やっと気づいたが、アカデミシャン(学会人、教授ら大学人、その他、一般大学生やら偏差値教育好きの生徒らやら)の思考回路って、彼らは或る真偽、善悪、美醜、聖俗など諸価値の判断に自分の知性を使っていないのだろう。それで引用回数主義による論の既成評価度、学位学歴など権威を判断基準にする。
僕が彼らを理解できなかったのは、自分は凄く子供の頃から既に自分の知性で思考する人間だったからなのだろう。思い出すだけで3才くらいの頃、物心ついたころ既にそうだった。家族で車に乗ってて3、4才くらいの自分が「なんで春休み、夏休みあるのに秋休みはないの?」といったら父と姉に笑われた。3才の頃、昼寝だといって母の隣に寝かされて、一人でなんでこんな暑苦しいのに(僕の世話で母が疲れたからなんだろうけども)うまれてこなければならなかったか考えたと以前も書いた。これは本当の話で、今みたいに語彙はなかったけど確かに、自分の知性で既に考えることができる子供だったわけだ。
自分より遥かに愚かな人とか、遥かに賢い人の考えは、自分のそれと大きく隔たったなにかなので、一般に理解し難い。自分の目には下らない漫画アニメを日本の誇る文化だとかいってるサルみたいに見える民衆も、特に東京文化人の人達(オタ批評家ぶってた東浩紀氏とか)も、自分には全く異星人にみえる。正確に言うと、遥かに愚かな人(馬鹿)と、遥かに賢い人(天才)は、紙一重ではなくてまるで違う。どちらも一般化すると特殊な変異ではあるだろう。もしある知能の特徴が仮に標準偏差しているとすると(実際にはそれよりずっと複雑な分布だが)、正の値と負の値、どちらの裾野もありうるわけだ。
みずからの知性で考える能力がある人と、単に他人の知性を権威など擬似相関または誤認の要素で曖昧にしか判定できないひとがいる。心理的に「多数派に訴える論証」「赤信号皆で渡れば怖くない」式に、なんらかの権威に帰依し、思考停止するほうが楽という知能で生まれついた人々がいるのだろう。
自ら考える能力がある人をここではソクラテス式知者または哲人と呼ぶ。また権威のみによって価値判断する人を学歴主義者と呼ぶ。哲人と学歴主義者は一般にある事柄についての濃度として分布しており、哲人度を高濃度と置くと、非専門的な分野について特に濃度が薄い(権威に頼る)傾向になりがちだ。なぜならある分野の素人は、その分野について自ら価値判断が誤り易いと自認しているからである。より精密には、ダニクル効果で或る分野を中途半端に知っている状態が一番その種の誤り(権威に基づく誤判断)を犯しづらい事になるだろう。もう相当知っていると思い込んでいれば権威を頼らなくなる。
我々が「自由教養」「一般教養」と呼ぶ、アリストテレス『ニコマコス倫理学』でいう、程々に全分野に通じている状態に利点が認められるとすれば、正にこれにあたると思われる。いわば中くらいに知ったかぶれていれば、素人状態や玄人状態より自己過信で、権威(偽者と本物両方)を軽視し易いのである。
例えば、建築学深くやっていると、ミースが近代建築に与えた影響は決して無視できない事になる。というか知れば知るほど本物の権威とみなさざるを得ない。また素人は雑誌載ってるから(鉄・ガラスによる合理的構造などよくわからないのに)権威と思う。が、中くらいに知ってれば「けっ」となりうる。
偽物(偽者)の権威と、本物の権威。これらは表面的には一流ぽくても、更にその上に超一流の存在がいる点で差がつく。正直、僕にはアインシュタインって全物理学者らの中で本当に一流だったのか疑わしいと思えており、これも僕が物理学だけに専門化しなかった僥倖、棚ぼた、セレンディピティかと思う。超一流のレベルからみると、一流レベルってかなり下の方にいる。例えばノーベル賞とかいってるのは超一流からみると2.5流くらいの感じにみえてるんだけど、素人からは一流以上の差って余り見分けがつかないばかりか、超一流を二流だと思っていたり、二流を一流だと思ってたり見分けついてないわけ。
いづれにしても、権威による判定は全て間違っている。なぜなら本来なら実があるからそれを知る人達の間に権威が発生するわけだけど、この実がないのに過剰評価が発生するのが常だからである。
本当は偉い批評家が同時に哲人でなければならず、ソクラテス流に権威を全部助産術で叩き潰すしかない。
幾らソクラテスといっても真の知者である神々、この世に実在の範囲なら聖人の類を助産術で論難させるのはまずできない。逆にソクラテスの無知が暴かれる。いてつくはどうかけようがこっちはひかりのドレスきてるんだけどみたいな。ドラクエだと。なので、最強戦(超一流同士)レベルだと権威=実だ。
観客としても超一流の最強戦ってのは希にあると思う。僕はそれを期待してローティとデリダの対談本買ったんだけど、前から書いてるが普通にどっちも雑魚だった。
浅田vsデリダだと浅田が雑魚スノッブ過ぎて惨めだったが、デリダは所詮、二流から一流くらいの学者でローティも二流くらいだったと思う。デリダは脱構築的手法で何でも話題をそらす。それで自分の正義論の土壌(大変に衒学入ってるフランス流)にひきこもうとするんだが、ローティは実用主義側として全然応じない。それで平行線で何の対話術にもならず終わってた。それ引き分けであって最初から対話してないのと変わらない。だから二流。僕が期待してたのは、フランス衒学(嘗ての合理論がスノッブ化した風土)の上に立つデリダの脱構築主義みたいなの(厳密に当人の言葉に即していうと違うんだろうけど、仮にそんなものとする)と、大草原の小さな家発の実用主義って根からして違うし、どう相克すんの? と思ったら遥か止揚以前だった。
プラトンの対話編はソクラテス最強説にたってるから、彼に匹敵する知者がでてこない。それで理想主義者プラトンvs現実主義者(厳密にいうと幸福主義者)アリストテレスをのちにラファエロが『アテネの学堂』で描く事になった。対話術ってイデア界(ここでは言論界)での出来事だから時空を超える。つまり最強戦って大抵は、レベル99の人って同時代に匹敵する人がいないから、時空を超えて行われる。しかしこの時空超えた格闘技が、本当に超一流の人達の主戦場なのである。
僕ははっきりいってそこでしか主戦があると思ってないから同時代の雑魚と余り関わりたくないし今後もそうだろうと思う。
慶喜が学者として評価された事はまだない様に思うが、彼の思想はその基礎が水戸学の伝統(尊王論)及び後期水戸学(攘夷開国論)に即しているが、実践面だと内治と平和外交だけでなく近代化、開港、天皇への禅譲まで行っていて、後世の目にも重要な政治思想家にみえる。特に天皇が主権者の上との考え。慶喜は『徳川慶喜公伝』等で日本の最高善は天皇への絶対忠誠だと語る。それゆえ一度天皇が出陣したなら徹底的に禅譲するのが自分の使命だといい、鳥羽伏見・上野・戊辰戦争などの内乱に一切関わらず、進んで江戸・水戸・静岡へ退去謹慎する。つまり水戸学の純粋結晶体みたいな尊皇思想家なわけである。将棋でいうと、王は俺(将軍)じゃなく天皇なんだから、自分は竜王だくらいの感じで動くものだという話。この盤面全体の構図を分かってた志士って当時も今も、水戸学派だけだったのである。なぜなら世界・日本通史観における知的水準が低いから、メタ認知の水準が一般に雑魚の間では低いからなんだが。
じゃあその後の左派が、例えば最近でいうと津田大介が、徳川慶喜となんらかの霊界通信で時空超えて対話したとしよう。これがいわゆるイデア界での戦いである。
津田は慶喜に「でも表現の自由がですね」というけど、慶喜は「自由の濫用なり」と返すでしょ。これだけで旧水戸浪士に対談打ち切られる。道徳性の深度がまるで違うので、津田はレベル14くらいでレベル99の慶喜にバトル挑んで、ツイッターブロックなしには寸時も耐えられないであろう。
自由の濫用でしょ、といわれて「違いますよ」って言い訳できるだろうか。絶対無理でしょ。だから雑魚相手にさえ逃げ手を打ち続けて今に至るわけだ。
天皇は日本国の象徴だってのは制度であると同時に、最低でも国体論(会沢『新論』)以後、イデア次元でも日本的人倫の核心にいる存在だからであり、帝への忠誠の元に全国民はまとまってがんばろうっていう後期水戸学の構造を、だーれものりこえられてないからである。津田はヤンチャしてるだけである。
津田勢は明確に慶喜思想を否定し、「いや、勝てば官軍でしょ。天皇も軍事的に倒しちゃえばどうとでもできるんだよ」とか。「マッカーサーは偶々天皇を処刑しなかっただけ」「徳川も禅譲とかいってるけど、紀伊家が継いでたら絶対政治で西軍ぶっ潰してたんでは?」こういうイデア次元で戦うしかない。しかしそれだけのレベルに到達してないから、あんな雑魚い感じでぼろぼろに負けてるわけ。簡単な話。知的な戦いの作法とか、皇室タブーが品位がどうとかいう以前の話で、軍事力なしに天皇勢・右派に喧嘩うっても自衛隊操る自民党に潰されて終わりである。東浩紀も津田もこの意味でレベル上げ足りない。彼らは道徳レベル50にすら達してないのに、レベル99慶喜と同次元の戦い(超一流戦)に特攻したもんだから大炎上で敗退した。そりゃするでしょう。考えるまでもなく。さらに東パーティは、裏で道徳レベル10以下の黒瀬が暴淫隠蔽していた。党派の政略としてもお話にならないといわざるをえない。
日帝は悪例みたいにいわれてるが(時に悪行していたとしても)、そんなのGHQや国連の文脈である。冷静にみたら唯の帝国主義挫折させられた立憲君主国の敗戦にすぎず、根本にある慶喜思想の義「天皇に絶対忠義」は寸分もゆらがなかったのである。であれば、東も津田も一から出直して道徳磨くしかない。
共和国でそうあるよう、「天皇なんざいなくても国つくれる」「天皇なんて道具」「皇族なんて税浪費の俗物」「生まれで差別はおかしい」「浮浪者が皇族より不遇なのは不公平」「性差別のカルト天皇は人権の敵」とか色んな角度から天皇勢を叩く事なんて幾らでもできる。道徳レベルが高い戦いなら普通に。
そして、実=権威、の本物の超一流戦なら、大打撃有効打(雑魚が一瞬で自信喪失)以外を出してる暇なんて一瞬もない。実際そういう次元があるから慶喜公が内憂外患の超急場でああいう判断できたのだ。その戦闘に辿り着いてない時点で、権威に頼る学歴主義者は全員無力というしかなく、無意味な存在だ。慶喜思想のいわば「尊皇絶対論」は、嘗ていかなる学歴主義者にも一度も否定された事がない。それを哲人が完全にやり遂げてはじめて、明治国家の枠組みをぶっ壊せるわけだ。
そして僕が知性でやってきたのも慶喜思想含む旧水戸学の脱構築だったのだが、僕以外でその戦闘に加わってきた人みたことがない。
三島由紀夫がエライエライ。天才だ。全くの虚偽。なにせ彼の思想なんて慶喜思想の追随者も追随者で遥か出遅れたものだったんだから。尊皇絶対論vs天皇機関説を全然もちあげてないまま、自衛隊決起で国会占拠、在日米軍追放の内戦なんて大抵の国畜公務員には高リスクなだけ、自発的に実行する筈もない。
既に僕の中で慶喜思想は大分のりこえ済みだから、レベル99以上でも工夫次第で最終戦の上にいけるんですねって話で、僕は日本人ゲームをプレイしてきたわけだが、要するに尊皇絶対論は宗教でしかない。僕はその宗教の外に立つから天皇君臨(象徴天皇)国が潰れてもいい。よって天皇機関説も取らない。天皇は祭政政治(宗教統治)の教祖であり、駒でもある。そんな存在あろうとなかろうと、神道を信じない僕にはどうでもいい事だ。国政の中で池田大作の占める位置と、天皇の占める位置に本質的な違いがある様には思わない。唯の勢力差だろう。
哲人の戦いは斯くして学歴とかどうでもいい。実だけだ。