2020年12月12日

人間界では「いい子にしていればいいことがある」べきである

よく親が子供へ「いい子にしていればいいことがあるよ」とかいって育てる。親の手間がなくなる様にしつけている狡猾な面もあるが、これは子じゃなくても究極で同じではないかと思う。
 それというのも自分のみてきた限り、人は少なくとも物理的・倫理的に業の結果を受けるわけで、悪い事をやって善い結果を受けている様な場合は、その分うらまれより大きく復讐される、と考えていいのである。
 この意味で上述のしつけは決して、真理を穿っていないわけではない。

 ただ大人社会でより複雑なのは、いわゆる道徳相対主義の観点から、別の正義観がありうるという点だけである。だがこれも一つの倫理学上の立場にすぎず、共通の正義は最低限度の規範なら法になるし、最高限度の規範なら名誉または自尊心(いわゆる誇り)になる。
 けれども正義には疑い得ないものがあるとする道徳絶対主義、あるいはより上位のものがあるとする道徳段階主義(こちらは今私が造語で定義した)からいえば、「いい子」「いい大人」は必ずしも人それぞれではない。つまり全員一致で善人とみなせる状態か、少なくともよりましな善人とみなせる状態がありうる事になる。

 こうして最初の命題は、立場次第では大人にも十分通じるしつけであり、自分の知る限り、善人が不幸になって喜ばれる場面は、余程ひねくれた心の持ち主(性悪)、善悪を見分ける能力が低い人(即ち不道徳で、正義感が弱い人)、或いは精神病質傾向の脳など、大抵の人類社会で普通には先ずありえないほど例外的なのである。