そういう例が確証バイアスかと自分で疑うほど多いので、全数挙げるのは時間かかるほどだが直近だと東浩紀氏。
僕が偶々ゲンロンのライブをユーチューブで見かけたから、みてたらなんか大変嫌そうにサイン本に、だるいとかうざいとかいいながら東氏が自分の会社の上役からサインさせられていた。そんなん見たら「じゃあやめれば?」と思う。しかも当人、サイン作家でもなんでもない。みてても何も面白くない。
ユーチューブのチャット欄ってのがあり、ごく短文しか伝わらない。140文字も書いてたらあっという間に流される。それで(あなたは批評家なんだから、特に意味ないサインなんてしてないで本業に集中し)「批評しろ」って忠告してあげた。仕事みてる第三者としての諫言である。そしたら東氏が発狂した。
わざわざ直ぐ流れるコメントからその時使ってたアカウントを探し出してBANしてくれる? とかその上役だかに頼んでコメント消しに行ってた。そんな暇あれば批評しろよってのがこっちが教えてあげたことなんだが。或る人が生前できる仕事なんて限られてるんだから経営の瑣事はできる人に任せたらいい。
大体、本業以外の事をやりすぎである、彼は。だって僕が初期から観察範囲にあった限り、哲学者なのれるほどまともな仕事殆どない段階の人である。日本史の文化史の項目に彼の事をもし書こうと考えても内村鑑三の千分の一くらいの薄みになってしまうか、省略されると思う。「動物化」も微妙な概念すぎ。
動物化は一見するとオタクの総合批判(「あんたら所詮、堕落した消費動物の類でしょ!」)にきこえるから、実際に彼の著書で確認すると難詰論調ではなくなんか肯定してる様でもあるんだが、応用範囲が広い様な感じもあった。それでVV言わせたがっていた頃は。がオタク批評中断し以後観光地といいだす。
この観光地の哲学ってのは、完全に素人批評でお話にならない。開沼博氏にディスられる以前から、観光学からみると一番最悪の態度価値である。或る文化なり民俗の生活様態を外部者が消費対象として定型化し売り場に再編成させてしまう作用こそ、過去の観光学が批判してきた観光地評価の欺瞞だからである。
それは通常の一般教養の範囲からみえみえなのに、なぜ東氏がわざわざロシアまでいって福一観光地化しようとしてたかといえば、伊豆避難劇などで西浩紀扱いで2chなどでディスられた罪滅ぼしトレンドに乗った、猪瀬直樹都知事(当時)・村上隆氏と鼎談など経てクールJP系政商ロビーできる可能性があったからとしかみえなかった。
特に実際に現場で事故処理にあたってるいわき圏からみると(僕もその最南端に接しているのだが)、黒瀬一派(カオスラ派)のいわきでのグループ展挟み、観光地化計画が頓挫後の氏の転向ぶりが甚だ不愉快であった。だってそうでしょ。現場では今も一人ひとり必死で東京人による汚染と戦っているのだ。
音を想像しながら発言で軽く炎上した、当時は親友状態であったろう津田大介氏と、某御用学者女史らとの会談動画内で、東氏はいつものよう(ヘーゲル式に)酒飲みながら「東北は魚臭いから行かない? そんな事いってないよ!」とかノリツッコミのつもりっぽくいわき含め東北全体ディスったのである。
これでもう、いわき圏もしくは東北圏、或いは最大で日本語を解せる日本圏からみると「なんだこの人」ってみえる。それは誰でも一連の出来事みてたらどんな善意でも、どんな善解釈でもそうなる。だって東北がああなったのって東京の原発のせいなのであり、それ出汁に金儲け失敗でディスるって酷い話。
これでも東北人はよかれあしかれ人がいいので、東氏を別に厳しく論難とかしてなかった。なんといい人達なのでしょうか。もし茨城県で同じ事したらとっくに水戸浪士がゲンロン乗り込んでた可能性がないとは思わない。いまだにいわきの某記者さんとゲンロンでおつきあいがあるとかお人よしさでしかない。
実際、茨城人と東北人は非常に気性が違う所が僕が感じてきた限り絶対にあって、茨城の方は自己犠牲含む義の厚さだったらたぶん地球で最大レベルだと思う。例えば津田大介氏がこの後、某あいトリで東氏と大炎上するんだけど、昔彼に後ろ足で砂かけられた師匠が名乗り出て立派に復讐完遂してた様だった。
僕はいわき圏と茨城(常陸)圏のちょうど接点にいるので、両方の民情の動きというか触れ幅をずっと体感しているのだが、東氏は上記の東北ディス後に、僕の忠言をユーチューブでコメントアウトする。しかもそれについて何かで言及したらわざわざエゴサしてツイッターまでブロックしてきたのであった。
この人、批評する気あるのかな? ってのが僕の正直な感想であり、ほかの哲学科なのるところの教授みたいに単に過去の思想史研究したいならまだしも、いわゆる同時代的な哲学者ってのは数多の反論との論戦を多かれ少なかれ避けられない。ソクラテスだろうが孔子だろうが釈迦だろうがその王者なのだ。
それで自分は忠告した、「批評しろ」って。その通りだと今も思う。ええ~この令和で愛でたい時に事件、あいトリ炎上中のアドバイザー辞任事件、親友津田切り事件、黒瀬パージ事件、がこの後に続く。急転直下に落ちてしまっている。忌憚なく言えば憐れだと思う位だ。でも僕に喧嘩売ってきた人に多い。
因みに津田さんも東氏と運命を共にするといおうか、僕があいトリコンセプトについて今みたく客観的な批評文をブログ載せてそれをツイッターにリンクしたところ、エゴサで見つけたっぽくて返信があった。その後ちょっとやりとりしたんだけど彼はいわゆる議論する気がなく、日本的根回ししたがっていた。
日本的根回しの類が和人間で常態的にあるのは自分も当然少なくとも系図で辿れるかぎりここにいる系統の日本人だから知っているのだけれども、通常の芸術関係者が(個人の売ろうともしないし売れない画家、いわゆる前衛画家でも)、自分に利害関係ないアートコンセプト根回しに応じる筈がないでしょう。あまつさえ僕なんざ、福沢諭吉みたいな拝金武士をそういうのどうかなぁって思うくらい古武士系知識人の部類である。小人は利にさとる、君子は義にさとるじゃん、と脳裏にあるんだから、利で釣ろうたって全く気持ちが動かない。とりあえず「義」はそこにあるの? って問い返すに決まってるでしょ。
津田さんも根回し(あいトリコンセプト応援できないとも、展覧会きてね!)に気を使いつつも応じない僕をもう相手してられんなこいつと思ったらしく、ブロックしてきてああなった。自分は「確かに男女公平と同数は論理的齟齬ある、この展覧会限定のパフォーマンス概念よ」って言えばいいのにと思った。
別に芸術のコンセプトが科学的真や、哲学的善を完璧に穿ってなきゃならないなんて事はない。或る意味で美事だったり、なんらかの意味があったらいいともいえる。究極では虚実皮膜だの無心所着みたく無意味でも感覚的な訴えが残ってれば成立する。なんで初歩的論理をごまかすの? としか思えなかった。
肯定行動の論理(不公平の結果調整)を今も津田さんは採用している風なツイートがある。これ、結果調整の論理なのに、選考段階で男女同数ってのは本質から使い方がおかしいのに加え、作家自体の性差別(性差の差別ではない!)になるから、逆に不公平になるのは明らかである。しかも肯定行動の論理そのものが、真に男女公平になるかも微妙な点は残っている。それは社会学の主題になるから軽くしか触れないが、例えば女装ホモ男が女装バイ女より優遇され結果調整された場合、バイ女が性別的女性を不当に低く評価されたと訴えてもおかしくない。性別による差別だから。
学術的に微妙な論理を敢えて国際展コンセプトに使う。学芸員なら空気読んでやらない所が、新人の無鉄砲で新潮流が形成されるってのは美術史上でも頻発する出来事だから文脈化される可能性ある。それは自覚的にやるのが普通のキュレーターだ。津田さんはダブルスピーク式に論理破綻を認めてなかった。
恐らく無自覚に炎上可能性高い爆弾を津田氏の「悪趣味by正論権太」でごった煮にした。あいトリ2019がいまだに燃え続けてる原因である。起爆力がでかすぎ国内美術展では恐らく初だろうけど右翼の脅迫で、中止間際においこまれた。スキャンダリズムに加え黒瀬一派門下生までねじ込むなど愉快犯にみえた。
こうしてみると或る意味ではまさに『見世物』(僕の絵のタイトル)として津田さんは勝利を収めた。
見世物
2020年
資料写真をPaint.NETで加工したPNG画像
資料写真をPaint.NETで加工したPNG画像
865 × 720 px
ダウンロード
犠牲は大きい。あいトリ参加作家に今後ついて回る、愛国者から着せられると予想される汚名たるや悲憤慷慨とまでは行かないが、致命的なものがある。お前パヨクやろといわれ続けてアートぶらねばならぬ。ダウンロード
津田さんの犠牲は他にもある、東氏があの大炎上の最中に自分からアドバイザー降りて、以後、友人関係きれたという。のち黒瀬切りに繋がる前兆現象と思うけど、派遣切りどころか歌舞伎者による大見得レベルでパートナー切り2連打する、中小企業の闇側名誉会長みたいになっている。そこで茂木対談だ。
そこに論壇政治の臭い、キナ臭さしか感じていなかったのは恐らくネット文化人ほぼ全数であろう。タイミングが偶然一致にしたにしても出来杉君だから。それまで大村知事擁護からややキッチュ批判的だった茂木氏新刊宣伝期にあわせ、東氏は会談前後に彼をべた褒め。茂木氏は国内最高賢者と東氏を讃えた。
津田×東、黒瀬×東、は切り捨て、茂木×東は無理くり茂木コンセプトに同調しネット論壇上の地位保全戦略。そうと勘繰られても決して下衆の一員とは思われないほど絶好の機会だった。
僕がみるに東京文化人界ってこういう政治ぽいの多いから好きじゃないのだ。決して近づかなかった。今後も近づかない。
しかも何が汚いかって、そういうデキレースだけでカネと地位を回しあってる連中なのに東京人って。裏でも当然ネチネチやってるけど表でもしばしば公然とやるのだ。当人達、多分そういうのが汚いって自覚してないんじゃないだろうか。いわゆるガチンコの勝負してない、一切。根回しだけで生きてるのだ。
黒瀬パージの前からほかのツイッター民も口々に、あいトリ2019・ゲンロン・黒瀬一派(当時はゲンロンスクール芸術校)間の癒着を囁いてた。
これに黒瀬氏は「津田氏の采配だし、単に若手の選出だからそこまで不自然ではない」などと返答していた。
黒瀬氏の批評上の立場は、河村たかし批判のリツイートをしたり、「信じがたいほどに卑劣で残酷な悪」とあいトリ脅迫勢を形容するなど、反暴力的なものであったと思う。
他方、黒瀬による津田氏への批評ははじめ、記者として懸命だが、芸術祭としては脆弱性を突かれた形になったとするものだったが、津田氏の応答が明かせない内情や政治問題に関する態度なのはよくわからない、といわば芸術至上主義的な点から評していた。
これらはまぁ常識論だと思う、通常のキュレーター側の。政治と芸術ってある程度きりはなされてるからこそ、ナチス芸術・頽廃芸術展あるいは日帝高等警察による反日扱いでの表現統制みたいなのは歴史的反省としてありえなかったよねってなってるのが現自由圏。
が僕が外部観察者としてみるに、津田さんはこれ以後、黒瀬氏への心情を暗に害していたのではないかと思われる節がある。今も東氏が黒瀬氏へ現在進行形でガチギレしているが(それを超えなぜか芸術業界全体を敵視しているかと受け取れなくもない「アート業界ディス」が入ったんだが直後に「アート一般」を擁護。前者のディスが仮定法を顧慮しても、
自分たちを支えてくれるひとたちの苦労をいっさい想像できず、自分たちの作品だか「アート」だかのことを議論するばかりが重要だと思っているなら、そんな業界滅びてしまえばいい――東浩紀って原発観光地化計画フィナーレにふさわしいせりふだが)、時系列的にはそれ以前に津田氏は痛快そうだった。
こういうせせこましい業界パワハラゲームみたいなのが無限連鎖している場所って東京の主要な人間関係の殆どの場面であり、そういうのが好きな人達は進んで都内に集まってきてなんちゃらスクールだなんちゃら学派だ学閥だとか財閥だの皇族閥だのやっている。僕は鴨長明を読むべきだと思うのだ、彼ら。