2020年12月31日

集団のノリについて

僕ははてな村というのが京都の一部の陰湿な裏社会みたいで凄く嫌いで、一度、アノニマスダイアリーというのに何か書いてみたらかなりすぐ陰険極まりない誹謗、典型的イケズがきたのでこれダメな場じゃん、と感じ生理的に無理で離れた。以後一切近づいていないが正解だった。

 2chが東京人ひろゆきの赤羽スラム的最悪さであれば、はてな村は京都人的イケズ共同体の最悪の面を引き継いでいると思う。それらどちらも大変閉鎖的で排外的な衆愚が全体結束主義で仕切っているのは一緒なのだが(なお日本語ウィキペディアとかもそう)、はてな村の方は色として俗物主義まで加わっており、なおかつより底意地が悪いのが事実だろう。例えばアスタリスクと番号振って*1、無意味に学術論文の体裁をとるはてな村特有の文体とかそれであり、ファボというのか返信みたいな形でいわれてる事は2chねらーと何の違いもない。
*1 意味あるか?

 どこでも多分そうだが、性の悪い集団というのは潰れる以外では根本的問題が解決されない。構造が悪いのだから、いじめっ子グループ、不良集団は、働き自体がダメ。いわゆる悪貨が良貨を駆逐している状態になったらそれは集団の死に至る病である。今の東京都もそれ。彼らは原発公害を反省する余地が全くなく、驕りまくって全国蔑視を続けるしかできない。集団犯罪装置状態になっている。
 狂ったセクトから助かるにはその集団から一刻でも早く外に出て、正義の軍に彼らが一網打尽にされる前にとばっちりをうけないよう難を逃れるしかないのだろう。しかもできるだけ早く、李下に冠を正したとすら認知されない英断力で。たとえ不良集団内部で改革しようとしても仲間に足をひっぱられるばかりで余計な時間を食って、その場で優等生集団に即加わるよりはるかに大した成果が得られないばかりか、結局無駄になる事が殆どだろう。所詮、働き自体がおかしいのだから、巨神兵みたいなもので。

 すばらしい文化を生み出しうる集団ってのは、最初からこれは凄い事になるぞ、という流れにある筈だ。そんなのがどこかにあって、そして偉大な学術を残し、例えばフランス啓蒙思想家らの百科全書派サロンとかきっとそうだったんだろうが、当時まわりがみててもこれはすげーな、中でもわれらは偉い、人類全体を善美に導く尊く高尚なる使命を背負っている! みたいな感じは集団内外で、アンチ以外には共通してあったんじゃないかと思う。今の国連人権擁護委員会的な。
 僕が参加し、体験したSANAA、特にその専門性の核になっていた妹島和世建築設計事務所は完全にそれだった。働き自体が偉大すぎるのでだれの目にも偉業の完成は疑えない。嘘抜きで参加者全員が昼夜問わず全力で一つの目標、設計作業に全身全霊で向かっているのだった。ああいうのはある種の高校文化祭以外でまずみられない。体育会系の文化系的な青春でしかありえないのだろう、きっと。事務所の中で学生っぽい所員が余りに作業しすぎ、寝泊りするレベルに建築設計という価値ある、と信じうる仕事に心底熱中している。なぜ熱血安藤忠雄以後に妹島和世が斯くも世界の頂点とったかって、大抵の建築事務所ってもっと適当に違いない。間違いなく天才系ワーカホリックのある種系の典型であろう妹島氏の個性に由来しているのだろう、独特の寛容な雰囲気と――何せこの僕は今から15年ほど前、事前連絡なくいきなり自力で住所非公開の事務所を著書等の断片情報から探し出し、恐らくここであろうとのその入り口前で妹島氏が出てくるのを或る昼下がり頃待ち構え、当時運転できなかった妹島氏と運転役の某所員さんが2人連れで出てきて某アルファロメオみてーな車に乗る前に颯爽と馳せ参じ、弟子入りのつもりで「せじまさんですか?」、妹島氏「はい」、僕「働かせてください」と頼み、1度「あー、とびこみはやってないんですよぉ」と断られても「え(とても意外そうにがっかりした顔)、お願いします」と引き下がらなかったのに、妹島さんは3、4秒くらいそれをみるやなぜか憐れみなのか微妙に複雑な表情で「吉田君に聴いて!」といい、「やった、ありがとうございます」と言う自分が、妹島氏らの出てきたでかい入り口から、あの上がるたびに鋼鉄階段カンカン音がする倉庫2階まで入るのを許可してくれたのである。このやりとりに使われた総時間は計10秒くらいだったかもしれんが、今考えると妹島氏はさすがに判断力がすさまじく、もしかすると急いでた可能性を考慮しても、異様に仕事が早い。これは後世にかきのこす意義があるだろう。僕にいえた義理じゃないだろうが、自分が仕えるにこの人しかいないと見込んだ確証バイアスとか超えて今世紀に傑出した人物である。隣の所員さんは一瞬で希な(のだろう)出来事が済んだのでなんか呆気に取られたみたいな感じで眺めていた。ペリーなんて吉田松陰と金子重輔が小舟で黒船のりつけ、お願いだ世界旅行に連れて行ってくれと必死で頼んだら、ペリーのあたまがかたすぎ、松陰らがしゅんとしても断固断りやがったのにである(『ペリー提督日本遠征記』)。今から考えると我々(自分は単に妹島氏の仕事を手伝う事で建築を学びたいだけ、文脈は異なるものの、ほぼ同年齢で、深謀遠慮の末、かつ同時に血気に逸って勢いで行動しているという意味で僕と松陰と金子)いづれも若気の勢いでしかないのと、妹島氏の心の広さはこれは問題のあるたとえであるが皇居で浮浪者へ炊き出しやった事がないのに国民の慈母面の平成上皇后以上というべき(妹島氏の水戸一高卒水戸学尊王論がもしあれば、それに最大限配慮しても最低でも日本国ならびに国民統合象徴の奥さんにとっても主権者一国民として模範以上たるべし)であるが、当時の自分は断られる可能性とか何一つ想像せず、さも当たり前の宿命の如く直接弟子入りに行くしかないと信じきっていたのが孫正義の藤田田特攻みたいでなんとなく不思議でもあり、しばしば脳の幼さ、無鉄砲な若さってそういうもんなんだろう――ある求道精神的な根性の中で、夜8時とか9時とかに海外の現場だかから帰ってくるやそこで即仕事開始する妹島氏を筆頭にSANAAなる建築集団は時間切れまで毎回、徹底的にできる事を全て関係者全員でやりきっているんじゃないのかな、的文化は、みた感じわかった。僕はその本の下っ端のはしくれで、ルーブルランスのプロトタイプだったと思う模型づくりを、上司っぽい先輩所員に指示されるままちょっと手伝っただけであるが。あれは夏で、窓を開けても風など入らず風鈴がほしいなぁと田舎人の僕がいっていたら、その場にいなかったからそれを聞いてたとは思えんが途中で妹島さんがなぜか学生の模型お手伝いスペースの真上にクーラー設置してくれた(ほか大量のおにぎりを差し入れしてくれたことがあった)慈愛風の事跡などから推測し、多分僕がいたのはおおよそ夏の間中であり、1ヶ月から最長でも2ヶ月以内くらいだった気がする。人という人、21、2才の僕・私らという僕・私らがうもれるばかりの、というか埋もれていた試行錯誤模型の山の中で。
 完全な自己犠牲と自己実現の一体化が仮にあり、それが一人の美術家という存在の中に顕現され得、現代のダビンチ(かヴェロッキオ)がいて工房があれば、それは妹島氏の今も生きている筈わが国あの空間(当時は天王州アイルにありました)であり、芸術創造現場について少々見る目さえあれば、それはそれは圧倒され心から「うーん、なんか当たり前に学園祭のとある日の裏舞台みたいな適当っぽい集まりくさいここがか」感をいやましに深くせざるをえないであろう。その目しかない僕以外には、同時代になめられてんだろうか、という扱いであった。それは実際にそこにいてみないことにはわからない感覚に違いなく、やっぱ後世からみたら教科書の偉人扱いでも、当時の人らってこういうろくに理解されず蓮っ葉みてーに半ば見下された様なもんなんだったろうね、特に無名時代。毎日一緒にいるから所員が適当に扱ってくるってウォーホルが『ぼくの哲学』でいってたけど、僕も日々、ツイッター等で人類全員に小馬鹿にされ無視されきっているばかりか名誉毀損罪や侮辱罪、心を傷つけまくってくる悪意ある誹謗中傷しか受けていない、日本人一般から。ま、当時の妹島事務所もすでに無名時代ではなかったんだけど。しかしやってる作業からしたら実はすごい筈な訳で、実際、なんかしらんけど僕も実は、フランス国立美術館の新しい別館というあの世界の全建築家連が嘗て一度も担った事がない偉大な歴史的建造物の模型案を入ってきて即日とかで、いきなり手伝わされていたのであろう気づいてなかったけど今の今まで。なんかきてた外国とつくにクライアントぽい人とかもそういう「これはー、見た目ごちゃごちゃしてるが目的が1つに、実は宇宙のよう背後で緻密に統一されているゥ」的な。Universe的な、フランス人とかイタリア人とかインド人ぽい人も謎の上から目線のアメリカンも色んな種族がめがねかけた白いシャツの若い東洋人学生(私です)を目前にぐちゃぐちゃ動く、これで仕事してんのか? と好奇の場を見る目だった気がするしね勘違いでなければ。今はどうかしらんけど当時は実際そうであったろう。或る朝いったらフランス男がなぜか、わけのわからん椅子の模型みたいなのを一人でせっせと作っていた。手でそこらのカッターでシュッシュってスタイロフォームをお椅子さんに座ってお椅子さんに削って。勝手に君の作品か? なんかの案なのか、あれは。いわなかったけど。適当に作ったにしては自然には生まれないだろう何かの断片みたいな、模型用の白いあのスチレンボードが不定形な形状になっているなにかとかおそらく建設資材メーカーから取り寄せた巨大な素材サンプルとか、多分スプレーとかで背景にし謎の抽象的模様と色がついたダンボール片なんだか板なんだかじみたなにかとか落ちてるもの全てがアートにしかみえん。まぁやたら謎レベルの高い美術部がもしあれば的神がかりさで、全部なんか美? というか変な洗練度に近い、その場のごみ全てが一定より高度に美術性を帯びている。但し西沢立衛さんのサンダルつっかけ姿から発される情けない音を除けば、素で。当たり前といえばあたりまえか。一応サンダル氏除けば、もともと最高精度で所員が全力投球で考えた設計案のなれのはての姿があれらなのであるから。余りに空振りの数が多いから夢の残骸が無限にでてくる。そこで私は毎日自主的に掃除したので、妹島事務所の某古参所員さんに感謝された。いつもありがとうって。変な話、僕しか掃除してなかった。
 よくあんな感じで、夏でだらけてたとかでなく、なんとなく組織になってない組織で世界文化史必携級の仕事を完成させてた、完成させていくだろうもんであろう。奇跡の組織。いわゆるTHE会社ではどこまでもない。自由を呼吸と信じている僕は、参加するならそういうベンチャー企業状態のところにしか行きたくなかったし今後も行きたくないし、つくりたくもない。但し妹島氏の喫煙習慣の存在を除けば。当人の前で説教するまでの身分じゃなかったからいちオープンデスク生扱いだったから目の前で副流煙吸ったけど言ってないけど!
 詳しくしらべてきた限り、天心に進んで就いた五浦派とかもそういう感じがする。ある高貴なる清浄なる理想に奉職している、プロテスタントや隠れキリシタン的な結社性だ。

五浦派いつうらは
2020年
資料写真をPaint.NETで加工したPNG画像
1000 × 719 px
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 実際いまから見返しても彼らの画風は黒田らの洋画、と呼ばれる擬似西洋古典主義もどきより、相対的に独創性を帯びていた、といわざるをえない(例えば同じ画題について様式、物の見方、構成法、技法、精神の差がみられる、横山大観『群青富士』黒田清輝『富士之図』の対比)。

横山大観『群青富士』
絹本着色、六曲一双屏風
各176.0×384.0cm
1917-18(大正6-7)年頃
 
黒田清輝『富士之図』、6点中の1点
板、油彩
25.0×33.0cm
1898(明治31)年
 
明治政府・薩長藩閥の文化論的限界は、欧米猿真似にあるが、その最初の決定的批判者が五浦派だった。彼らは早くも明治思潮の偽物感をみぬき、本物とは何かの一解答を提出していた。

 逆のコミュニティ、悪事でもなんでもやっちゃえやっちゃえ的な、勝てば官軍わるノリ連中なんて全部、近づかないに限る。しかも一切。ユダヤ人をそうやって皆殺しにしていったナチスも大概、戦犯とかとしてサイモン・ウィーゼンタールらナチハンターに徹底追跡され処刑され終わっている。
 業はどれほど遠くまで逃げようとも最後まで追ってくる。

 ノリでわかるというか僕なら松下村塾は、例え当時の山口人でも絶対行かなかったろうと思う。明らかにサイコパスの教師に就いたらどうなるかなんてわかりそうなもんだ。実際あの松陰カルトは教師も弟子も全員死んだし、その153年後の今まで侵略国家のテロリスト集団として国際的悪評ならびに消えない侵略罪業の原因になっているし、信者どももひたすら醜い自画自賛しかしていない。
 馬鹿や悪人、悪党に不道徳系狂人は同士を集めてしまうのだ。