2020年9月19日

異文化の不徳は寸分も見習う必要がない

三浦春馬自殺後に彼の親を、或る東京在住のドイツハーフ女がかなり偏見に満ちた口調で口汚く罵っており(具体的に言うと屑だとか)、その理由をみたら、ゲスな週刊誌記事を論拠にしていたのだった。
 もうこの時点で認知能力が論外の人だろうけど、僕は正義にかけては大変に強い性格ですぐ注意した。案の定相手はすぐブロックしてきたが既にサブなどでマーク済みなので意味がない。
 その後もマーク続けていたが、都内でなんかセレブぶってあれこれ上から目線で言っているいかにもなキャラだった。西洋人系に多いパターンだ。という事は、日本を暗に差別しつつ途上国視し春馬氏の親を罵ったのだろう。日本含む極東圏には孝の観念があるので、他人の親を罵るのはタブーに近い。特に子供へもこれをやると怒るというのが普通で、メンタリストのDaiGoが性格変わるきっかけになったブチギレ事件も、虐めっ子が彼の母を罵った時の義憤だったと思う。
 対して孝の観念はドイツでは凡そ普通ではないのだろう。あるドイツ人ハーフが上から目線で、他人の親を、真偽不明な週刊誌記事で口汚く罵る。それを注意されても謝罪どころか逆切れブロックし、中華思想で田舎差別などしながら誤魔化しつつ東京でセレブごっこする。成程、想像できる範囲の、いかにも東京人らしい下卑た行動である。道徳に何の関心もないのだろう。

 西洋中心主義、或いはオリエンタリズムの色眼鏡で、極東はドイツより文化的に劣っていると妄想し、特に道徳面でもそうだという前提に立って、風説で他人の親を罵る不孝について指摘した極東人を、無教養な田舎者扱いで蔑視する。これは僕が受けた侮辱の中でも特筆に値する部類なので一生忘れないだろう。

 僕がドイツの人達と接したのは、ネットで数度あり、ピグにいたドイツ系としりあいになって、ネオナチがいるからきてみろよといわれた。着いていったら確かにネオナチぽいやつがいて、色々話しかけ懐に入り込んでみたら敵とも仲間ともいえない微妙なポジションに置かれ面白かった。彼らは日本でいうネット右翼。日本はドイツと一緒に戦ったじゃないか? 戦友だろ、とか、英米帝国の資本主義野郎どもに共に立ち向かおうぜ! とか適当理論で親しげなふりしていたら、極東人差別をまきちらしていたドイツ人不良らがなんともいえない表情になっており、排除しようにもしきれない態度でいた。ネオナチそんなもんだ。

 それでさっき調べてみたら、日本にいるドイツ人って7301人しかいないらしい(2019年6月末、法務省在留外国人統計)。そのドイツハーフもミュンヘン育ち東京在住らしく、それなら日本文化の暗黙知に該当する諸々の基底はいうまでもなく、孝について知らないとしてもおかしくはない。完全に異文化の人。オリエンタリズム、西洋中心主義、東京中華思想などで、日本の田舎全般を偏見・差別・蔑視している様な東京在住ドイツ系ハーフがいたとして、確かに哀れな存在でしかないだろう。唯でさえ日本では超少数派なら、『孝経』どころかそもそもどう極東の人々が不孝を悪と感じるか彼・彼女は知らないのだ。そのドイツハーフが、西洋人一般と同じよりもっと不幸なのは、都市部で生まれ育って東京という日本の大都市スラム的な環境に移民してきた為、田舎全般への差別的意識をもったまま成長してしまった点にもある。彼彼女が同化したつもりでいる文化が、日本でも超特殊な方に属するという欠点に気づかない。他に僕が接したドイツ在住ドイツ人の或るヒトは、つくばや東京に来た事があるらしく、大都市の環境(というか自然環境のなさ)が嫌い、合わないという点で僕と共通で、東京にいたら鬱病になったが、茨城の方はよかったと言っていた。つまり、その或るドイツハーフが東京化した考え方感じ方なのである。

 西洋、分けてもドイツが「先進国」で、日本なりその田舎が「後進国」「途上国」だという最たる西洋中心主義の偏見は、ドイツの文脈ならヘーゲル以来のものといっていいだろうが、この歪んだ考え方を貫こうとした悪果がナチスのアーリア人優越思想だったという反省が、そのドイツハーフの人にもない。日本とドイツは日独伊三国軍事同盟でたまたま組んだ。これは凡そ最悪の結果に終わった。伊藤博文がドイツ式軍隊教育をもちこんだ事も今に至るまで色々と尾を引いている。今後も日独関係は色々な局面で続くだろう。しかし現在も過去も、ドイツ流には正負両面がある。孝を知らないのは最たる負の面だ。
 ドイツの考え方の中で、過去全てを振り返って最も優れているといえるのは、自分の知る限りカントのいわゆる人格主義のそれだ。カントは人たるもの他人を手段としてだけでなく目的としても扱わねばならないと書いた。この定言命法は彼の独創で、他にはっきりそうと明示した思想家を自分はまだ知らない。イエスは「己のされたいように人にもせよ」、孔子は「己の欲せざるところ人に施す事なかれ」と言って原始的な具体例で定言命法を語っていたが、人にとって他人が目的であれ、とはっきり書いたのはカントが最初だろう。
 だがミュンヘン育ちのそのドイツハーフに、そんな高尚な考えは全然入っていない。中国に数多の聖人君子がいたとて、一般中国人はズルをなんとも思わなかったり、インドに釈迦が出現後も一般インド人は相変わらずヒンズー教の元で身分制バラモンを崇めていたり、「預言者は故郷では尊ばれない」を地で行く一例が、そのドイツハーフによる三浦春馬氏の親へ不孝な侮辱発言だったのだろう。

 他国から何か異文化をもちこんでくる人々は、今後も増えこそすれ減りはしない筈だ。交流が交通発達で簡単になればなるほどその機会がふえる。だが異文化間の比較検討なしに上から目線で何かをもってくる連中の無知による信用ならなさはいうまでもないが、西洋・東京含め異文化の不徳に習うべきではない。