2020年12月23日

ある高校生女子の猥褻同人誌風漫画を公募展で受賞させた東京都のサブカル思潮についての総合美術批評

高校生同人誌作家の猥褻漫画絵が東京都の高校文化の合同展みたいなの(31回中央展なるもの)で受賞した事で、色々、オタクカルチャー特有の「(女)性の物化」への批評が出ており、特に当然予想される事としてフェミニズム観点からのそれがかなりあるのだが、一番面白かったのは「そもそも漫画絵自体がダメだろ」というのだった。

そもそも漫画絵自体だめだろ。他の表現が相応しい場に漫画絵が入り込むことによって、漫画絵ばかりが増殖し侵犯し、どんどんこの社会の絵画表現が貧相なものになってゆく。広がるんじゃなくて、狭まってるんだよ。
――志木❄@silokane7

これは本当に笑えるし、しかもこれへ「頽廃芸術視かよ」というつっこみまで入っていて余計うけた。

 確かに僕も、村上隆や奈良美智の活動や絵自体に、ずっといいと感じた事が基本1度もなく、欧米、外人や都民らの偏った東京サブカルの扱い方――現代日本美術代表ほぼ同然の扱い方にも疑問しかないので、漫画絵のアンチに近い。というか子供の頃から身近に漫画と親しんできて、小学生の頃は漫画イラストクラブで、自分でもドラえもんとかあまた描いてた上でそうなっているわけだから、あるいはまた青年期に東京で育った一日本人の現代美術家として、心から誠実なまなざしで、現代東京文化なるものへ総合批評的にそうなっているわけであるが、だからといって、同人誌を「頽廃芸術」扱いか? ってのはそりゃー頽廃芸術だろ、としかいえないのが凄い。
 そういう意味では会田誠も隆も頽廃芸術であろうし、大きく見ればナラミチもそうなのかもしれない。何せ会田と隆作品は大抵が愚にもつかないエログロナンセンスでみちあふれており、両者とも適当な美術理論でそれらを正当化してきているだけである。別に彼らをわるくいっているわけではないのだ、これは。単に冗談抜きでそういう作風なんだからしょうがない。
 ナラミチの場合はシンプルに幼児退行じみた絵ともいえようし(これまた別にわるくいうわけではなく、ただただそうなのでしょうがない)、さすがに会田や隆に比べれば下品ではないかもしれないにしても、わが国の代表みたいな扱われ方にはどうかなぁ、っていう。オールオーヴァー・アートぶってない、いわさきちひろとかいるわけで。抽象表現主義のバリエーションに比べても、よかれあしかれ幼稚だよなぁって代物としかいえないのであって。僕の父親とか子供の頃から『のらくろ軍曹』とかに親しんでいるにもかかわらず、「はっきりいって漫画を(美術としては)馬鹿にしてるよ」といっており、青森の十和田市現代美術館でも外壁にあるナラミチの落書きをみて、死んだ様な目で全く感心せずそういう風にいっていたとおもう。大体、謎の少女衆がなにかロリータコンプレックスか幼児性愛もどきの群像にみえなくもないし、実際僕の目にはだが特別かわいくもなく冷静にみればどっちかといえば不気味ですらあり、褒めてる人たちも自分にはさっぱり意味わからない。同業者の競合性とかぬきに素で、私はあの漫画少女1人が描かれてるタイプの絵は、一度もいいねとおもったことがない。レゾネとか美術手帳とかでみたけど、やっぱ初期の『雲の上のみんな』だけは、立体感をなかば無視しつつ、線描のキャラと背景の色面の間でパッサージュ(はみ出し)技法つかった独特の構成で面白いとおもったけど。私はいいと思うものはいかなる枷も外し、全力で褒める人だ。ナラミチツイッターみてると、幼稚園の先生でもないのになぜかリアルで当人の子供ではないっぽい小さな女の子の可愛い方のとふれあいばっかりしており、そこからみても、作者のある種の子供好きの一種かなにかの、Mr.(ミスター)と或る程度似た面のある幼女愛の、おそらく一種抑圧された複合観念の絵と解釈されるのが筋なんじゃないだろうか? と思う。それでなにかおどろおどろしい、無意識からわきでてきた亡霊みたいなおっかない雰囲気になってんのである。うーん、幽霊みたい、と。キャラとみても物語とみても、絵本のノンタンの方が余程すなおに、3歳からすでに僕が共感できまくっていたくらい可愛いのである。
 他人は騙せても僕は騙せない。だって僕は素直に心の目で絵を見てるのだ。直感で。曇りなきまなこで。外人は騙せても僕は騙せない。素人は騙せても、プロは騙せても、僕は騙せない。これが本当の話。

 で、これら3者がアートとしての漫画を堂々と扱ってる現代ジャパニーズアート系ご老人達であるが、彼らの跡継ぎだった世代のカオスラは、そのリーダーがゲンロンスクール不倫暴淫不当解雇事件で大炎上、みてた感じ、出世売名レースからコースアウト脱落した様であった。目立つ残党は、隆の弟子であるミスターくらいである。
 ミスターの絵は、最初かなりいかがわしい幼児性愛系の変態性欲同人誌もどきから延長し、やがて少女性そのものを純粋化する様な絵も描いていた。アンフォルメルっぽく漫画的要素を断片化し、再配置するのはカオスラの梅ラボと相似だったが、それと違うのが、作品全体の一部にみられる少女の心を描き出そうとする様な内面表現的私小説的な部分だった、と思う。最近は断片再配置系が多くそういう絵でもないが。しかしミスターの作品一般はどっちかといえばエロスまじりっぽい艶っぽいティーン少女を美化した表現であり、いわゆるロリコン傾向で、もともと純情系は多くない。
 ――だから何って話だが、村上春樹がついぞ清潔派から嫌われたまんまなのは、神奈川県大磯へ流れ着いた下司な紫式部的に京都生まれ神戸人が勘違いアメリカンお下劣性描写から一切逃れ切れてないからで、純情系ばっかで子供にもまだ安心して勧められる方なイギリス田舎者化したカズオ・イシグロに、小説家の地位として公的に大差つけられたのは絶対、そこに主因があると思う。幾ら売れたい、金ほしいからって、あるいは当人の私徳の資質が低いからって、都会かぶれで不倫淫行をかっこつけ猥褻物まきちらしてりゃー偉い! とならないのが、芸術の品位というものだからだ。これは本居宣長もののあわれへの批判でもあれば、女権なかった時代の山城界隈での天皇やくざ一味による一夫多妻にまつわる乱倫の有様を美化してるだけだなぁってだけで、僕的には大していい作品とは思えない『源氏物語』を至宝扱いしてる日本文学研究者へのそれでもあるが。実際ひどいな、これは、と感じるだけで、流麗な言葉遣いとは別に、ひどく悪趣味という印象で、全編読んで一度も感激できないのであるから。巧言令色すくなし仁。毎度も書いてるが、同時期の古典なら『平家物語』は涙なしに読めないほど立派な道徳、その中でもいわゆる戦国武士道が格調高く描かれてる、と思うけど。
(なおミスターも兵庫県出身で埼玉に来た人である)

 まぁいづれにしてもナチスのいっていた「頽廃芸術」は、近代芸術の前衛傾向の物を指していたわけで、ヒトラーが古典主義者、特にイタリア・ルネサンスあたりが好きだったのと関係している。ムッソリーニにそれらを案内され大感激していたらしい。いうまでもないが、ヒトラーは軍人から政治家になる前は小卒の画家志望で、いわゆる古典的な写実画が画風だったが、一般的な貧乏画家と違ってそれなりに売れていたっぽい話もある。
 近代美術の中でも、猥褻性の扱い方はマネ『草上の昼食』『オランピア』あたりから散々議論されてきた部分であるが、漫画の二次創作として性行為や変態性欲を描く同人誌――特に東京で盛んにコミックマーケットなる所で取引され、2019年だと動員数が75万人いる――は、文脈上まだ立派な美術視、ファインアート視されていないし、実際、国際的に一般社会の人達があれらをみて、表で認める可能性は殆どありえない様なしろものばかりである。外人でもそれらを好むオタクがいて、しかもウェブで観察できるかぎり潜在的に相当いるのではあるが、単に未成年を描いたエロマンガもってただけで逮捕されることもある欧米社会で、表向き威張れる状態ではないだろう。特に同人誌は、幼児性愛とか、性犯罪を美化する中身が凄く多い。日本人の一部に、性的少数者として、そういった性に関する国際的定義での不道徳や、性犯罪を合理化する目的で、同人誌取引の場で群れて、自己表現や相互承認での慰みしている人々が相当いる証拠であろう。
 つまり、東京都議会ではゾーニング問題で既にとりあげられたことがあるにしても、日本の国会とかで同人誌の有償取引が「猥褻物頒布罪」として禁じられるべきか? について議論の俎上にのぼった際には、実物を児童保護者とか、フェミニスト含む国会議員がその場で見る必要がおそらくあるだろうし、それは甚だ一般人に衝撃をもたらすことになるであろう。いくら幼児性愛も思想表現の自由とはいえ、あからさまな児童姦淫の描写などで満ち溢れた実に不埒なる同人誌なるものを放任してきているわが国の頽廃性は正義だったのか? となる。国連でもいづれ同様の議論になる筈だ。
 一足先に、未成年者として18禁のゾーニングが事実上成立していないネット経由で同人誌になれしたしんだ少女が、同様の猥褻表現のいくらか軽い版を、東京都高校文化祭の総合美術展でまかりまちがって受賞してしまったばかりに、変態性欲のオタクたちは遂に自分達の性的少数者として置かれてきた日陰の地位が改善するかと見越しツイッターでは大歓喜していたが、同時に、これまでもフェミニストとオタクの間でたびたびくすぶってきた戦いの火蓋がきられた、といってもいいかもしれない。宇崎ちゃんポスター炎上とかが前哨戦。それは人類の良識と、頽廃主義を是とするありとあらゆる姦淫妄想まみれの東京人オタク達(なお女性オタク軍、いわゆる腐女子軍も大勢いる)の最終決戦の様相を呈し、どちらかが勝利を収めるまで続く。

 私はなるだけ係わり合いになりたくないので、全くそれら第一次オタク・フェミ最終戦争の、甚大な被害が予想される戦禍の外に出るしかない。かなり以前からそれらサブカル対アート世界大戦開戦を予想し、純粋抽象画(理想画)の安全圏へ先んじて退避していた――既に再現芸術の模倣にまつわる諸問題を最大限克服し、安全地帯まで前衛の歩みを進めていたともいえるのだから。

 漫画やアニメ、ゲームはすばらしいアートだぜ! と、うそぶくジャパニーズ・サブカルファンの、とあるオタッキーなイギリス人に、かつて私が同人誌作家たちの絵を
「こんなのが漫画の一部としてあるんだぜ? 本当にこんなの褒められた文化だと思う?」
とみせてやったら、そのイギリス人は大発狂した。そして別の或るノルウェー人と一緒になって、寧ろそれら東京ゲス文化に外部批評的な僕まで「日本」カテゴリーで同類視してきて、僕が描いたわけでもないのに、なぜか僕が散々侮辱された。のも、いってみれば、東京人の相当数はじめオタクたちのせいなので、オタクたちへ或る種の怨恨はある。もとよりこの国で立派な芸術や、まじめな前衛美術が全然売れないのは、下衆どもが東京や京都を中心に、凄まじい下品さ、稚気、反知性主義の低俗なサブカル空間に夢中で大金を注ぎ込んでいるからだといってもいいだろうから、或る意味では自分の天敵たちでもある。
 だからといって私は単純にオタクアートを殲滅しようとは思っておらず、どう料理し始末してやろうかな、と、もっと戦略的に彼らサブカルファンどもへ徹底復讐または、彼らの醜態ごと灰燼に帰しうる状況を作ろうと思っているが。また彼らを擁護していた老害とか若害とかもまとめて、文化闘争の中で二度と美術面できなくなるまで、至高至美なる美の女神ミューズの下す大義の前で、一匹残らず退治しなければならないだろう!

 ――と、思うともなく感じなくもなかったのだが、上記の「そもそも漫画絵自体がダメだろ」のつっこみをみて、少し、自分の考え方を疑いだした。えっ、自分以外にもそう思ってる人がいたのか! 括弧笑い、括弧閉じると軽く驚き、飽くまで全人類でただ一人の勇士が自分なり、億万人といえどもわれかんと信じていたのが、別人も同じ歩みを進めているぽいのを目撃し反サブカル観念論そのものを客観可能になったのだ。
 確かに東京発の漫画絵は江戸発の浮世絵レベルに下らない通俗性があるにしても、絵としては高が線描手法で、そこまで手法自体が悪いのではない。幼稚にみえる絵かもしれないが、週刊少年雑誌内で子供に毎週手際よく紙芝居を物語る為ああいう速描形式に収斂してきたものだ。だとすれば、悪いのは漫画形式じゃなくて、それを悪用している漫画作家なのだろう。また、究極ではどれだけ醜悪な頽廃表現も一応、表現の自由であるからして、犯罪的内容だろうが、誰か個人とか集団とかを具体的に危害なす目的で攻撃しているのでなければ、それ自体が犯罪なわけではないかもしれない。
 漫画絵、同人誌を描いている人達の、思想内容の方に問題があって、表現手法が邪悪なのではないのかもしれないわけだ?
 実際、非常に善なる内容を、例えばヒューマニズム的な内容を語りえている代物もあるだろう。『ブラックジャック』とか、大長編ドラえもんのシリーズとか。つまり、へぼ作家しかいないのが問題なわけであるし、そもそも、性愛の表現だって別に大人が見る分には、一種の官能性の追求にすぎないかもしれない。有性生物の哺乳類(又は、創造説内部では神の被造物)から性欲のもたらす諸現象を完全除去できないからには、性表現とか性描写とかを表向き隠す方が一般に上品だとはいえ、その内情を全く表現不可とするのも人間性への抑圧ではないか、寧ろ美化されうる限りすべきではないか、というシャルル・ラロ的な性愛の諸要素を肯定する芸術論の立場もある。

 中央展炎上の戦端は
「未成年者が公然と猥褻物展示する自由、並びにそれを大人が美術館で許可、なかんづく奨励する必要はあるべきか?」
だが、某高校生の親とか保護者、学校の教育が、性道徳面で堕落してるだけだろうし、実際マネだって私生活では性病(梅毒)こじれて亡くなったといわれるくらいそうだったのだ。江戸時代から遊郭社会が有名な東京とか、全地球でも最大頽廃都市のひとつで、今でいう性風俗業界(性産業)に未成年者が近接しててもおかしくない。
 あれの展示責任は、当の未成年者と、彼女をとりかこむ東京都民の性風紀・教育環境や、東京都の教育委員会にあって直接、私にはない。
 私見としては、表現の自由として描いてもまぁいいけど、わざわざ描く必要もなければ猥褻物陳列罪になる可能性しかないから公共展示する必要もない絵だし、あまつさえそれを保護者とか学校教員とか、中央展の審査委員とかが褒めてしまう時点で東京都民ってプライドばっかり高く、中身さっぱり、いつものごとく人類最底辺級に悪趣味ではなはだ軽蔑すべき衆愚だな、未成年者らしきやつに違法な酒のませ下着チラリズムメイドじゃねぇわ、このアキバ風俗の同人誌作家めが、という感想くらいである。さほどうつくしいともおもわんし。寧ろただの猥褻物とみてもエロスなのかなぁこれがって感じで中途半端だし、美術品とみても微妙に人物の立体感がゆがんでて人体がなんとなく平坦にみえるだけでそれ自体もセザンヌ的な前キュビズムっぽい意図してる様ではなくうまくかけてないだけっぽくことさら新鮮さも面白みも、伝統的風格もない。ツイッターのオタクたちは作家自体が卑猥な妄想をうけいれてくれるはず風俗作家に違いないというあからさまな性欲を直接作者にぶつけており、相手が18歳未満なら条例違反ではないのかな? という文脈で妄想大発情していたみたいだが――そしてその高校生女子自体がそういうゲスな返信ツイートを進んで消したり、迷惑がって回ってるわけでもない上に、元来がネット18禁スペースにおそらく18歳未満なのにもかかわらず猥褻漫画を展示していた人なわけで、そういう性的に堕落した精神といおうか、もともと当人が好むと好まざるとにかかわらず、あるいは多かれ少なかれ高校生時点で遊女性を好む性格になってきている人なんだろうけども――専門的に見て、それ以外どんな感想がでてくる絵なのだろうか?
 自分に予想できるのは、あたまのわるい東京の美術予備校講師級・高校美術教師とか、「背景まで良く描き込まれてる」とかいって褒めそうと思ったが。時間かければそうなるだろうけど、だからなにってだけなのに、である。フラスコ画時代の細密描写だかがあまねく正義でもあるまいし、くだらん根性論である。
 上記の私怨こえれば漫画アーティストとかどうでもいいともいえ、私としては相手にしないのが最善ではないかと思う。そして自分に彼らを利用できる機会がくれば、利用すればいい。なにせ、僕へ集団認知の誤認でぬれぎぬきせた、あのイギリス人とあのノルウェー人が悪いだけである。

イギリス人=動物虐待のダミアンハースト=器物破損罪のバンクシー
という公式くらい阿呆臭い。悪いのはダミアンとバンクシーなのであって、それをほめてるイギリス人も同罪ではあるが、やめてよ~といっている人達に限っては良識が認められるのと一緒。同人誌とか漫画とか下品なのはちょっとねぇ、とか、子供が読んでも中身が立派ならいいけど下らないのが多いし大抵、つまんない東京人や京都人らのただの金儲けだな、といっている常識人は、日本人でも過半であろうけれども、鑑賞力が低落してもいないし、ひとたる良心をもっているのだ。