2021年3月18日

感覚論

少なくとも芸術の分野で、年齢主義みたいなのは全く有効性をもっていないことは絶対に間違いない事実だ。
 頻繁に差別的言動をとる或る女を自分は人生で初めて見て、この人とたまたま一定距離で文通していた。その結果わかったのは、差別的思考はゴードン・ホドソン論文の基本趣旨で解釈できている部分とほぼ一緒で、一人のひとの中で色々な事柄へ共通で持ち易い偏見らしい。いわばあるひとの脳は解像度の低い認知尺度をもっていて、この尺度より複雑だと、自動で差別に頼る。特に無根拠な順位づけ、格づけ、偏差値化とかに頼りがちな人々は、世界認識の解像度が低い集団である。
 そこでこの女も、学歴とか国籍とか性別とか年齢とか門地とか職業とか容姿とかブランド物とか、想像できる限りありとあらゆる差別を連発していた。勿論自分は凄く驚いたし、会話の中で段々と末恐ろしくなりもした。というか、どんなにそれは偏見だと彼女へ教えてみても、次から次に別の差別をはじめるので、その女は結局、無限に彼女の周りに墓穴を掘っている状態であった。もし十分に愚かもしくは傲慢なら、恐らくそうやって、天皇家みたいな差別主義を宗教にまでしている一門が生まれるのだろう。その人も奈良の人だったが。

 僕は芸術に関し、正にこの年齢主義が何一つ通用しない場面ばかりみた。当たり前だが何歳だからいい絵が描けるとかない。その人が何歳の時にいい絵が残せるかも全然わからないし、当然、その時点で若ければ必ずいい絵が描けるなどということもない。

 しかしこの女は、当然の如く年齢差別をしていて、他人の価値が若さで決められるとでも言いたげだった。というか実際に言っていた。もし真実そうなら世界は若者以外いなくなっている。より高齢の人々の技量に落ちると認められる余地がなければ、どんな仕事であれ、若者に全生態的地位を奪われている筈だ。要は若さは同時に、未熟さや無思慮さといった負の側面の場合があるので、何もかも幼いだけで解決できはしない。

 日本の新聞の文化欄の紋切り型の論調、「若い感性で」という表現があるが、これも本当に意味不明。勿論いわんとしていること自体はわかるが、現実の芸術はそうなってないので。大体の芸術家の仕事は単に若書きで占められているわけではない。より正確にいうと、感覚が老いるなんてありえない様に思う。鈍い人と鋭い人に差がある状態がずっと続いているだけに感じる。

 感性論・感覚論は恐ろしく難しい分野であり、何でもいえてしまう、人それぞれなんでもありというのが素人意見だが、これまた現実にはそうなっていない。多くの人々が共通しいいと感じる表現だの現象もあるし、一部の先鋭的な人しか楽しめないにもかかわらず凄まじい感覚値を体現している作品だの物事もある。それどころか自分も色弱だし、同時にどうも敏感さはギフテッドみたいに思うし(東京みたいな地獄的にごみごみとし空気や水から大抵の人の心の底まで底抜けに汚い場所をほめてる連中は何を褒めてるのか寸分も理解できない)、感覚自体が遺伝的に他人と受容器官の次元で違うこともよくある。
 これまたネット上の一定距離で観察してきたある別の女が、あれこれセンスがいいだのわるいだのいっているやつなんだが、僕にとってその女のいいと感じているらしいものは、良くも悪くも三級の対象で、本当にすばらしいものをこいつは何も感じ取れない分際でなんでこんな傲慢なのか、と驚きまくったというか対人文化衝撃しか受けてきていない。その女の感覚論は確かに三流なのだが、当人のオバタリアン性のせいで全く無反省なる特徴が、その女を真実から途轍もなく遠い、紛い物の領分に置いているのだった。
 じゃあその女が一流のよさに触れて感激するかといえば逆に言い訳みたいなことを言って、なにも感じとることはできないのではないか。たとえばそこらのオタクに一級アート(例えばシミュレーショニズム権化としてのクーンズのラビットみたいなの)みせても首を傾げ理解不能な表情を浮かべ、三文アニメ(深夜帯でやってる萌えアニメみたいなやつ)に大発情し必死で汗かいてんだろう。事実そういう種類のサブカル女もみた。だったら感覚論って根本から他人に閉ざされた領域を語る世界なんだから、いうまでもなく自分には未知の感性をなんらかの手段で知るとか(盲人が抽象画を、音や説明、感触から推測するみたく)世界一理解難易度の高い分野の一代表格といってもいいだろう。安易にセンスがいいだの悪いだの断定できるつもりになってるやつは馬鹿である。したがってモギケンが日々簡単に、適当な感覚でダサい連発してるのは当人の埼玉春日部劣等感(なんで春日部だか日本全体だかが劣等感なのか、なぜ西東京だのイギリスのケンブリッジ界隈だのが他のスタイルを断定的否定できるえらい評価主体になりうるつもりなのか)しか何も示していない、と思われる。英米系外人が当人達もろくにわかってないこと(浮世絵とか漫画とかへ)なんでもクールクール言ってるのも似た様な感じがする。大体、だれでも簡単に言えそうな分類が一番やばい。そういう分野のプロ次元というのは底なし沼のごとく深く、素人はボウフラみたいに池の表面に浮かんでいるのでその深淵に気づかないだけだ。深海にいるアンコウのみている世界などつゆ知らず一見ポップぶってみなに金目の興味で近づいてきている分野が罠だ。ワンタップ投資みたいなことで誰でも簡単に儲かる世界は、世界一浅はかな馬鹿どもをカモにしているだけであり、その背後から巨大なクジラが一息で養分全損失をのみこんでしまう。

 感覚論は完全にこのクジラ、アンコウ以外は全滅する様な分野と思う。それだけに芸術家として危機をあまた乗り越えてきた熟練者は、簡単にセンスいいとか言ってる人あんまりみたことない。基本的にそこに含まれる全評価要素を相対化前提で考えてるからだ。勿論なかにはいるのかもしれない。『ぼくの哲学』("The Philosophy of Andy Warhol")によれば、ウォーホルとかその点適当で、アメリカンお世辞込みで言ってただろう。でもルノワールやセザンヌや小川芋銭や横山大観がいうイイネは、普通の観客のみている表層以外のなにかを指摘しているのかもしれないし、実際そうだった筈。もしホックニーとサザーランドに何言われても彼らのイラストっぽい絵や妖怪絵みたいな実作程度になるだけかもしれないから、もしかすればあっそうっすかっていってりゃよかったのかもしれないが、ただでさえ絶対化しがたい感覚の話題中で何かを断定的にいうとは、自分の感覚がおかしい可能性を完全排除できていなければ、そして自分の感覚に器官の限界や盲点がないとはいいきれない以上、究極の精度が必要だ。感覚精度に余程の例外がなければ事実上不可能といってもいいだろう。無論、その超例外がありうるからこそ世に感覚論が試みられるのだけども、それらの99%以上はまやかしという事だ。