幕末の西軍、薩長土肥京芸(小御所会議以後、西軍に就いた鹿児島、山口、高知、佐賀、京都、広島らのおもたる各自治体)らは狡猾な二重基準を使っている。
第一に彼らは前将軍・徳川慶喜へ濡れぎぬを着せる目的で、尊王主義の彼を朝敵扱いした。しかし実際に慶喜は家訓の通り天皇へ徹底恭順し、西軍が彼へ濡れぎぬを着せたことは公然と明らかだったので、西軍はさらに彼へ臆病者とのレッテルを貼って相矛盾する汚名を着せた。
だがこれは西軍が悪意で嘘をついていることしか示していない。
1.天皇軍に逆らって天皇軍に勝敗した
2.天皇軍に恭順し天皇軍に従った
このどちらの場合でも1なら朝敵、2なら臆病者と汚名を着せ続ける集団は、正に冤罪しか目的がない、極悪犯罪人集団というべきだろう。
幼少期から弘道館で教育された水戸家嫡出の慶喜も当然立脚する水戸学尊王論の立場では2は英雄的行いとされる。したがって慶喜は朝敵ではありえない。同時に、天皇軍に従うことはその立場では臆病でもありえない。むしろ大義名分を知る、最も勇気ある自己犠牲の一つである。
こうして西軍の立場は最初から理論的、倫理学的、国学的に破綻しており、かれらが反尊王主義者、あまつさえ「勝てば官軍」を合言葉にする、単なる野蛮な暴力至上の権術主義者であると証左している。