2020年12月21日

「倒幕」や「鎖国」、「船中八策」は明治元勲および小説家・司馬遼太郎の捏造による喧伝文句を国定教科書採用会社が騙されさも史実かの如く記述してきた事のあった虚偽事項で、歴史上実在せず、「徳川慶喜による天皇への禅譲」と、「西軍の東日本侵略」、「出島貿易」があったのみ

倒幕という現象は幕末から明治にかけ全く存在しなかった。あったのは最後の将軍・徳川慶喜による天皇への「禅譲」と、西軍による東日本への侵略だけだ。

 明治から平成の国定(検定済み)歴史教科書はいわゆる元勲側が偽った自己英雄詩を正統化し記述したいが為、慶喜当人の日本統一の意志による天皇政体の為の大政奉還を、さも司馬遼太郎が小説内で捏造した「船中八策」なる実在しない虚偽事項の採用だと嘯いている。そして同時期の国定教科書は、天皇家ならびに有栖川宮家を母方・妻方に持つ慶喜の有栖川宮皇軍への無抵抗な禅譲(皇軍への徹底した恭順と全軍退却および無血開城)にも関わらず、それに従った松平容保ともども朝敵の濡れ衣を着せている傾向にあるが、これらは戊辰戦争時は未成年だった明治天皇自身が成人(元服)後、慶喜へ和解を申し出、最高の公爵位と共に格別の別家・貴族院議員の地位を叙している事からも完全に破綻した理論に過ぎない。何しろ、西軍が鳥羽伏見の戦い以後、東日本へ侵略した時点で制度として既に幕府は存在しなかったのだから、これらの過程を「倒幕」と呼んだり名づけたりする事は全く科学的ではない。いいかえれば、いわゆる薩長藩閥のもとにあった明治政府が、これら明治天皇の成人後に行われた一種の冤罪謝罪行為を無視し、戊辰戦争と呼ばれる東日本侵略の正当化の為についた嘘が、実在しなかった「倒幕」という概念なのである。

「鎖国」はこれと同じ理由で、江戸幕府を貶める目的で明治政府に捏造された概念で、現実には江戸幕府は長らく「出島貿易」をしており、貿易相手国を当時の社会秩序と矛盾しないよう選んでいたに過ぎない。例えばイマニュエル・カントはこの頃の日本の出島貿易政策を、不利な貿易を不平等条約のもと強要されず、西洋植民地主義による侵略戦争の被害も受けずに済んでいたという文脈で、賢明な事だったと記述している(カント『永遠平和の為に』)。
 あるいはまた慶喜は藩校・弘道館にて後期水戸学で年少教育され、その学派の通説であった豊田天功『防海新策』等で講じられる開放貿易のもとで近代化してからの植民地化防止策を主義とし、実際に将軍就任後、神戸開港や慶応の改革での軍制近代化を実行した。これ以前から全国で最も早い時期、ペリー来航以前から洋式軍艦、反射炉や大砲といった近代兵器を作り、いわゆる西国雄藩の手本となっていたのが慶喜を排出した水戸藩である。海外情報に関しても、同藩知識人らは他藩に先駆け、当時としてかなり精確な複数筋からの情報源を持った上で、分析を重ねていた1)。ペリーから贈られた拳銃も同藩は手早く模造し、志士の一人の手に渡り、桜田門外の変で使用されている。すなわち江戸幕府側は内部の保守派とは別に、諸々の徳川家でも特に御三家・水戸に限っては、進んで近代化政策を執っていたのだ。それがさも江戸幕府側は一様に近代化が遅れていたかの様な喧伝は、全く上記した明治から平成期の国定歴史教科書上での虚偽記載事項と同様に、明治政府が以後国定教科書中で、江戸幕府を恣意的に負の印象づけする目的で、非科学的観点から捏造した偏見がそのおもたる起源と考えていいであろう。
1) 吉田武弘『幕末期水戸藩における海外情報─「新聞」にみるアメリカ南北戦争─』「立命館言語文化研究」23巻3号、2012年2月、pp.119 - 131

 さらに慶喜は諸侯会議、すなわち上院の国会開設を主張していた。そのアイデアの経緯としては横井小楠による欧米諸国の議会制と日本の幕閣専制との比較論(『国是七条』の一つにみられる、議会論)を慶喜が咀嚼し、諸大名の上院構想を抱いた可能性が考えられるが、当人はその発想源を語っていないので確定的ではない。なお「船中八策」は司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』に見られる偽書で実在せず、慶喜自身、明治維新が大分たってからも、坂本という者は幕末当時まったく知らなかったと述べている(慶喜自身の言動を記録し慶喜の検閲を経た渋沢栄一・編『昔夢会筆記』『徳川慶喜公伝』いづれでも同様)ので、坂本龍馬は無関係である。よって小御所会議でクーデター側に回った薩摩藩士・西郷隆盛と大久保利通ならびに岩倉具視らが共謀し、徳川家の政治機構と財産を乗っ取る目的で慶喜を以後、政体の中心から排除したに過ぎず、慶喜のもとにあった権力機構が近代化を拒絶していた旧態依然のものであったかの如き喧伝も、明治政府の元勲らによるまったく同じくぬれぎぬで、元勲発自己正当化プロパガンダの類である、と凡そ断定していいだろう。