孝明帝を岩倉が弑して10代の幼帝・明治天皇に代替わりさせ、その上で政権簒奪のクーデター(反乱、国打ち)を小御所会議で西郷・大久保とともに起こした、というのが歴史的事実なのかもしれない。この点は竹田氏も、討幕派に都合がよすぎるタイミングからみても岩倉なら天皇暗殺までやりかねないし、最低でも天然痘で孝明天皇天皇が崩御したことは一度は回復した為あるいは末期症状からみてもあり得ず、天然痘生物テロ失敗は確定で、砒素かは断定できないものの別の毒薬による暗殺だったらしいこともほぼ確か、と彼の動画のなかで認めていた(【竹田学校】歴史・江戸時代編⑫~暗殺された孝明天皇~|竹田恒泰チャンネル2)。また朝彦親王の日記によると、孝明帝の側近の人々はその崩御後、鐘馗(ショウキ、中国の魔除けの神)の様な姿をし刀を帯びて現れる孝明帝の悪夢にうなされていた。

 一扨此度御異例此義ハ 大行天皇御側之人々何分異形物御咄有之候事由也被現候由俗ニ鐘馗ノカタチノヨウニウワサ有之候釼モモチ候而(スペース 欠マヽ) サシ候由也其後朝より(ゟ)御ホトヲリ被為有候由也
――久邇宮朝彦・著『朝彦親王日記』、下巻 御手日記六 慶応三年正月・五日。日本史籍協会、1929年。
 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920224

「鐘馗」の姿の一例

 (画像引用元:精選版 日本国語大辞典、しょう‐き【鍾馗】、コトバンク

明治天皇が成人後に慶喜公を皇居に呼んで過去の天皇家による徳川家へのぬれぎぬを晴らした時、「浮き世のことはしかたない」と慶喜公が言ったので明治帝は胸をなでおろしたと千田稔『華族総覧』(講談社現代新書、2009年、151ページ)にある。しかしこの時の徳川家、特に水戸の徳川家と天皇家の間の魂のすれ違いは、おそらく、性善的な人間と性悪的な人間の間の魂のすれ違いとして永久に残るものでもあるだろう。水戸の徳川家は余りに性善説に重きを置き過ぎていた。それで天皇家が悪意を持って忠臣へ朝敵のぬれぎぬを着せるなどと想定していなかったのである。岩倉家が或る種の奸臣として孝明帝への毒殺を含め国事に介入してそれをした、という説が正しければ、或いは正しくなくとも、天皇家は岩倉家に国事へ介入させそれに乗って東日本へ侵略した一家ともいえるので、このすれ違いは永遠に残る。天皇家は余りに性悪なので、常に自分達が上位者だという事になんとしてでもしたてあげないと、国民と同等以下の存在としては虚栄心が持たないのだろうと思う。その様な性格的傾向は関西地方の人々一般に伝染していて、彼らが中華思想のもとで近畿とか京都とか上方とか称しながらつねづね東日本全般を見下したり差別したりし、南関東に出てくれば北関東を相も変わらず関西地方でやっていた様に差別しまくるといった態度のなかには、完全に中華皇帝のまねごとの下卑た態度の感染がみられる。つまり天皇家の影響が残存しているのだ。だから天皇家は徳川家に対してもぬれぎぬを着せ、陥れ、強盗をしても恥じなかったのだし、その様な傲岸不遜な魂は、究極までも、国民に対してやってきた差別や収奪の数々で無数に立証されてきた話なのである。