2020年10月12日

仲間のできるわけ

 自分より愚かな人、卑しい人を啓蒙できると踏んではならない。自分より愚かだったり、卑しかったりする部分が有る人から進んで離れる方が遥かに賢明である。愚かさ、またその道徳面にあたる卑しさはある種の知能の低さであり、生まれつきの部分があればこそ、必ずしも後天的に治るわけではないからだ。
 賢い人は普段から過ちを犯さない。また尊い人は普段から善い行いだけをしている。彼らが普段から過ちをくり返していたり、悪い行いをしていたりする事はない。即ち他人に誤りや悪事をみいだせた時点で、その人は賢くも尊くもない。賢い人の誤りがあっても人的不注意にすぎず、些細な質の物だけだろう。

 学位、学歴、肩書きなど属性で、或る人の賢愚を判定してはならない。これらはあらゆる物事について欺きうる看板に過ぎない。また政治的・会社組織的・身分的な地位を尊卑と取り違えてもならない。これらは幾らでも偽装しうるものだからだ。個性差があり生育地域や血でも賢愚・尊卑は全く測れないだろう。
 愚かな人は同程度の人々と親しんでいるので、賢い人と接しても愚かな言動をし、話が合わない。また卑しい人も同じく、尊い人には信じ難い言動をなんとも感じずしてしまう。言葉は記号による行動であり、或る人の資質を結晶させている。愚かな言動をしたり、卑しい言動をしたりしている人から遠ざかれ。