ろくでもない批評屋は、既に評価の定まった芸術を後追いで賞賛している。こういう批評は百害あって一理なく、俗物根性以外なにも示さない。しかもますます芸術全体への固定観念を強化するので、そういった偽批評屋が絶滅した方が全人類の為である。
優れた批評は未評価の作品の美質をみいだし、或いは既存の名作に別の光を当てる。そういった批評以外に聴くに足る価値は一切ないだろう。
悪い批評は、優れた作品の美質を不当に貶めているか無視しつつ、なんらかの意味で劣悪な作品の悪趣味ぶりを礼賛している。そして世の中の過半の批評はこの最後の例に該当している。だから批評屋は余程の例外を除いて誰にも尊敬されていないし、芸術家自身も一部の例外を除き、彼らを軽蔑し無視している。
では批評屋が芸術家に認められている場合は? 主に2つの場合がある。
1つはある批評軸が芸術の本質を穿っているかの様な効果を伴い、潮流を変えうる場合だ。大体これも偽装で、実際には批評家の都合次第で好き勝手な事を言っているのに、芸術家の方が知恵が回らず騙されてしまっているのである。
もう1つは批評屋と芸術家が暗に結託し、或いは両者を兼ねている様な人が、自分達に都合がいい評価体系を世間に流布している場合だ。大抵の画集は、編集者が選んだこういった礼賛批評でページを埋めている。画家の生前の出版であれば無論それ自体画家に程あれ都合がいい言説で、否定的内容は排除される。
批評は、素人が作品解釈の取っ掛かりとして騙され易い対象ではあるものの、本当にその意義を踏み込んで理解するには模写したり、様式をまねたりして実作していくしかない。ある作品を深く理解している人は、少なくとも制作の手続きとして、その作品とほぼ同等のものを作りうる人である。
また玄人の批評といえど、上述の例外的な2類型ですら、批評屋の都合次第で捏造されている企てに過ぎないので、芸術家自身と意図が合致しているか否かに関わらず、作品単体よりいづれも意義がない。したがって批評を信じている人は全員が根本的に無知だといって構わないだろう。
ある芸術の理解には、模写や様式を模しつつ、自らその作品を考えたり感じたりして、深度を深めていくしかない。言葉を使う文芸を除き、言説によってこの過程は十分なしうるものではないので(文芸解釈もある意味では、言葉に込められた心の問題ではあるが)、よく理解している人が語れるとは限らない。