簡読厨(簡単に読み解ける説明がそうでない説明より賢さの目安だと考え易い中坊・厨房の略)は、確実に難読文や難解な思想に親しんだ事がない人としかいえない。簡読文は簡読文にすぎず、文体の高度さや思想自体の深みや難しさと特に関係していない。
衒学と、学術の高度さ、或いは文の複雑さはさほど関係がない。
アインシュタインの特殊・一般相対論は簡素な文だが高度な時空論で、物理学の素人にとってたやすく分かりづらい内容を説いてあり、カントの三批判書は当人が『純粋理性批判』の序に書いてあるとおりしばしば難読文だが、やはり必ずしも誰にとっても分かりやすい中身ではない。また単なる難読漢字を敷き詰めた衒学の要素が多分にある平野啓一郎『葬送』は、実際に語られている中身が高尚で難解なわけでは必ずしもない。
なぜ簡読厨がそうでない文筆家、思想家より、単なる解説屋こそ賢いと思い込み易いかなら、彼らの理解可能性が稚拙なものだからだ。学術あるいは思考の地平は広く海底は深く、彼らが一生涯かけても到底わかりえない部分の方が遥かに多いのにもかかわらず、その畏るべき深淵を覗き込んだ事がない、もしくは、覗くのを嫌がって自分に分かる浅瀬で遊んでいるつもりなのだ。
彼らが行き着く果てが衆愚政治で、結果、国を亡ぼす母体になるだろう事は疑えない。扇動屋、大衆迎合、どちらも民衆の総体が耳障りのよい嘘つきたちを、彼らには未知の真理、正義を語る哲人たちより好んで近づけ、高い地位に就けた末路として出てくる病理現象だ。学歴差別もその一種かもしれない。彼らは中身を問わず、肩書きの立派さだけでその人の愚にもつかない言動を崇め奉って済ませている。だがその肩書きは語る事柄の正しさについて何の保障もしていない。
だから賢者はただ自分の知性の限界に謙虚でありつつ、理解できる範囲を超えては判断を留保すべきなのだ。圧倒的賢さは、有限な認識能力では理解できないのだから。そして日々、自分には理解できない事柄、特に高尚さについて少しでも分かる範囲を広め深めるよう生涯つとめねばならない。