石原慎太郎がALS患者を「業病」と表現して又炎上、で謝罪した。
これ彼の物書きとしての、かつ人格としての本質的欠点が最晩年までなんら修正されなかった一例だろうと思う。いわゆる衒学で作家ぶるという彼の仕草は東京人一般を長年欺けていたのだ。
僕と石原のかかわりは次の様なものだ。
先ず自分が都内にいた頃、彼は都知事だった。新宿に専門あったので僕がそこまで毎日通っていた中で、部下と信号待ちしてる石原の隣、横断歩道上で通りすがった事があり、彼は物凄く傲慢な感じを漂わせ周りを見下してる雰囲気で、毎度の会見の通りであった。
あの頃2ch文学板に同時代作家陣が集まっていた節があると前から僕は言っている。石原スレッドで自分は都は風紀が頽廃してるからさっさと路上客引きの条例違反してる淫行勧誘罪人を取り締まって代わりにスポーツを奨励しろといった。そしたら石原は本当にそれをやりだしたのはいいが極端にやりだした。
石原は歌舞伎町浄化作戦をやった。それで業者は町田に逃げたらしい。しかし彼はポルノ業界事情については詳しくないらしくて(その種の小説書いてる癖に通人ではない)、いわゆる非実在青少年問題を引き起こす。エロ本ゾーニングしたのまではいいが他のリアル猥褻物関連罪などは放置したままだった。
次に石原はなぜかスポーツ庁というのを政府にもちかけ成立させた。ここまで僕は予想してなくて、単に運動場整備すれば位の意味だったのだが。大体中央政府にわざわざ省庁つくっても無能役人がティクトクかインスタで無駄広報やるだけの話。
そして石原はいよいよ後世に悪果残す五輪招致にのりだす。石原がいつものエゴで福岡の立候補を潰したのを含め、福島原発事故以後は有責者の都にとって復興協力の優先順位が違うんだからいうまでもなく、最初から今まで大規模イベントなんてやっても都民に運動習慣なんてつかないんだから、本末転倒と思ってて私は反対だったけど。唯の都民利権である。
それまでも石原の小説が下らないのは知っていたのだが、この後、いわき市立図書館で石原慎太郎の全作品を網羅して読んだんだけど、これがひどいひどい。まず文章が下手なのは小説になってないレベル、それはまあ才能ないだけだからいいけど内容が下衆なの多すぎ。ましなの一個だけ、息子の結婚応援話。
それで彼はなんなのか。何者かというと、はっきりいって三島由紀夫の追随者。このよくみる写真が本当に彼の一生を現してると思う。
ま、作家に憧れて先輩格の三島さんについていってた小僧みたいな奴が、罷り間違ってコネデビュー、その後の傲岸不遜ぶりはみなが知っている。
石原の一生で最高の功績ってなんだろうか。ディーゼル排ガス規制に違いない。あの灰をもってテレビでふったやつ。あれ以外で何一つとしてましな事した試しがない。風紀紊乱するわ差別扇動ばっかだわ、無駄改称するわ。尖閣出兵で極東国際関係を不安の渦に落としいれ、新銀行東京なんて完全に失敗投資。
何でそんな人が衆議9期、都知事4期もやれてたの? それだけ東京都民が衆愚だからである。今も昔も変わらない。そりゃそうだ、江戸町人シティー。アホだから小説なんて読めない、芥川賞の箔ついてりゃえらいもんだと思い込むレベルの人達である。今も昔も未来も変わるまい。莫迦が馬鹿殿を選ぶのだ。
じゃあいよいよ本題の文芸論に入る。上に書いたのは石原とはいかなる御仁か主客両面からみた前提に過ぎない。
石原の文体が下手だってのは、特に次の点に求まる。わざと難読語や、回文じみたひねた構文使って、美文調にしようとして失敗し続けている。その偽物感が大変酷い。三島追随者たるゆえん。
初期の某コネデビュー作家もそうだけど、三島エピゴーネン連は全員が例外なくこの陥穽に嵌り易い。穴と書きゃあいいだろうに。漢学の素養なんて陸にないのに漢文調から難読漢字だけを引っ張ってくる。要は輸入学者の中古代版もどき。それだけでもかなり地の日本語への冒涜に近いと思うが、構文も下手。
構文の巧さってのは、正文法がきちんとしている場合(教科書になる類のそれ)と、巧みな修辞が利いてる場合とがある。このうち後者を狙ってるのが三島パチモンの連中なんだが、それがうまくできてないの。なぜなのかというと才能がない。もっというと才知? 根に機知がないのに巧言令色しようとする。
感心するほど巧い言い回しってのはたしかにある。過去の人類世界でもその極度にいたといえるのはシェークスピアだろう。その中でも一番有名なのがto be or not to be, that is the questionというやつ。和訳が確定できないくらい、こんな短い言葉にしぬより深い逡巡が表明されている。上手な構文とは。
しかしですね、三島はまだしも(僕は子供の頃『仮面の告白』読んでからずっと三島もあんま好きではないし、文体がしばしば修飾過剰なだけで美文ではないと思っている)、石原の場合、上手な構文なんて一個も出てこない。この時点でもう読むのが苦痛になるだけ。ムダに難読語まぜてきて構文も下手って。
尤も僕は偉いので全作品読んだ。ごく最近の以外は。でも本の一作除いて、例外なく感心しないのは尚更内容なんですよ。これについては谷口マサト氏の4コマ漫画でまとまってるのがあるからそっちの方が一見して分かると思う。内容はまじでこんなでしかない。
『太陽の季節』
http://blog.chakuriki.net/archives/51108259.html
『処刑の部屋』
http://blog.chakuriki.net/archives/51107205.html
『完全な遊戯』
http://blog.chakuriki.net/archives/51105234.html
『化石の森』
http://blog.chakuriki.net/archives/51111979.html
『聖餐』
http://blog.chakuriki.net/archives/51111090.html
『嫌悪の狙撃者』
http://blog.chakuriki.net/archives/51111446.html
(アーカイブ
『太陽の季節』
https://web.archive.org/web/20190507191327/http://blog.chakuriki.net/archives/51108259.html
『処刑の部屋』
https://web.archive.org/web/20190511062401/http://blog.chakuriki.net/archives/51107205.html
『完全な遊戯』
https://web.archive.org/web/20190510150034/http://blog.chakuriki.net/archives/51105234.html
『化石の森』
https://web.archive.org/web/20130522231319/http://blog.chakuriki.net/archives/51111979.html
『聖餐』
https://web.archive.org/web/20130522212955/http://blog.chakuriki.net/archives/51111090.html
『嫌悪の狙撃者』
https://web.archive.org/web/20130101032316/http://blog.chakuriki.net/archives/51111446.html)
では冒頭の炎上にもどろう。
石原は最初から、難読漢語ぽい、シャノン情報量でいう出現率が低い語をわざとどうでもいいところで混ぜる事で、衒学ぶる作家だった、といった。最近でいうと小池都知事もそれをカタカナ西洋語版でやっている。小説書き始めの素人がやる様な方法論をまだやってるのだ。
例えば「東大論法」式に、一部の東大系文化人にも似た様な慣行が明治以来ある。芥川がよく横文字いれてるが、漱石が「カタカナにひれ伏す癖をやめさせたい」と死ぬ直前に芥川らへ書いて送った悪習を踏襲してしまっている(大正5年8月21日、久米正雄・芥川龍之介宛書簡。『私の個人主義』でもいう)。
キモノといえばオリエンタルぽくてクールね。下着にしちゃおうかしら。こういう安直な借り物を漢文でも英文でも独文でも仏文でもやる。舶来物といえば偉い。欧米人が褒めてるから上。漫画アニメも欧米人に受けてるから偉い。浮世絵も春画も白人が褒めたから偉い。これ式だ。莫迦の極みである。
確かにアウフヘーベン、止揚とか持ち上げに該当する日本語の概念は過去にないからそこで和製漢訳語というものを、明治人が開発した。中国人もそれに習って今では、日本より先に未知の海外言語を漢訳(中文訳)している。それなら日本語なんだから。なんでカタカナで表意性もないのに分かる物か。
本来、漢字を最初にもちこんだ時にも類似問題が発生した。いわゆる音読しても表意性がないから意味わからんわけだ。それだから今の西洋言語よりもっと、当時の知識人にしか漢語の意味が通じなかった。タイヨウといっても大洋か太陽か耐用か区別できない。お日様といえばいいのに有職読みして威張る。
皇室含め、政府は今もこのお公家空威張り式の衒学ごっこが普通なので、簡素な文を小馬鹿にしている。霞ヶ関文学みたらいい。確かに村上春樹に同じ答弁書かせたらうざいものがでてくると思う。それとは別に、わざと難しくして内容を理解させない様にするという科挙官僚ゆずりの悪風は基本、有害だろう。
ツイッター民一般みたく失読症でもないのに『Apex Legends』のやりすぎで一般的読解力がアリンコみたいな人達、もとい国際成人力調査で100点満点中40点以下くらいの読み取りしかできない人達(なお深い文学的理解の事ではない)は、マンガ吹き出しかお習字単位でしか文意を取れない。
という事はだ? 石原程度の衒学でも圧倒されてしまい、彼とジョイスの違いなんてさっぱり分からないに違いない。そんなのわかる必要もないのかもしれないけど。わかったらわかったで、単に東京都という文化圏になおさら絶望を深めるだけだろうけど。それで僕は脱出した。酷すぎるんだもの。
結論。
恐らくこういう事だろう。石原は業病を「重度の難病」、小池語式に高グレード病って感じで捉えていて、「前世の悪業の故の、宿痾(治り辛い長期にわたる難病)」とは捉えていなかった。三島パチもんだからそうやってかっこつけて難読語選んでた。いよいよ晩年にその欠点が露わになった事件。
因みにつけ加えておくと、たとえ日常で出現頻度の低い言葉、文字、ゆえに難読語でも、その語でしか言い表せない微妙さがある時は、わざわざ平易な言い方にもどさない方が好いと私は思う。この逆をやってる傾向なのが、浄化運動後の韓国語かもしれないけど。孝をオヤオモイとか訳すと逆に意味が揺らぐ。なぜ孝が重要語かといえば、『弘道館記』で忠孝一致が説かれる様、或いは少なくとも『孝経』以来、東洋文化の中でこの概念は国家論の中で、家族の紐帯の一つの中心原理とされているからだ。しかも独り身含む家族の多様性がみられる今からみると余計、産み育てのオヤ以外への孝養も重要になってくる。