2020年9月27日

科学や技芸は、結局は倫理の道具に過ぎない為、目的の教育である哲学を作文・議論などで民衆に癖づけるべき

自然科学を主とする教育を受け、科学主義を全知識唯一の規範と考える様になってしまった人々の決定的誤りは、倫理・道徳と呼ばれる人間社会の規則が自然界の中には存在せず、単に或る人自身の作る体系だと知らない事にある――いわゆる哲学的・倫理的な自然主義の誤謬。
 我々が理科、自然科学、数学あるいは経済学など、今日理系と呼ばれる分野でかなり高度の知見をもつ人々に、全くの倫理的無能をしばしばみいだすのはこの為だ。倫理哲学にまつわる後自然学的な分野の認知は、理系の或る学識と全く別に積み上げられねばならないからだ。そこで諸科学は道具に過ぎない。

 然るに、今日の学問全体こと、嘗て博物学とか本草学などとも呼ばれた教養学に多かれ少なかれ通暁していない一般人は、或る分野での高度の知見に後光効果を覚え、全能と勘違いし易い。それで特定分野の科学者が、異分野の事柄もしくは一般論で全く見当違いの言動をしても、仰いでしまっていたりする。科学は学術全体からみれば飽くまでも、またどこまでも従者であり、その王座を占めるのは常に、またどこまでも哲学と呼ばれる知識全体の総合批判者、或いは総元締めでなければならない。今日の哲学は元来の「知恵の友愛」とは異なる意味で使われ易い語彙だが、確かに、哲学は道徳的社会を目的にしている。或る新規な自然・社会・心理分析は、過去にそうと信じられていた道徳と異なる見解をもってくる事があるだろう。しかしそれを根拠に人々がより不道徳に生きるべきだとはいえず、単に、より善い生き方を考え直す事ができるに過ぎない。人はどこまでも道徳的に生きる必要があり、それが社会性の証拠になる。
 倫理・道徳は人が自ら斯くあるべしと当為論として述べている理想上・理念上の体系なので、現実社会がその通りにできているとは限らない。その倫理観が正しいと多くの人々が認め、信じ、履行すれば、その社会では多少あれ理想が実現するだろう。即ちより道徳的な、より良い社会がやってくるだろう。科学こと原義によれば知識(science)なる試みは、究極の所、いかに人が生きるべきか道徳を考える道具に過ぎない。同じ事は、その知識を生かした芸術こと諸技術についてもあてはまる。だがそれら道具或いは手段こそ目的だと取り違えてしまった人々は、科学主義者にせよ芸術至上主義者にせよ迷子である。知識を悪用したり、技を濫用すれば、成程、有害でしかない。他人にまで害をなし公害を起こせば、はじめからその種の知識・技を持たない状態の方が優れていたという事にもなりかねない。即ちどこまで行っても、諸認知、諸学術の王座を占めるのは道徳だという事になる。道徳が人の人たる目的なのである。

 道徳には単なるある善が他の善と根本的に対立しているといった比較関係、いわゆる道徳的な相対主義だけがある訳ではない。特に通俗漫画等では、敵・味方両方に感情移入できる登場人物の人格化を目的に、この相対主義が強調されるが、ソクラテスの昔から、その種の相対主義を否定する所に哲学があった。寧ろ、哲学は全ての善について相対主義を主張するソフィスト(知恵者、当時の詭弁屋)――この世には信じるべき絶対的正しさはなく、単なる異なる立場があるだけとする考え方――を離れ、ある善の上により高度な善があると考えた人によって本格的に開始された。最初の倫理哲学者はソクラテスと私は定義する。これ以前の哲学者は、アリストテレスの定義によれば、万物の根源は水と考えたタレスだった。しかし根源の探求は確かに今でいう自然科学ではあるが、倫理に直接関わってくるとはいえない。いわゆる哲学的な自然主義や、ある種の原始的な科学主義でしかない。即ち、タレスははじめの自然哲学者として知られるのみ。諸徳目には様々な関係があり、或る徳目が別の徳目の上位と定義されていたり、それらの間に包含関係があったりするなど、単に全てが並立しているとは限らず、この世で想像される限り最も複雑に定義されている。何しろそれは自然と社会の全てを含んでいるので、道徳体系より複雑な何事も人間の認知にない。単なる自然、社会、心理などの分析で一生を終えてしまった人々、いわゆる科学者は、その知的成果が道具に過ぎなかったと知らなかったのだろう。同じく、何らかの技芸に耽って、肝心の道徳を考えなかった人々は、その仕事が良い影響を持たない場合、他人の目になかった事にされるか、迷惑行為として世界から排除され悪例扱いで記録されるだけだろう。
 人は得意・不得意がある為、科学や技芸にのみ嵌っている人々が即ち、目的に反するとはいえない。しかし、専門の科学者や技術者・芸術家が、不道徳な振舞いをしている場合、哲学者(俗に、専門をもたない教養学者を指す思想家)は少なくとも批評という手段で、彼らの善悪を是々非々で公に論じるべきだ。

 哲学する者、知恵の友愛者は、森羅万象について学び悟っていなければならない。その上で最も倫理的に正しいと考えられる最善さ(最高善)について、当人なりの意見を持ち、社会でありうるあらゆる事に、程あれ――必ずしも二元論ではなく、濃度や別解釈を含め、多角的に――正否を語りえなければならない。もしこの世で最も優れた人がいれば、その人は道徳面で最善の人だろう。例えばいかに賢い人でも、或いはいかに美しい人でも、最も善い人に比べれば或る社会での意義はより劣っていると考えられる。やはりある種の狡猾な賢さは悪用もされうるし、自他に禍をなす退廃的な悪徳の美といったものもあるからだ。一方で最善の人は自他に福徳を為すだろうし、その人を超えて社会に公益的ないかなる人物もいない。もし、真善美を兼ねた人を聖人と定義すると、成程、最善者とは同時に聖人でもある筈だ。
 善さには、時に使い分けられるまことさや、ある種の清潔、品行方正さ、趣味の良さなど美しさと、共に一致する部分がある。真さはそれ自体に価値体系があるにせよ、全ての場合に社会的な善さと一致するわけではない。例えば幾ら真偽判断に反するからといって、一日千秋といった詩的な強調表現に偽と述べても意味がないし、社会的弱者に慈愛を語るのは非現実的な偽だといっても、或る真さを善と一致させえていない事になる。つまり科学主義者や、芸術至上主義者が、真偽判断、美醜判断について行う類の判定方式については、そもそも社会的善と一致していなければ有害な物、あるいは誤ったものでありうる。人を傷つけるほど真過ぎる言動とか、華美にしすぎ寧ろ軽蔑される人といった場合でそうある如く、善はしばしば中庸なのだ。

 今日の日本の公教育は、ノーベル賞獲得数が名誉をほしがる政府の目標であるかの如く、科学主義者を量産する事を目的にしているといっても過言ではないので、上記した欠点のうち特に、有用とはいえ結局、道具に過ぎない真の価値を善より高く見積もる癖を民衆につけてしまい、あしき国風に帰着している。どれほど科学的認識が真に近かろうとも、それら知識を全てワル知恵に使う人々の群れが、果てしなく不幸にしかなれない様に、現日本の公教育では、自ら倫理を考え作り直す哲学が総じて無視されており、それ故、新知識もまずは利己心のもと悪用するといった甚だ堕落した民衆の有様が普通である。
 科学あるいは技芸は、それ自体に独立した価値づけ――純粋科学、純粋芸術が、過去から当時の道徳に反する様な場合――はあるにしても、究極で道徳にとっての道具にすぎず、使い方を誤れば害にしかならない、と一般に教える必要がある。同時に、より高度な善を考察する思索を、倫理的主題についての作文や、議論の授業で少しは民衆一般へ癖づける様に、公教育を変えるべきだろう。