2020年8月23日

KPOPの総合批評

僕以外だーれも公に言ってなさそうだから敢えていうが、BTSのMVとか含めKPOP男子グループは総じて僕は気持ち悪い。前から書いてるけど。なんか見た目が。曲調が総じて不良ぶってて安っぽいのも好きではないけど、髭も生えてなくて男らしくないだけじゃなくて、なんか女みたいで不自然な顔なのがヤダ。これについてはなぜか、KPOPの女子グループだとそう感じない。逆になんか好意的な感じを受ける事もある(全員がではない。総じてセクシー系が下品に感じ、あんまり好きじゃない)。が、ニジューとかいう日本人女子グループだと同じKPOP風に韓国の事務所がプロデュースしてても、なんか気持ち悪い。KPOPを色々とみている人じゃないと、ほぼ似た様にみえて違いが分からないという感じの評価をしてる場面をよくみる。僕にはブラックピンクとか米国音楽モドキでなんにも面白くないが、単にビルボードで上の方だから全部同じ様な質だろうと勘違いした、非ポピュラーソング通がやたら褒めてて傍ら痛くなる。

 では、僕ができるだけ網羅的にKPOPも(他の音楽ジャンル同様に)聴いてきた中で、一体どういうのを趣味が良い上に独創的世界を切り拓いていると思ってるか今から出してみよう。一番よくできてる方から貼ると、次の順である。その後に、自分がなぜそう感じていたのかを一個ずつ分析してみる。

 ソロアーティストでいうと
TAEYEON 태연 'Rain' MV
IU - Good Day[Japanese Version]
グループだと
TWICE 「Fanfare」Music Video
IZ*ONE - Up(日本語字幕)

これらがKPOP頂点かと私的に感じた。

 先ずテヨン(元少女時代のいちメンバー)の『Rain』は、何が凄いかというと曲自体もなんら下品な所が見当たらない、至極上品なものだろうけど、MVの美術的映像美との組み合わせが凄い。まぁ曲や詩そのものは他人が作ってるだろうし、当人は歌って踊って演技するお人形さんみたいなもんだろうが、僕は美術家なので映像美の質みたいなのはかなり注意深くみてるんだが、このMVが一番くらい驚いた方だ。なんかどっかの洋間みたいなところに結構趣味のいいあれこれを並べて秘密基地の応接間みたいにしてるんだが、そこになんだかキラキラしたものを散らしつつ、現代アートの仮設美術みたいに水びたしにする。そんで、曲自体は多分恋愛の歌なんだろうが、雨という歌詞の主題とあわせて、一つの解釈としてはプラトニックな恋心の比喩であり、もう一つの解釈としては失恋の痛みの比喩であり、その心の雨の中に埋もれかけた自分を表現するみたいな、全体として現代アートのパフォーマンスビデオみたいになっている。通常のKPOPだと踊りでそういう表現をしているので、歌舞の部類になってんだが、これの場合は単純に歌曲にあわせたアートビデオの類である。が、その美術性の方が相当質が高い。何度もいうが、趣味の悪い面が見つからない。ある品のいい方だろうロココ崩れみたいな洋間を自分の心の金魚鉢みたいにする。もし純粋美術としてみても、仮設美術(インスタレーション)として一応なりたつくらいの何かにはなっていると思うわけである。ホウコウキュウが地下室の行き止まり空間を水浸しにしその向こうに色の光面をみせるパフォーマンスやっていたが、それを部屋全体でより複雑な景物操作でやってるみたいな感じ。ま、もし曲と単独の歌唱だけで何らかの表現をしている場合と、この映像作品とくみあわせた場合を比較して、後者によってその内面表現の可能性みたいなのが相当深く表せているという意味で、具体的にいうと悲恋だか失恋だかの哀愁が梅雨の情感と共にひたひたと洋間おねむに降りてくるって感じで僕はみた。KPOPの映像って、大抵は先ず現物撮影後、人工的で美術的な操作を加える。この『Rain』の場合も幻想的な雰囲気を強調するシュールレアルなCG描写がところどころにされているわけだが、いわば前衛的なAR映像作品とみていいだろう。洋間で寝転んだ或る女がみているはず脳内の夢が魔法的現実として介入する。純粋絵画的に優れた効果を伴っている映像美を作り上げているという点に、僕がひとりの前衛主義的な絵描きだから大きく評点上げるだろう事は予想できるが、最初にもいったようそういう映像はKPOPには結構色々あるものの、この『Rain』が傑出してるのは趣味の悪い点がないところだ。そこが決定的な美質だ。大抵のKPOPの映像美は、総じて或る若い男女のピチピチ感を総じて美化する方向へ極端に舵をきっているにすぎず、美男美女でもない人達は徹底的に排除されており、理想的な青春だったりそれが崩れた不良的人生の間のどこかを素描する。だがこの『Rain』は上流の娘と捉えても違和感がない程上質な内面描写。小説でいうと太宰治『斜陽』みたいに、良家の子女の内面を表した物ってまれに有るが、この『Rain』はこの歌曲つき映像作品だけを見て判断する限り、プラトニックな恋情の類(歌詞自体は深読みでき実際には恋の内容か不明なのだが)を或る詩情の元で謳いあげていて、一種の奥ゆかしい内面表現でしかない。例えば日本で一時期流行したKARAとかの典型的KPOPガールズグループが歌う恋愛感情は総じて明け透けなアイドル系、扇情的で通俗的なもの、もっといえば軽薄なものといえなくもない。『Rain』は――少女時代やそこから選ばれた3人組グループ・テティソの曲ではなく、ほかのテヨン単独の歌曲もかなり広くそういう傾向があるが――演歌・トロットなどの民謡中では生き残っていた内面の奥行き表現に回帰しているという意味では、詩的文脈の再興だと思う。勿論これらをこのテヨンという1人のアイドル系歌手が全部自力で構築しているとはいいきれず、イ・スマン事務所(SMエンターテインメント)が演出家らと作り上げている歌舞芸能の世界に過ぎないが、それにもかかわらず、総体として或る独特の(仮設的な)美術性に至っているのは間違いないので、僕は高評するものだ。

 で、次のIU(アイユー)の『Good Day』だが、これは日本語版と韓国語版があるが日本語版の方が映像作品とみて優れている。総じて物語風になっていて、或る「お兄ちゃん(韓国語でオッパだと思う)」と歌詞中で呼ぶ年上の相手へ純愛の類を語る構成だが、東京オタク文化での萌えとは全然違う感覚論がある。オタク文化だとこの種の妹の様な素描は、いわば性のモノ化の文脈に置かれがちである。例えばでんぱ組の歌曲などがその典型かと思う。もっというと、少女側が置かれる社会的文脈が、男側から性的対象としてどう見られるか、という(むしろ悪い意味で)都会化・商業化した媚びを含む物として表される。が。このIUの『Good day』では、一から十まで少女側からみた無垢かつ素朴な純愛の表現に神経が注がれ、演出される。性差論的にいえば、総体としてだが(細かくいえば踊りの演出などには大人からみた媚びの演出にみえなくもない点も見当たるが)、少女中心主義で物を見ている。この点が興味深いわけだ。JPOPの演出は総じてファンからカネを巻き上げる為の嘘が見えみえなものであり、その作り事を裏まで見せて盛り上がってどうぞみたいな風になっており、それはおにゃん子クラブ以来の秋元康や、テレビ番組『ASAYAN』以来のつんく♂らが少女アイドルを芸者育成ゲーム化したからである。半玉の消費である。なるほどIUもKPOP側では所属の最大手事務所(KakaoM、旧LOENエンタメ)に妓生的文脈で売り出されている存在にすぎないともいえようが、無論当人もそれを望んで歌手になってるんだろうけど、ここで指摘すべきなのは、少女自身の世界の見方を表現しているという点だ。ここがJPOPの芸妓界一般とは違う。大人からみた世界の中に位置づけられる少女と、少女自身からみた世界の中に位置づけられる少女と、いづれの観点に立つかで、ある歌舞曲の表現している宇宙は、主観的に全く別のものとなるといってもいいだろう。そしてこの少女側からみた純愛を評価する世界(昔は松田聖子が象徴)が韓国には生きている。樋口一葉『たけくらべ』は、ある江戸の少女が強制的に遊女にされる悲劇を描いたものだろうが、今日のアイドル歌手の類は少女自身が望んで芸妓になりたがる。だからといって、大人に媚びを売って消費される存在として萌えアイドルを演出する東京圏の歌舞芸能の作りは、僕には江戸時代と変わらなくみえる。
 無論、松田聖子だってIUだって作り事じゃん、高々アイドル歌手なんて大人が曲も詞も書いて歌わせ踊らせてる操り人形なんだよという胡散臭さ(演劇的要素)は背後に残っている物の、それを含め、総じてどんな世界観を世間に提示しているかが或る歌曲の芸術的側面といえる。もっというと、その少女自身がさも当人が望んで歌ったり踊ったりしている様に演出されている現実感と、いかにも大人達の操り人形として大人に媚びる萌え人形らしさを嘘っぽく演じている現実感とは違う。前者の品位が十分に高ければ、なるほどそれはモーツアルト的といわざるをえない。これがKPOPのIUだ。尤もこの後のIUは平凡な歌手、或いは一部の曲(例えば25才になった悲喜こもごも感を表現している『Palette』)を除けば通常のソロKポッパーに過ぎなくなっていくので、ある奇跡的表現性を獲得していたのはこの一曲『Good Day』日本語版、特にこの歌舞映像作品だけ。短編映画的。そもそも、僕はこの『Good Day』を差し置いて、ほかにある少女がお兄さん(又は年上の男の人)に隠し持つ、まだ(或いは永遠に)性的ともいえない純真な慕情を丁寧に歌い上げている詩を一つも知らない。それがKPOPの形式、歌、踊り、映像の演出で同時に行われているのが独創的なのもあるが、興味深い。通常の歌、或いは詩は、大人が大人の為に書いている。さもないと子供のこどもらしい感情を詠った詩は一段下にみられている。けれども大人が想像的・演出的に書いているとはいえ、『Good Day』は少女側からみた或る憧れまじりの慕情の歌詞であり、これ自体、詩の世界全体からみてかなり貴重なものと思う。
 もう少し細かくいうと、近年流行したJPOPの中でも少女に恋心を歌わせている類のものはあるが(モーニング娘『LOVEマシーン』とか、よりマイナーならChuning Candy『Dance with me』とか)、総じて直接的な発情表現であって秘めた片想いの表現ではない。が『Good Day』はいうまでもないがいわゆる慕情を秘めている少女の内面表現であり、前に挙げた『Rain』と共通しているが、大げさに語れば両班階級の貴族的なものとでもいおうか、おおっぴらに恋愛模様を楽しむというより秘めた感情を押し殺しながらも隠しきれないといった貞操的心理の素描になっている。もしある恋愛又は慕情の詩が感情表現であるならば、その重要な意義は、単に直接的に想いを表明してある率直さ(好きだとか交尾したいとかいう動物的なもの)というより、いわく言い難い心の内面の襞を的確な修辞を駆使して描出し、かつ万世に伝わりうる文法的な典雅さに至らしめているかがその要となる。
 この点でも、僕が聴くに、この2作テヨン『Rain』とIU『Good Day』は十分な合格点を達していたという風に思える。これらの作品がなかったら、我々はこの世で知りうる人類にとっての慕情の可読性の一部を欠落させていたのであり、要は「へえ~どっかの女が片想いの失恋で落ち込んでるとき外で降ってる雨の情感ってこんななのかもしれないんだ」とか「少女のいうお兄さんが好きだってこういう感じなんだ」とか、そもそも異性でもあれば想像的にすら、余程の共感知能がなければ知りえない感情世界の一部を覗き見る事ができるのだ。

 で。グループ曲に移るが、まずトゥワイスの『Fanfare』は全体として若さに伴う健康美を表明してる、質の差こそあれ総じて性的な魅力をみせている(つもりの)ヒト科の女みたいなのしか出てこない。この意味ではオリエンタリズムの映像そのものだが、その軽妙さ追求度が尋常じゃないレベルに行っている。古今KPOPは全体としてそうだが、美男美女に整形文化や化粧技術込みで華麗に歌舞させる審美的理想化、極端な美化が基調だが、しかもユーチューブに流す無料の歌舞映像をさらに高度に加工までしているのが普通だが、その全史を経た洗練の極度に到達した作品といっても過言ではないのではないか? と思う。全く歌詞もポップソングとしか評価できない軽さで、いってみれば明るさ以外の何も著していない。けれどもこれはある場合には、極度の底抜けの明るさというのは突き抜けた表現、志向性の一点突破戦術みたいなものであり、『Fanfare』はどこにも暗さとか陰湿さ、あるいは心理的深みのかけらもみられない。落ち込んだら泣いていいんだよとか、無理しなくていいとか酷く軽い態度の慰めしか語っていないし、君の事(視聴者)を全部分かってるからとか明らかに嘘なのだが、総じて客を明るく励ます事しかメンバーに言わせていない。ま、これはアイドルキャバレー化しているだけともいえなくもないが極端に表面的。僕はKPOP含め世界の色々な音楽を聴いたり、文学をできるだけ隈がなくなるようむさぼり読みまくってきたが、ここまでポップさ、軽妙洒脱に特化した歌詞は一個も見たり聴いたりした試しがなかった。それは通常、文学界では小馬鹿にされる側への進歩、進化であり、逆にここまで光側しか語らないのはごく希。なるほど世界はここまで光で満ち溢れ、若く(多少あれ)美しい女性ばかりでできあがっているわけでもなく、この『Fanfare』は完璧な作り事である。小うるさい欧米性差論を離れ東洋女性の理想郷みたいな世界観の中で、楽しく笑って生きてられたらそりゃ楽園かもだが、まさにそれを原理的に追求している。もっというと、この『Fanfare』が表現しきっているのは、日本でいう「女子力」の一典型例であり、それを台湾、韓国、日本女性らの歌舞芸能中で、映像加工の技術的演出と共に、集約的にみせているかと思う。ここまで徹頭徹尾ポップさ一点に絞りきった表現はほかにみた事がないので、僕はかなり驚いた。更に分析すると、いわばこのトゥワイス『Fanfare』的世界観というのは、楽園喪失を経験した西洋的・ユダヤ教的な原罪観の正反対に位置づけられる何事かであり、人は生まれながら恵まれた存在で誰もが救われ得て人生はどこにも曇りなく輝き得て、それは誰でも可能みたいな解説であり、楽園趣味であろう。仏教でいえば法然は、来世が楽園であり「南無阿弥陀仏(無量の悟った人に帰依します)」と唱える易行によって誰でもそこへ行けるというポップ宗教を創始した。トゥワイスの大衆歌全体での位置づけは『Fanfare』でこの浄土宗的なものになったといって過言ではないだろう。大変に極端な大乗音楽性である。大体KPOPが日本に進出してきたのはBoAからからだったと思うけど、約20年経てここまで極端な大乗的色彩を獲得したのは記念碑的だと私は感じた。大体、最初は若い美男美女集め極端に整形・化粧で美化し複雑に躍らせる独特の形式でもなかったが、現時点ではこの『Fanfare』でJPOP超えた極度の軽さを得た。性差論の面からいうと、次のアイズワン『Up』とも関わるが、欧米思潮のフェミニズムの影響を寸分たりとも受けていない。『Fanfare』もいわば心の底から、一典型的な現代女性らしさをただただ女らしく表現する事に集中しており、その意味では純粋無垢。欧米女風の自己批判的屈折はどこにもみあたらない。僕がそれを見て感じるのは、先ず欧米人一般への強烈な反定立なのである。欧米社会ではフェミニスト(女性主義者)と称する人々が、性差からの解放を訴え、女が男らしく、或いは中性らしくなど、逆に女のいかにも女らしい表現を侮蔑するなど、見方によっては大変ひねくれた少数派絶対の文化を作っている。しかしKPOPで日本語歌詞を使う時の一般文法として、日本市場でウケる為の媚態の一種なのだろうし或いは日本女性一般の女子力アップ的同調圧力の風土にあわせ、いかにもフェミニン(女性風)な魅力を表現しようとする。そしてその最終帰結がこれ。『Fanfare』でありアイズワンの『Up』。反フェミニズム。
 反フェミニズム(反女性主義)の方が逆に、極度に強調した女性らしさを結晶表現させるなど、歴史の皮肉でしかない。このアイズワン『Up』っての、歌詞からなにから男らしさなるもののかけらもなく、もはや女性性が美化されすぎて天使に類したものになっているのである。偶像(アイドル)が天使なのか。普通に考えてこの日韓混合グループであるところのアイズワンとかいう秋元康とコラボ期間限定のやつら。そんなの唯の芸妓であって天使でもなんでもなかろう。しかしながら実際に曲やら踊りやらをよく観察してみればわかるが、完全に、神聖乙女が天国に連れて行くわ~手を握るあなたをみたいな内容である。一体全体、そんなやついるものか。ダンテ『神曲』か。あなたら。ベアトリーチェの世界でしか知らないわ。ゲーテ『ファウスト』すらグレートヒェンをそこまで聖性まとう処女として神格化していない。でもね、このアイズワンの『Up』は昇天の歌詞なんですね。しかも上述KPOP理想美化文法の中でそれを語る。これも僕は芸術表現とみて、ここまで極端に女性性を美化してあるものってみた事ないなと驚いた。文学史全体を見返しても、まじで現世の天使として自分(達)を表現するとかないんですよ。これもまたKPOPだけに作り事だ。だがそこで歌舞化されている内容がこれまた独自すぎ。ギリシア神像的といおうか。ポップさ、軽妙さの点では『Fanfare』MVと双璧だが、特にこのカラフルな衣装で韓国テレビ番組(M COUNTDOWN 2019年4月1日)で歌舞してる時のそれが極端に凄い。なんというのか小さな女子の憧れる可能性があるアイドル像の中でも、最たる無垢な天使イメージ、その粋の象徴化の風にみえる。ギリシア彫刻家ももっと大人ぽく作っていた。なんでこんなものが出現したかだが、考えられるのは日本側の秋元康・つんく風のロリコン半玉育成文脈みたいなのが、コラボ企画で韓国側の理想的美化と混じったのであろう。同じ事はトゥワイスにも多少あれいえるが、それが少女版で遂に結晶したのがこのアイズワンでその中でも『Up』の踊りと私はみる。

 余りに日本や韓国のアイドル文化に慣れてたら、一体このどこにでもいそうなグループぽいののなにが凄いのか分からんと思うが、そうではなくて世界全体の音楽・芸能界をみてたらすぐわかる。先ず美少女集めて躍らせるとかいう企画そのものが殆どの国々では幼児性愛が倫理的禁忌だから成立しない。それが辛うじて成立するのは極東の一部の国々だけ、特に他国に比べこの点での性道徳(少女を性的魅力があるものと目して商業的に消費する文化面、恐らく起源としては京阪や江戸の芸妓・遊女らの遊郭社会からきている)が甘い傾向にある日本だけなんだが、さらに韓国的な妓生の理想化と協働している珍品がこれ。例えば、ご当地アイドルなるもの(これ自体が特殊な文化)の中では、アイズワンより寧ろ上質な少女らしさの美化がみられるもの(かしま未来みこりーな『城山桜』とか)も希にあるが、だからといって、偶像崇拝内での宗教的神聖性を結晶させる所まで行ったのは『Up』以外みた事ない。古代ギリシアで神々は肉体を持っていた。人格神と呼ばれるよう、個性的キャラクターをもった神々だった。これは古代社会では結構広く見られる多神教妄想だが、現代文明の一部でも、偶像崇拝の形でその名残がみられる。アイズワンの場合、自分らを天使モドキの存在として描いてるんだから神話化だと思う。そもそも単なる歌手や踊り子、それらを兼ねる芸能人・芸術家の類を、「アイドル(偶像)」と称する様になった時点から日本には、神道(中国から多神教を輸入し皇族を神聖教祖として偶像化する日本独自の民族宗教)が創始された奈良時代以来の多神教的な偶像崇拝の風土が世俗に復活してきたといえたが、このアイズワンに至って、そのアイドルがファンだか視聴者を天の上に連れて行く神聖性を帯びるまでに昇華された。唯のそこいらの少しは美形の少女が、オーディション受かって、プロデューサーのいうままに歌って踊ってメディアに出て、ライブで客商売するだけで天使のわけないでしょ。だがそういう作品。或る意味ではこれも記念碑的。確かにおにゃん子クラブあたりからすでに兆候はあった。ナイナイ矢部が岡村に高校サッカー部ではじめて話しかけた時、「岡村しゃん、『夕やけニャンニャン』って見てはります? 僕あれ観てるとドキドキしゅるんでしゅよ」と言ったとされるが、最終的には、アイドルって実在しうる天使だったのか、って所まで行ってしまわれた。日韓文化のキチガイ(クレイジー)っぷりがここまで進むと最早圧巻としかいえないであろう。もうね、欧米文化の出る幕はないと思う。女が女らしさ、特に少女らしさを公然と何の恥も覚えず堂々と主張していける世界って。画家だとミスター(Mr.)が似た様な、アイドル文化に影響受けたといってもいい少女マンガ風の女性像を沢山描いていますが、こういう面で(美)少女文化みたいなのは世界史上・市場で、絶対的な地位を確保していると思う。日本が。他の追随を全然許さない。或る意味では宗教だ。僕がみてて似た色彩を若干帯びていたがすぐ消えたのは、タトゥー(t.A.T.u.)だけだ。あのテレビ番組『ミュージックステーション』で炎上商法やろうとして消えた2人組ロシア人少女グループ。だった筈。似た部類のアイドル化デュオ音楽のパフィー(PUFFY)の方が世界的軽妙性を獲得してた様にも思うし、日本の(美)少女美化への熱情は凄まじい。自分の国が関わってる事柄で文化衝撃を受けるなんざそうない。だがこのアイズワンの『Up』の歌舞は、僕には或る異文化の次元に到達していた。ポップさを追求している点ではトゥワイス『Fanfare』もなんでこれこんな女性的健康美以外何も主張してないんだ? と思ったが、『Up』は神聖化が尋常じゃない。

 これら自分がみてきたKPOP全体で、かなり傑出した程度にある4つの作品だが、残念な事になのか、僕はKPOPの男性歌舞グループで感動した事がまだない(下記ロックグループやラップなど、或る意味ではKPOP全体ではマイナージャンルになっているアイドル音楽以外の音楽家らは除く)。これは不思議な事でずっと考えてる訳だが、日本だの英国だのなら男性音楽家でいいのがあるのに、なぜか韓国のそれは僕にはチャート上位範囲では一般的には質が劣って感じられる。僕が見たKPOP男性陣の殆どは、なんかビジュアル系の悪い方面(見た目だけ)の進化版であって、しかもその見た目も決して僕の好みではない。なんかこういってはなんだがオカマっぽい女々しさみたいなのがあり、顔つきとかが変な感じにみえて、男として総じて好きじゃない。整形のせいなのだろうか? ジャニーズについては、今は亡きジャニー喜多川なる少年愛プロデューサーが女性ホルモンの注射を少年らにさせていたとか噂に聴くが、それが真実だったとして、確かになんか総じて女っぽい(総じて弱々しい)顔つきの連中であるから十分ありうる。中には美男子もいるかなとは思うが理想的男性性ではない。これらのビジュアル的評価を無視しても(踊りに伴う芸能的側面でしかない)、ジャニーズの曲って、一般には有力なシンガーソングライターとか作詞・作曲家が作ったのをそのまま使っている。スガシカオとか槙原敬之とか。それにダンスつけてるだけだからこの点では一応聴けはするものになっているが、オリジナルな音楽家としての売り方ではない節もある。光GENJIあたりまでの時点では違ったが、特にスマップ以後だろうけど、テレビ芸人としての売り方のが中心なわけである。この点で、歌舞中心のKPOP男性アーティストはジャニーズ系と質が異なる音楽性になっていてもいい筈だが、その質が僕には十分でない。恐らく韓国での伝統に属する妓生文化(宗主国への接待関係に必要とされていた面もある)と、現代以後の男性KPOPアーティストでは求められる社会的文脈が異なるのとも関連していると私は個人的に分析するが、なんともいえず曲も歌も踊りも中途半端で、ジャニーズよりは歌も踊りも巧いが精神性を感じない。僕が今まで唯一感動したのはこれだ。
 BTSのRM(モニ)という人が原爆ブルゾンを着て、ソンビ(両班階級の在野文士)みたいに古書店か何かで本を読む姿のPVらしい。韓国人男性歌舞には、彼らの魂を世界に主張する為の、この種の社会的文脈、乃ち精神性が一般に欠けているのである。韓国に嘗てあったのは両班の統治する文人貴族の世界観だった。そこでは儒学の道徳的探求が社会正義であり、彼らの貴族義務の誇りと、彼らへ民衆からの憧れと畏れのもと李氏朝鮮の精神世界ができていた。だが力関係では宗主国(明)からの略奪や元からの侵略に苛まれ、遂に日帝からも不当な支配を受けた。米軍が原爆投下をしてくれたお陰で、やっと平和な文人の暇がもどってきた。このRMのちょっとした映像にみえる一瞬は、僕の目には彼の魂のプロパガンダにみえる。BTSファン(Army)は歴史的経緯を深く思量し、彼がここでなにをいわんとしているのか読み取るまで高文脈的ではないのが残念なだけだろう。もっというと、ソンビ(文士)的な高文脈・高文化性と、軽薄な大衆ウケを狙う媚態による商業音楽との相性は必ずしもよくなく、この点でKPOP男性アーティストは本領を発揮しきれていないのだと私は思う。その隙間で一瞬だけ垣間見られるのが兵役下に置かれた韓国人男性らの愛国心表明と日本との摩擦だ。日本の大衆次元での高文脈への理解力は、サブカル全開の土壌であるよう一般に甚だ低いので、BTSメンバーらが一種の政治的喧伝として原爆モチーフをとりあげる、いわばまっとうな歴史解釈をひたすら抑圧しようとする。韓国からみればキノコ雲は彼らを魔の手から救済した反撃の狼煙でもあるだろうし、もっと深堀りすれば周辺民族から望まぬ侵略を受け続けてきた韓国と北朝鮮(侵略者・日帝――より内情的には薩摩国・長門及び周防国・土佐国ら征韓論勢力と天皇一派――の帝国主義破綻によって分断された本来の祖国の仲間)にとって、やっと唯一訪れた小休止が、原爆による侵略犯にあたる悪党一派の撃滅だった。それは祖国愛の一場面である。必ずしも音楽事務所に作られた曲・歌詞を歌って踊るだけの歌舞伎者に限ってではなく、シンガーソングライターやラッパーなど自ら創作しうる余地がもっと広い条件に置かれてはじめて、韓国人男性音楽家らが本来述べるべき世界観を、単なる大衆商業性から離れ主張できる様になるかもしれない、と私は思う。
 例えば
Hlin『그대를 그린다』(君を描く)
とか
Hermin『봄이 오면』(春が来れば)
とかは、僕の知る限りKPOP(KROCK)中でも質の高い作品だが、必ずしも商業大衆音楽を目指さない世界の中では、軽妙さ以外の追求を図ることはより容易なのだから、そこでのみ、妓生側ではなく両班的な伝統と、現代韓国音楽の本質を接続できるだろう、というのが僕の意見である。なにしろ、儒学の本質はある種の反商業主義・反大衆主義といってもよく、政治階級を兼ねた文人貴族の教えだったのだから、この韓国的な理想男性像と、今のKPOP歌舞は大層相性が悪いのだ。