「頭の良い人は難しい事を簡単に説明できる事が非常に多いのは確か」とさえずってる人がいて、この命題ってツイッター界だと何度も出てくるし、僕は間違ってんじゃないかと経験的に思う。つまり偽。一般にそういう事は多くない様に思う。「難しい事を簡単に説明できる人が頭の良い人に多い」命題は、それを「衒学的な人が賢いといえる」という別の命題と一般人が勘違いしてるだけ。寧ろ、純粋に難しい事は、説明もし辛いのだ。
もう一度確認で書くが、この命題はきちんと考えておくに足ると思う。ツイッターコミュニケーション上の頻出問題といえる。
1.衒学は分かり辛い(わざと分かりづらさを衒って賢そうにみせる擬態)
2.複雑な事柄は簡約化し辛い
3.簡約化は複雑な事柄を述べるにあたって必要ではない
4.読者の理解力は事前に想定できないので簡約化は読者の理解力が事前に分からない条件下では不可能
5.読者はおのおの理解力が大幅に違うので想定される理解力度の集団群に対する最大公約数的な簡約表現ができるだけ
6.最大公約数的な簡約表現はツイッターの様、ある事柄の対人的説明でない条件下では必要ではない
7.よってツイッター上で複雑な事柄を簡約化する能力は賢さ一般の目安ではありえない(仮にそれがありえても相手の理解力度が事前に発信側に分かっていてその特定標的に最適な簡約化できる場合のみ)
8.また簡約表現の能力(解説力)と、複雑な事柄が分かる能力(研究力)とは別
9.解説力と研究力を兼ねている知能もあれば、そうでない知能もある
10.解説力のみが高く研究力が低い知能の持つ賢さ(予備校講師的な能力)を、研究力その他の賢さと混同するのは愚か
11.研究力が高く解説力が低い知能の持つ賢さ(純粋な研究者の能力)を、ある賢さの証拠でないとみなすのも愚か
12.解説力も研究力も同時に高い知能が持つ賢さ(教授的な能力)を、賢さ一般の目安とみなすのも愚か(研究だけに特化している知能とか、その他の知能が持つ賢さも一般的でありうる)
これらの簡約化をめぐる知能の特性を鑑みると、簡約化してくれろ、簡単に説明してくれろ、それができたら賢いとみなしてやるよ、ってのはいわば消費者としてテレビ解説文化に慣れきったサルの態度にすぎず、自分より賢い人を暗に小馬鹿にしている傲慢さに過ぎない。
相手が本当に賢かったら、その種の低知能サルをどうみなすかといえば、慈悲でとりあつかっているか何らかの解説義務がある場合以外では中立的価値を除けば原則として利用価値でしか扱わないだろうし、何せ愚か者に親切に解説費使って何の私利又は公益があるか次第だろうから、単に子供扱いしている筈だ。
要は、「分かり易く教えてくれた~この人賢いんだワア」ってのは完全にサルの態度に他ならない。サルならそれでいいんだろうが、賢者からみたら単に相手の知的水準にわざわざ合わせて簡約化してる以上、真に複雑な事柄の偽物をつかませているだけで、それで納得してるんだからいいやと見下しているのだ。
これを考えるだけでも「簡約化は賢さ一般の目安」って命題は先ず明らかに偽。これは上記でほぼ場合分けしたと思うし然程疑う余地がなさそうに思う。必ずしもそうでない、で決着だろう。
次に、じゃあその簡約化の巧さ(解説力)が賢さ一般にとってどれほど卓抜し易いか、それに必ず付随する能力か?
賢さ一般を最も通俗的な意味でIQの高さとすると、その中で特に共感性を使った論理的な推測の範囲内で、相手の知能に認識されていると想定される立場から事柄の複雑さを反射的に見て、相手の立場にたってそれを解説する場合が、ここで駆動されている知的能力の部分だろう。いわば共感的推察力である。
IQの高下と共感的推察力が厳密に相関しているか? 低IQでも共感的推察力が高い人がおり、高IQでもそれが低い人がいるのは目にみえているが、一般論としては、精神年齢がより高い方が、人間性の理解に関わる経験知などから相手の立場を推測し易くなるとは言えるだろう。つまり共感的推察力の強さは、IQとも少しは関わっているかもしれないが、よりはっきりと、寧ろ肉体年齢と一般に相関しているかもしれない。子供だけの集団とそこへ大人まじりの集団で、後者の方が何らかの複雑な事柄の指導に、一般的に有利になるのは「保護者」「教員」の概念でも分かる。
という事は、ある複雑な事柄の解説力の練度には、精神年齢(ここではその一部だが同年齢内の偏差であるIQ)、及び肉体年齢が重要な働きを示すと考えられる。
よって賢さ一般にとって解説力が卓抜し易いか? という点については、寧ろ精神・肉体年齢が上がると通常有利になるとはいえるかもしれない。いわば賢さ一般というより、精神年齢がより老成している段階に近い(これを一般化してあるのがIQだが)か、実際に世知を集めて経験を積んでいる年齢になっていると、一般には解説力がより高くなると考えられる可能性がある。但しこれも一般化にすぎず、事柄次第では逆に解説困難だったりもするだろう。そしてこれらの解説力が賢さ一般、上記で分析したよう寧ろ精神・肉体年齢に必ず付随するかだが、結局、複雑な事柄の一般性に限っては共感的推察力の高下が決定的に働く筈なので、一般論としてはより精神が老成しているか年上かいづれかの場合が有利となるのだろう。しかし全ての事柄についてではない。
だとすると、最初のツイートで述べた所の「いや間違ってるでしょ。賢者の必須スキルが解説力とか、そんなやつ経験的に多くないでしょ」というつっこみは、賢者の定義が何らかの分野の熟達者かその一般化としての「哲学者(博学者)」なら明らかに間違っているだけで、精神肉体年齢だと正しいかも。
例えばアリストテレスはそりゃ古今の天下第一といってもいい哲学者(博学者)で上記定義でいう賢者だろうが、彼の著書が一般に分かり易いかといえばかなり微妙な所で、当人はわかり易く当時の学生向けに説いた講義資料残してたんだろうが、今の目からみても決して漫画級に馬鹿でもわかる代物ではない。高度な議論だ。即ち「より大人な方が何事につけ、一般にわかり易く教えられる傾向はある」というならば論理的には確かかと思う。でもそれは賢者性とは特に相関していない。経験的にはろくに勉強せず年老いた馬鹿な大人ってのが大勢いるので、そこは精神年齢の高い若手の方が解説力も高いという事例にあたるのだろう。
再び、賢者全体の中でも最たる一般化が施された場合(特定の専門分野を持っていないが高度で参考に足る知恵を持っていた人々)を、哲学者・博学者(以下哲学者ら)と同義語とすると、古今の哲学者らの著書が一般に解説力に富んだものかなら全然そんな事はない。というかカントとかヘーゲルとか極めて難読な方だし、解説力皆無に近い。
非常に読み辛く、一般化した賢者(哲学者ら)当人らが一般向けに書いたと思われる本すら難解だったりするので、例えばニュートン教授の講義なんて余りに難しく学生0になった伝説もあるし、そんなの気にせず彼らは自分の研究に耽っていた。だとすれば究極の賢者スキルって研究力の方かと思うのだ。カンスト100で研究力100キャラと、解説力100だが研究力0か1のキャラを比べて、どうみてもスキルポイントを研究特化振りの方が一般論で賢者だろう。解説力100で研究力0か1の方が、ツイッター民一般とかにはウケがいいが、そんなのひたすらバズってるだけのインフルエンサーにすぎず全部浅い宣伝である。スキルポイント100しか与えられていないとすると(現実には全人生時間がそれだとしよう)、賢者一般はなるだけ研究力にそれを振り、逆にインフルエンサー一般はなるだけ解説力にそれを振る。即ち、ツイッター民ウケがいいのは偽賢者ことインフルエンサーで、それは賢さの一種かもでも真の賢さではない。擬似賢者は研究力50、解説力50で打ち止めになる。これが一般の大学教授である。彼らは教授評価制度によって学生ウケもしないと生き延び辛いからだ。逆に研究所に属してる純粋な研究職の方は、研究力にできるだけスキルポイント振れるだけ有利だが、在野で誰にも論文出す必要ない方が100ギリまで行ける。
という事は、解説力は(心か体が)大人の方が一般論としてありがち(子供は言ってる事が自己中心で分かりづらい)という一般化はできるが、結局、究極の賢者の目安である研究力については解説力への労力割り振りが寧ろ足を引っ張る場合の方が多いので、簡約化への努力や圧力は総じて有害ですらある。
そしてより彼ら解説好きに厄介なのは、衒学者という複雑さを偽装する人々と、真に複雑な事柄を研究している真正賢者とを見分けるのが困難という事だ。しかも簡約化の能力にその判断基準を求めると、偽賢者や擬似賢者などから、衒学者より一見分かり易いが、何らかの点で不完全な説明をされて納得してしまう。
解説好きは成程こうしてみると愚かさの一種であろう。しかし人は自分にとって分かり易い程度の事柄しか理解できないので、結局は、並べての事に精通するまで学び続けるしかない。特に衒学者と真正賢者を誤認し、道を大いに間違えるのは、決定的にその複雑な事柄の本質に無知な場合だからだ。
人として為さねばならないのは、この世にいる間にできるだけ複雑な事柄についても遍く通じるまで学びの段階を進める事で、これは簡約化された一般向け解説書を読んで知った気になっているよりずっと時間も手間もかかるにしても、現実には自分自身が道を誤らない為にも唯一の賢い手段といえるだろう。