芸術家だと頻繁にあるけど、売れ出すと段々と面白くなくなっていって、最終的になんの面白みもない凡作連打し続けていつの間にか消える。けどその間には流行していて、大衆受けしまくっているのは間違いなく。
これは質と売れ方が殆ど逆相関の関係にあるパターン。基本的にそういう商業作家が多い。
このパターンについて考えてみたいが、特にそういう人達は売れかたがプロとか成功とかの目安になってしまっていって、質が商業価値とは別に存在していると気づかなくなっていくのだろう。芸術価値を商業価値から仮に分離して考えると(厳密には商業芸術については難しいが)、ここで質とは芸術価値の事。特に音楽家にこの傾向がみられるかと思う。大抵の音楽家が売れてすぐ消えるのは、完全にこの芸術価値の面を忘れているからでもあり、それどころか商業価値が一般に、所属事務所やレコード会社、あるいはテレビ・ラジオ・チューブなどの宣伝媒体に作られていると気づかなくなるからでもある。
芸術的には無価値といってもいいしろものが、商業的に高い価値を持っているという事象も頻繁にある。これはまさに構造的に売れっ子を捏造され、操り人形みたく商品として踊らされている偽アーティストがいるからだ。大衆はその作品がでてくる職人要因なんて分析しないから、うまくできていれば買うのだ。批評、評価する人々の中には見る目がない御仁が沢山いて、ほぼ例外なくそうなのだが、唯の偽者を芸術価値があるものとして高評し、責任とらない人が多い。というかほぼそんなのだ。なぜ彼らが無責任かといえば売れりゃ何でもいいと思っているか、そもそも芸術価値の確たる評価基準、規範を知らないのだ。
はじめから商業作家をめざしている人々の場合、芸術価値を手段としか見ていないので、売れる形に留まろうとする。結果、凡作を量産する。大衆は芸術価値の規範などどうでもよく、人気があればたかる。それは往々にして宣伝度だ。
こういう例は吐いてすてる程いるので、一々名をあげつらう必要もない。
では芸術価値とは何の為にあるのか?
これは純粋なアートマニア、基本的には芸術家らの中でも最もコアな部類の人達の為にある。そういう人々は、僕もそれに属するが、完全に斬新で完璧に全歴史を超えている最上の表現を、混じり気のない好奇心に基づいてなんとか見聞きし読みたいと思っている。所が、当然といえば当然だが、超コアな芸術は基本的には一切、世で知られていないし、余りに連日親しみすぎて知り尽くし、飽きてきた頃に、徐々に準アートマニア位の人達が知り始める。いわゆるアーリーアダプターが追随してきた位で、純粋アートマニアの関心は既にもっと新しくコアなのに移っている。
やがてアートファンにとって常識になったくらいで、アーリーマジョリティ(一般大衆の中で意識高い系)にもその芸術家あるいは様式が認知されだすと、それが商業化され始める傾向にある。商人が直接アートに関わってくるのはそれが売れるからであり、大衆に対する宣伝性を期待してメセナをするのだ。一般にアート、あるいはアーティストと呼ばれているのは、このアーリーマジョリティ勢、即ち一般大衆の一部が知っている部類の、大衆芸術世界である。日本人一般大衆にメジャーレーベルから曲を出している音楽家しか知られていないのはこの為。裏を返せば、アートマニアやアートファンには別世界がある。
レイトマジョリティは紅白歌合戦やテレビの歌番組に出る様になった、完全にメジャー化しきった音楽家だけを辛うじて知っている。いいかえれば、チューブやスポティファイなどで聴取できる最新の大衆的流行は知らない。
そしてラガードになると古典化した音楽家しか知らない。これが音楽の墓場だ。
アートマニアにとって面白い時点での音楽家は、ほぼ無名であり、最大でも数人にしか知られていない。だがこの時点では芸術価値以外で評価される余地はないので、最も純粋に芸術性を表現していると解釈できるのもまた確かであり、ある音楽家がメジャー化してもこの時の芸術的本質を通俗化していくだけだ。そして音楽家が消費され、消えてしまうのは、最初に構築しだした彼らなりの芸術価値を次第に忘れ、売れるほうへと作風を堕落させていくからである。そうすると大衆の好みは趣味全体の平均値なので、毒にも薬にもならない通俗歌みたいなのに収束してしまう。ここで量産してもカネは入るが芸術性はない。
しかし芸術家なるものには例外がいる。それは自己進化的に作風を次々変えつつ、商業価値を半ばすてて芸術価値を再生するタイプである。音楽家で一番有名なのはマイルス・デイビスかと思うが、新しい様式を次々とりこみながら変幻自在にジャズ周辺領域を渉猟し、結局、商業的でありながら芸術性を維持した。その種のタイプは画家なら一番有名なのでピカソだったと思うが、量産型の売れる様式に到達してから、そこに留まらず、自己の売れる様式をすててしまう。会社が軌道に乗ってきたら中堅ポジションにならず進んで会社辞めて、また連続起業し直すみたいなもんだ。なぜそうしていたかだが、冒険的性格だろう。
これと真逆のタイプは、一度売れる様式を獲得したら一生その内部で量産し続けカネ儲けまくるタイプ。例えば音楽家なら同じ楽式のメロディアスな曲しか作らない(大衆歌としての質は決して低くないのだが)Mr.Childrenがそうだろうし、画家なら微差あれほぼ同じ少女像を量産してきた奈良美智がそれだ。この最後の金太郎飴量産型タイプは、同時代的には莫大な利益を獲得できる。なぜなら誰もに共通してその流行作家の様式だと分かる商品を無限宣伝する事になるからだ。問題があるとすれば、芸術家の死後、その全く同じタイプの作品が複数あっても基本的には意味がないので、芸術価値が急激に下がる事だ。
正確に言うと、例えばモネの睡蓮が欲しいという需要は全世界の美術館にあるだろうから、アナログ現物の絵、彫刻、建築のよう唯一個性があれば必ずしも同じ型の量産が商業価値を下げるとは限らない。但し、音楽や文芸のよう著作権切れで原作に希少価値がない場合であれば、商業価値はそもそもなくなる。また長い目でみると当時にとって商業価値のより高いものと競合する事にもなるので、同型のものが量産されていると希少性が一般に減る。
結局、芸術作品は芸術価値だけが残る事になるだろう。よって、商業的な同型量産タイプは、その1つの型だけで、変幻質産タイプと歴史的格闘しなければならなくなる。ピカソが1個でもあればその美術館には箔がつき、一定以上の客足が確保されるだろう。同時にどの時代のどの作風の物か、当時の市場で変動する価格帯から選べる事になる。芸術価値と商業価値にはズレがあるので、ある時代で低評価されていた特定時代の物を確保すれば、芸術価値の高い物を集められる。
単に芸術価値の面でも同型量産タイプの芸術家は、一点突破しなければいけないので、例えばデュシャンが泉以外残していなかった場合を想定すればわかるよう、既製品批評の軸が変わった時点で急に、その歴史的地位を失うという場合があるだろう。こうして、同型量産タイプの芸術価値は一か八かに近い。
モンドリアンのようほぼ完全に当時の商業評価を無視し、純粋美術の探求で歴史的な芸術価値を作り出していた人の場合、一定量の多産をしていても、各作品が同型量産とみなされる可能性はかなり低くなる。なぜならアーリーアダプターがやってきた未来で、はじめて芸術価値だけが輝いているのを知るからだ。
結局、芸術が同時代で売れている状態で、同型量産に陥る作家というのは、いわば未来の評価を先食いしてしまっている。未来人が、ある死後の芸術家の全作品を消費していく中で、一度みれば十分な似た部類の量作を全部辿る可能性は先ずない。そんな時間があればもっと色々な作風の色々な作家がいるので。
もし傍目に量産にみえようが粛々と新表現を探っていたのが明らかな部類の作家、例えば画家ならモンドリアン以外にもセザンヌなどそうだが、彼らのよう「前衛的な探求者」の場合だけ、未来人からみて、ある類型の多産に芸術評価がつく可能性がある。彼らの探求の跡は一度見れば十分な過程ではないからだ。
以上をまとめると、
1.流行作家は一般に、純粋な芸術性(型破り度)をほぼ捨てた、似た商品生産者
2.同型量産作家は芸術価値より現世のカネを優先
3.変幻質産作家(前衛性を伴う作家)は芸術価値を現世のカネより多少あれ優先
4.変幻質産作家のほうが同型量産作家より死後は有利に歩を進め易い