帝国主義のイギリス人は嘗て、彼らの自文化中心主義に基づいて他国民を蛮族扱いしていた。今もしている人と会ったりする。
しかしこの判定法は、特に次の二点で倫理的におかしい。第一に自己の属する文化風習の無謬性を前提にしている。第二に唯の差異、いいかえれば多様性を人権侵害の根拠にしている。
似た様な考え方は東洋圏にもあり、数多の中華帝国がそうだったし、日本圏に限って言うと天皇と称しはじめた一派がその種の中華思想を本場中国から輸入してから、今の奈良県、京都府、東京都などで蔓延していった。日帝時代には欧米列強を模倣していた、薩長閥が模倣させていたので差別が強化された。
昭和後期、平成、令和の各時代で自分はますますその種の中華思想、具体的には東京中華思想、及び大都市中華思想が国内で増長していくのをみた。
国外ではイギリス人らがブレグジットを実行して更に退行が始まり、アメリカでもトランプ政権が孤立主義に懐古しだした。全球主義への反省の体裁で。
ここで書きたいのは、帝国主義に耽るイギリス人らは中華思想に耽る東京都民一般あるいは一部やそれに諂う愚かな日本人一般あるいは一部と同様に愚かだということだ。全く同様の事は飛鳥時代から関西圏にいた同程度の連中にもあてはまる。アイヌや縄文人をバルバロイ扱いしていた奈良人とか京都人など。
最初に挙げた通り、倫理的にみて自文化(寧ろ、実はこの分類そのものが曖昧で単なる所属意識の妄想でしかない)の無謬性、乃ち「自分の文化は一切の落ち度がない完全無欠なものであり、他の文化に一層優越している」という誇大妄想は、単なるDK効果の一種に過ぎないだろう。馬鹿の証拠というわけだ。
そして多様性の面からみればますます事は暗愚である。文化風習が個人、集団いづれの単位でも違うからこそ互いの行動系列から学び合える。もっというと、我々は他人の試行錯誤を学習機会もしくはなんらかの利益獲得の手段にできるから社会、世間を形成している。文化多様性の否定は文明の死である。一部の知識人・文化人、日本政府・皇室とかは、薩長閥宜しく連合国に暴力で敗れたことで自信喪失し、ますます卑屈に英米模倣に終始する傾向が令和初期の今も残っている。特に旧帝大は欧米文化の配電盤、輸入学問の府として明治政府に丁稚上げられた経緯から相当、英米中心主義で学生を洗脳している。
つまり日本政府の文科省とか、東大京大などの国内国立大とか、マッカーサーとの戦犯交渉で米国民の世論に反して命拾いした皇室(とか岸信介の孫とか)は、英米文化の過ちであるところの自文化中心主義まで直輸入してしまっているのでたちが悪い。特に皇室の方は既存の中華思想までそれに重ねている。
全球化、国際化が偉いといえるなら、それは自文化中心主義を相対化できている程度によるだろう。東京都民一般が田舎差別だか欧米崇拝だかで一生を終わっているのは、客観的にみて彼らの世間知らずぶりに加えた愚鈍さを示すに過ぎない。どこかで似た様な過ち事をしていないか、全人類は自ら反省してみるべきだ。