2020年7月6日

楽しむ者に如かずと孔子がいう以上に、学業は勉強趣味な人が無限にやるだけ

知識の有無は馬乗りの手段では全然ない。
それにね、
勉強が趣味の人っているの。
僕のことだけど。
それって楽しいからやるだけじゃなくて、
呼吸なの。
そういう人に生まれたら分かるよ。
頑張って知識身につけようとか意味ない。
呼吸でそうしないと死ぬ人っているの。
勉強で食事忘れるとか当たり前の人が。
走るの好きな人だっているべ。

ホーキングが
「自分のIQの高さを誇示する人は敗者」
といっていたらしい。
現遺伝学がいう限り半分以上遺伝なら、
後天的に勉強とか命じるべきでない。
好きなら勝手にやるだけ。
全く似た判定則が知識量についてもいえる。
機械や辞書に確実に負ける仕業を、
わざわざ誇る意味がわからないし。

ここでいう狭義の勉強って、
いわゆる読み書き算盤的な、
あるいは科学、思想史とかの、
いわゆるIQ使う論理系のやつ。
暗記前提にした計算とか。
それって趣味でしょ。
僕には趣味だ。
わざわざ頑張ってやるものじゃないっしょ。
学校でも教えてんだもん、
もう型がある程度決まってんの基礎部分は。

確か、
孫正義の娘だかに、
ビルゲイツがこういった。
「本当に大事なのは試験なんかじゃなくて、自分で考える洞察力もってるやつ」と。
俺も基本的にそう思う。
素で東大生で賢いやつみたことない。
試験勉強が巧くできるってのは、
その分だけリソース失ってるからね。
寧ろ思考が難しいんでは?

要するにね、
パターン認知植えつける作業なわけ。
勉強ってのは。
既に誰かが見つけた何かを、
自分が重要と思ったらまねる。
その作業でしかない。
だから発見でも創発でもない。
こうともいえる、
全く生産的作業ではないと。
生産の前提になる基礎作りかもしれないが、
効率的素材収集にすぎない。

もぎけんがね、
東大生クイズ王批判してる。よく。
あれをまともにしてる人って、
もぎけんしかいないけれども、
普通にね、そりゃそうでしょって話。
なんでそうなるかというとね、
日本人一般って凄く頭悪いわけ。
それはIQ低いという意味ではなく、
ゲイツのいう洞察力が物凄く低い。
試験マシン。

日本人が自分達がいかにアホかを、
自分で気づきたければね、
韓国社会をよく観察すればいい。
ほんとにそっくりだから、その点。
いわゆる試験地獄なわけ。
しかも日本版科挙受験を強化してある。
でも韓国って現代の学問面で、
そこまで革新的と思われない状態。
試験勉強って模倣してるだけだから。

日本版科挙こと受験地獄は、
元々、高度成長期なんだよな、みてたら。
あの時期に団塊世代辺りとかで、
大学数に比べ子供の数が多すぎ、
競争入試で無理に落としていた。
全入時代になっても名残ってる。
放送大学できた時点で終わるべき話。
韓国版はもう少し根深い。
科挙崇拝が両班的なものだから。

科学系の勉強なんて、
ほぼ論理使う代物だから、
今のIQ試験もかなりかぶる点があって、
要は一般知能指数なるものが高いと、
丁度子供で足速いやつがいるみたいなもんで、
殆ど勉強しなくてもできる。
僕もどっちかといえばそっちだった。
でも途中で自分から降りた。
それは意味ないのに悟ったから。

頑張ってやればね、
科学の習得って、今のところは、
論理的回路使うだけの話で、
カントがいうよう誰でもできるわけだ。
それが科学の利点だと三批判書にある。
だけど急いでやる必要って必ずしもない。
僕はその科目自体をあとでやることにした。
で独学にきりかえました、高校で。
学校は効率悪い。

あとからやったら大変だろうこと、
というかできない可能性があること、
それから僕は先にやろうとしました。
それは洞察でしょうね、直観的な。
実際それで芸術関連からやることにした。
科学はその後も着実にやっていましたが、
確かにあとからでもできます。
やろうと思えば。子供もできるんです。

何かの分野専門の科学者になりたい人、
そういう人に最適化してあるわけ。
今の文科省の教育体制って。
正確に言うとその途中で、
大部分が挫折する謎の前提になってるが。
学部で挫折する人達を中心にするって、
考え方として間違ってるけどね。
それなら職業訓練校、
専門・専修学校のが合理的だし。

でもね、
僕は全知をめざしました。
そんなの一学部で賄える筈がない。
一応籍は教養学部にいますがね、
到底たりない。時間も、専攻深度も。
だからどれかの専攻科学から先に、っておかしいのよ。
僕にはおかしかった。
自分で気づいて、自分がやるべきことからやるべきだ。
文科省は駒作りしてんの。

文科省の起源は、
いわゆるいつもの薩長藩閥で、
すげーにわか作りなわけです。
ドイツ流まねた伊藤博文。
しかもろくな学者でもないからね、彼。
山口のいなか出でやたらと思い上がって勘違いした、
唯の芸者やくざみたいなやつです。
学業極めようともしてない輩が明治寡頭政の都合で捏造した制度。

文科省の作りたい民草駒ってね、
将棋式なんだよ。
こいつは飛車や! とかって、
ノーベル化学賞だから~つよいぞぉ。
これは文化勲章だから、桂馬級とか。
それってね、ほんと学術全体でみたらね、
物凄くチンケな話なわけです。
チンケどころか陳が腐るわけです。
陳は字源でいったら神階です。

学問の本源。
東なら孔子以前から学者いましたし、
西ならタレス以前、
インドならゾロアスター以前にもいましたでしょう。
チグリス・ユーフラテス文明での学者とか、
エジプト文明で暦や幾何学考えてた人とか。
そもそも誰でも思想家だし、
その有名無名があるだけにすぎない。
それが学術。

イーロン・マスクとね、
要は民間で大気圏外いこうキャラと、
国連常任理事やめて全加入国の議決権等しくしろとか、
もう皇室民営化して共和政にもどせとかいってる俺がね、
同列で同時代にいるの。
それが学術なるものの実態。
偉いねとかないの。本気で。
こんなこと考えてんだねぇってだけ。

学問はですよ、
森羅万象担当大臣のガチのやつだから。
特に哲学が。
哲学って言葉が過去知られた中で最もふさわしいだろうが、
要は知恵の友愛って、
世界中全て知り尽くそうという飽くなき人類の大脳の認知的暴走なわけ。
そんなのなんの意味もないかもしれない。
でも脳が肥大化した一サルの願い。

特にね、
僕の場合、
大体、3才のときに既に哲学的だったからね。
僕は。
そういう人っていると思う、自分以外にも。
お母さんの隣で寝かされてるとき、
なんでこんなあつくてつらいのに生まれてきたんだろうと考えました。
それは暑いのに子供の世話で疲れて母親が昼寝したかったんでしょうが。

世界の中に自分が生まれた、
あるいは生きていく意味をみいだそうとする。
それは言語の暴走です。
サルとかそういう質の言語もってないんで、
イルカさんとかもキューキュー鳴いてるだけで、
別に、そんな心配しないわけです。
言語の使い方次第で、哲学的になりうる。
だからその分野の科学がある。

科学はscience、
語源的には「知識、知ること」の訳語で、
当時は漢学者が訳していたので、
科という言葉の意味を知っていた。
『孟子』や科挙の文脈で、
科は品定めみたいな意味だった。
それでサイエンスを和製漢語に意訳した。
これは混乱のもとでもあった。
科学は分野であって受動的な対象だ。

ごくたまに名詞+する、で、
科学する、とかいってるやつがいる。
というか1人しかみたことないが。
僕はそいつに馬鹿だなこいつと思っていた。
言葉の意味を知っていれば、
基本的にそういう発想がでてこない。
またそいつはこうもいっていた、
哲学はゴミだと。
一応東北大の工学部でてる人だけど。

日本の近代教育体制というのは、
そのくらい、総じて質が低いといわざるをえない。
並の一般教養もっていたら、
哲学の意味とか、科学の意味とか、
言葉の定義以前にわかっていないといけない。
だがそういう基礎が全くできてないまま、
まさに暗記ロボとしての科挙合格者を、
官僚にするしくみだ。

正しく言い直すと、
イルカさんも、哺乳類で、
彼らの言語をもっており、
その中では、
マジの話、ヒトより深遠な思想をもっている筈だ。
だがそれは我々は今のところ知らない。
サルの場合も似た事がいえる。
これ式に、哲学的に考えられないと、
既に知られている科学(≒知識)で止まってしまう。

最近、メンタリストと称する或る心術師が、
批判的思考という言葉を使う。
これ何も最近の教育用語ってだけではなく、
本来、
対話術(弁証法、dialektike)あるいは産婆(助産)術として、
ソクラテス以来、哲学的思考の一つの型である。

ソクラテスは、知識人の論理的矛盾を指摘し無知に気づかせた。
デカルトは、否定を媒介しより深い洞察に達するものとして、
この論理を考え、いわゆる方法懐疑を述べた。
ヘーゲルは、正・反・合の各定立を経て、
論理的洞察が持ち上げられるものと対話術を定義した。
これらは同じ事を変奏している。

批判的思考というけれども、
で批判の語源はギリシア語krinein(分かる)なんだけれども、
要は何かを疑問に思うことを指している。
それが全ての学問の一つの始原である。
何かを疑うことなく模倣させられるのは、
いわば学問そのものと何の関係もない。
だから日本の近代的教育制度は間違っている。

「学問」とは、
これまたlearning(習うこと)またはscholarship(学者らしさ)の、
明治人が好んで作った訳語なんだろうが、
それなりに味わいのある和製漢語だ。
問いを学ぶ、とは、問いが前提にある為、
正解のある試験的なものを多少連想させはするものの、
一応哲学的思考を意味しているからだ。

結局、学問しなければならない、とか、
そういう事は全然ない。
出世し、就職してとか、
そういうの本当にスノッブの世界だ。
靴屋がイギリスの大学に出入りしていて、
門前の小僧式に知ったかぶるので、
靴屋意味するsnobを門外漢の隠語にしていたと。
知恵を友愛したい人がそうする。
学校関係ない。

プラトンがアカデメイア(当時、彼の学園があった地名)の門前に、
幾何学を知らざる者この門をくぐるなかれ、と書いたとか、
まことしやかに伝えられているけれども、
少なくとも僕はまだ信頼できる原文献を読んでない。
幾何学の起源って測量術で、
当時の必須知識というには早い時期の様にも思う。

デカルトが幾何学を代数と関連づけ、
その後に幾何学的思考が、
やっと自然言語的な論理と関係しているとされだした筈で、
それ以前の幾何学は、ユークリッド的作図による測量術の延長だったと思う。
プラトンの数学基礎主義とされるものすら疑わしいのだから、我々の知る学問全体がそうなのである。

今日の数学は最も基礎的な科学言語といえるが、
ラッセルらの数学基礎論を経ても、
その起源からして唯の内輪ルール。
要は学問とは、飽くまで仮の記号体系である。
脱構築だの不完全性定理だのを援用せずとも、
足場そのものがふらつく前提に立ち、
疑問を持ちより深く考えることが哲学の営みである。

こうともいえる。
今日の近代文明人がもっている科学言語、
それは実は物凄く不合理なもので、
別の文明では、もっと優れた思考言語が使われている。
自分はこれについては疑う余地がないと思う。
我々の科学言語が余りに学びづらいからこそ、
子供から大変長い時間かけて再習得しなければらない。

恐らく別の文明では、
ごく短時間、場合によっては数日以内とかに、
我々の知っている全知識を覚えられる筈だ。
それは言語の工夫によっている。
科学は、究極では記号的認知の抽出である。
その抽象性が高ければ高いほど、
世界をうまれて改めて知る効率があがっていく。
近代科学はまだ未開段階だ。

またこうともいえる、
人工知能の方がヒトより知識を速く覚えられる。
最高の科学者は、今後よりすぐれた何かが現われなければ、専ら現代文明系統の社会では辞書AIになるだろう。
我々にできるのはそのプログラミング言語に、
哲学的に新たな一節を書き加えていくことだけだ。
だからヒトの教育自体を変える必要がある。
自らより深く考える力をはぐくむべきだ。

孔子は『論語』で「学ぶに如かず」といった。
しかし思考の道具が知識で、
その知識量が一生で学びきれないほどあり、
さらにふえつづけるのが明らかな現在、
できるのは、個々人の特徴にあわせ、
思考の道具を精選することだろう。
そして当人の理想とする人生、
その理想を更新する為に考えるのだ。

最も神的な生命を目指すヒト。
自分もそのひとりだが、
全ての人々が神階をなんとしてでも登りたいとはいえないだろう。
仙豆欲しさにカリン塔駆けあがるサイヤ人はまずいない。
全知に限りなく接近しないかぎり、
いかに生きるのが最もよいか、最高の善さもみいだせまい。
勉強は趣味とはそういう事。