どれ程未来のどの人でも、恐らくその人が普通より総合的に賢く生まれついていれば、現世に呆れ返るだけでなく、飛びぬけて賢ければ人々が同類だとは一切思えない筈だ。そしてそういう人達が救われる為には、できるだけ卑しい人々と関わりを断つ工夫を繰り返すしかない。いわゆる脱俗。
ガウタマが古代インドで工夫していたのは、すなわちその脱俗の道で、日本でいう世捨て人、中朝で仙人とか処士と呼ばれる人々も同じである。これらの人々は、啓蒙的であったり、政治志向だったりした宗教家、例えばイエス、ムハンムド、孔子らと一線を画し、世俗から離れる方で一致していた。
孔子は行いを正しくしろ、但し世が乱れていたら言動は慎めといっていた(『論語』憲問第十四、4)。悪政下では人々が互いを信頼できず疑心暗鬼になっており、濡れ衣の舌禍が起き易いという意味に解釈される。この為、高潔の士であればあるほど政や人民に絶望を深め、田舎に篭もる様な傾向が出てくる。
我々の知っている漢詩、時調、また日本でいう隠者文学(『徒然草』『方丈記』など)の類は、大分は十分な教養人らが官吏になるを潔しとせず、民間人として純粋文芸によって理想や世相の本質を考察したものといえるだろう。
現代も安倍独裁や自民寡頭政に最悪政治が繰り返されていて状況は似ている。
この際、具体的に政治改革で世直しを行うのが無理ならば、というのも選挙権を持つ民衆の過半が、都内の悪徳マスメディアにその思慮の浅い脳を牛耳られ、彼ら記者クラブを統制する安倍官邸あるいはその裏にいる皇室に思うがままにされているとして、憂国の士はやはり脱俗の先哲に見習うべきなのだろう。
もし現世の有様を直接変えられずとも、理想を語り伝えるならば、当人の表現力の限りできるし、また自分一人は尊く生きる事もできる。古代アテナイは亡び去ったが、そこであるべき国を講義していたプラトンや彼の弟子アリストテレスは、彼らの優れた哲学的著書を通じ、今日まで重要な意義を持っている。
未来のどこかの時点で、再び撒いた種が息を吹き返し、本来あるべき国の姿として我々の抱いていた構想が役立たないとは限らない。最悪政治の担い手達は寿命がきて歴史の藻屑となるだろうし、彼らの権威権力その体制も永遠の眼でみれば束の間の仮設物でしかないだろうが、政治道徳の理想は不朽のものだ。