2020年10月30日

政府は他者や公共に害を為す暴力のみを防止すべきで、思想や良心の発展的議論に関わる内心を一切制約すべきではない

ムスリム側がマクロンの自由・寛容な世俗主義誤解しているのは明らかだろうけど、そもそも根本的に理解しつつ受け入れるつもりも、過半のムスリム、特に非西洋圏の人々にとってはないのだろうと思う。

 特にマハティールのRespect others(他者を尊重せよ)と題した一連の発信は、キリスト教が基底の宗教だったフランスやイギリス側では、凡そ誤解しか呼んでいないと思う。
『コーラン』でイスラム教徒を攻撃した者は構わず殺害すべしとムハンムドは言う。

 ユダヤ教やイスラエルの立場からみるとこの一連の事態、「テロとの戦い」と称する欧米諸国のイスラム圏への対決姿勢は、かなり好都合なもので、以前から陰謀論ではあるものの異民族前線の一種(スズメバチの巣作戦)で、裏で手ぐすね引いてるのでは? と一部で疑われている。

 また世界の軍産市場は殆どが米・英・欧で占められているので、武器会社へのケインズ政策のつもりで無理やり、イスラム諸国に軍事力で優る米英仏らが戦争を誘発している疑いも以前から持たれているし実際にイラク戦争やシリア騒乱については内政干渉の大義がないし、そうだろう。

 マハティール発言は、恐らく西洋植民地主義へのムスリムからの歴史的批判のつもりなのだろうと自分的には思える。彼が高校生の頃イギリス領から日本領への祖国の変化、更にイギリス植民地から独立を経て、先進国に優るとも劣らない国力を獲得した今、西洋中心史観の偽善に、確信を深めているのだろう。
 フランス人側は一般に、仏憲法1条で定める世俗主義の一部に、宗教家への皮肉や揶揄を含めて考えている。しかしマハティールのいう「他者への尊重」は、相手の宗教をからかったり軽蔑的な文脈に置かない次元のもので、マレーシアの様な多民族国家では当然視される倫理観だろう。

 だがマクロンは考えられる限り2つの文脈で、このマハティール的宗教倫理を否定する。
 1つは風刺の権利を含む世俗主義。これは純粋な宗教心に対し、フランス独特のエスプリ(機知の精神)が言葉遊びを含んでいるからで、ある種の俗物根性でもある。
 もう1つは支持の獲得。マクロンは大衆に向け、一般に反感を得易い過激派テロ対策との名目で扇動的言動をし、目先の支持率を上げる事ができる。最近で子ブッシュが9.11後、イラクを一般市民も含め仮想敵にし(犯人を匿っている証拠なしに!)実際に侵略までする事で、米国民受けを狙った手法と相似だ。これ見よがしに「テロとの戦い」文脈で、野蛮 barbare と相当差別的な植民地主義時代の言葉を使いながら仏語でツイートしたボリスは、やはりこの点で、子ブッシュやマクロンと同じ穴の狢である。これら大衆迎合は扇動政治の一種だが、ムスリム16億人を挑発するのは割に合わない。

 また一見無関係な日本の状況も非常に悪い。
 第一に安倍悪法が共謀罪その他で内心の自由を侵害した状態にある為、テロリストと疑われた人々がいつでも政権の陰謀で疑獄に遭う。第二に、安倍悪法中の戦争法で米軍傭兵として、欧米対イスラム圏の宗教戦争に自衛隊が借り出され、全国民がまきこまれうる。安倍の基本路線を踏襲しているスガ政権は、前政権同様、特に神道政治連盟・日本会議という2つの神道政治団体の成員で埋まっている。自民党員のうち極右系の議員が支配している状態では、皇族や神道関連の宗教的要素と、ムスリムの摩擦が生じれば一触即発で、欧米有志軍へ参加せよと世論が燃えかねない。
 明治政府、戦後政府のどちらも、政教分離が完全にできた体制ではなく、神道教祖を兼ねる皇帝の自称「天皇」一味が、国政を飛鳥時代から相も変わらず裏で牛耳っており、違憲が疑われる退位法を国会を唆し樹立させるなど到底議会主義といえる状態ではない。実質的に天皇独裁の政府は、神道の出先機関だ。日本国民の相当数がムスリム諸国との宗教戦争を、絶対的なもの、便宜的なものいづれについても幾ら拒絶しようとも、或いは一部過激派に関わらずイスラム教への信仰差別や偏見を程あれ退けようとも、政府が神道教祖の衛兵状態では、自民党員の意思一つで簡単に、日帝式の侵略戦争に加わってしまうだろう。


 そもそもイスラム教は戦争上の勝利で地位を得た中世以来の宗教で、程あれ堕落したキリスト教やユダヤ教が支配した中東で、新たに自主的な救貧を含む教義として、創始者ムハンムドによって獲得された神聖政治的な、極度に一神教の思想だ。最後の預言者は聖人ムハンムドとされ彼への侮辱は重罪にあたる。
 日本でも宗教または国教上の権威を安直に風刺し、信者らの怒りを買った例が幾つかある。チンギスハンをからかう漫画を掲載した小学館の『コロコロコミック』「やりすぎ!!! イタズラくん」とか、昭和天皇肖像を焼却後絵踏みした映像作品を税で公共展示した愛知トリエンナーレ2019表現の不自由展など。フランスのシャルリーエブドも、マハティール的気配りのない、或る種の未開文化による、異教への明らかな侮辱的表現を掲載していた事になる。日本人を出っ歯で厚い黒縁黒眼鏡をした醜く背の低い猫背の男で、一眼レフカメラを肩から提げた姿に描く。こういう下品なステレオタイプこそ差別的なのは明白だ。
 マクロンは、文化的な未開人だ。それは彼の自文化中心主義によっており、下卑たエスプリの利く範囲が、純真なイスラム教徒相手ではありえないと知らないでいる。或いは知っていても、自身の権勢欲で覆い隠して見なかった事にしている。彼に応じているボリスも、同様の意味で野蛮人といわれるべきである。

 有るべき芸術は、自らと異なる信仰箇条の人達を、最大限尊重すべきものなのは明白だろう。
 勿論、日蓮のよう激しく他教排斥する宗教家もいる。天皇も廃仏毀釈した事がある。イエスもムハンムドも、ユダヤ教に結局は排斥的だった。
 これらは他教自体を批評する内容でも信徒を直接攻撃すべきではない。

 信仰の自由を尊重するとは、マハティールの様に他教の信徒を根本から容認するものであると同時に、どこまでいっても思想にすぎない宗教自体に関わる議論や対話を尊重するものであるべきだ。自他の信念のうち、不徳と思われる点を指摘する学びの過程が、相互参照で反省と、文明の発展を促すからだ。
 イスラム教原理主義だけでなく世俗的キリスト教も、神道も戦闘的宗教であり、教祖や預言者の説次第で、戦争や暴力的行為を正当化する。神道が結束主義や愛国主義と並び立ち、古今東西で最も大量殺人した宗教の一つなのは事実で、最低でも数千万人超が教祖・天皇の命令下に殺された。暴力的信仰は邪教だ。

 邪教を信じる人々を具体的暴力によって殺戮し、強制的に統治しようとする行為は、それ自体が未開な考えというべきだ。マクロン、ボリスはこの点で愛国主義という邪教を悪用している共犯の蛮族であり、「テロとの戦い」はこの歴史的犯罪を犯す為の言い訳でしかない。現実には力で異教徒を弾圧している。ある国法で、恐怖政治に該当する暴力行為が禁じられていれば、その犯人を法手続きに従い裁くのは法治下では正当な事といわれる。無論、最高裁判決に照らし決して皇族犯罪が裁かれえない日本の皇室制度のよう、より人治や宗教が優先されている体制はその限りではない。
 信仰の扱いは法に応じるべきだ。一方で、信徒の共同体を守る目的で、正当防衛や革命権に該当する暴力行為が程あれ容認されている信仰体系の場合、例えば愛国主義もしばしばここに該当するが、その信仰を持つ内心の自由は制限されるべきではない。共謀罪はこの点で、人の良心を或る政府の考え方で弾圧している不正な法で撤廃義務がある。

 恐怖政治的な暴力行為を企図している人々として、或る信徒集団を雑に分類し、必ずしも暴力に訴える義務や責任まで感じていない人々まで十把一絡げに汚名を着せ、差別の眼差しを向ける。これは良心への公共の侵害だ。
 恐怖政治対策は宗教と切り分け考えるべきで、単なる暴力についてのみ制約しうる。