2020年10月13日

何事の手段にもされえない虚学は目的の学術

日本学術会議任命拒否問題に関して、文系、人文学は「役に立たない」といっている人達がツイッター上などに一定数湧いていた(例1等々)と思うけど、有用性の定義がおかしいとしかいえないし、更には何かの手段にならない知識ってそれが目的の知識じゃないかとしかいい様がないので、浅学を自己顕示しなくてもいいよ、と相当数の人文系の学者は思っていただろうと思う。

 アリストテレスが価値を3段階に等級付け、有用性、快楽、幸福の順に置いていたと思うが、このうち有用性は最も低い価値しか持たない。
 米国の実用主義だと逆に、有用性を知識の合目的性一般と考え、それらを――特に経済性を伴う民主社会での――成功を目的とする道具とみなす(道具主義)。
 つまり人文学を有用性が低いとか、無用とか考えている人達――我々が人間で、社会を作る限り、その研究が有用でないとか無用だなどという妄想は、殆ど理解し難いのだが――は、実用主義に影響を受けた戦後日本人の一部が、極端な自然科学主義に陥った成れの果てなのだろう。理科専門教育の失敗例だ。

 東洋でいっても老子は「道は常に無為」(『老子』三十七章)とか、「ある物事が有用なのはその背後に無用さがあるから」(同書十一章)など独特の形而上学、哲学を展開し、無用さの意義を定義していた。
 要は虚学の類はそれ自体に、特有の意義がある。
 福沢諭吉が『学問のすすめ』で実学を主張し、和歌、詩などの文学一般、もしくは漢学を貶め――逆に今で言う自然科学、会計学、経済学、倫理学などをもちあげていたのは有名だろうけど、この考え方も大分極端なものである。彼の価値づけは、要は独特の勘違いした科学主義的西洋かぶれといっていいだろう。一般論として、すぐに役立つものは日用の知識なので、すぐ廃れがちだ。特に人が頻繁に使う部分は自動化され易いので、どこでいつ何かの手段になるかさっぱりわからない学術――例えば僕が専攻してきた純粋絵画とか正にそうだが――に比べ、赤い海になり易い。
 私見では虚学度が高い程それは立派な学識だ。

 全ての学術で、最も何事の手段、道具にもされえないのは、自分のみてきた限り「倫理哲学・道徳哲学」(日本の大学の哲学科などが一般に教えている倫理思想史ではなく、思想家が自ら語りだした道徳理論)の類で、全学術はこの究極の虚学の下位にある知識や技だといえるだろう。倫理・道徳、その中でも最も全容的まとめにあたる公徳が全学術の究極目的なら、自分の根気が及ぶ限り、その研究に尽力すべきだ。
 自分は感覚的な資質が強かったので美術の道からその本堂に入っていったわけだけど、そうであれば、将来的に、公徳の追求を自分の専攻にきりかえようと思っている。