賢いので、或いは賢いのに、有名な(又は入試偏差値が高い国内の)大学に行こうとしなかった(又は行けなかった)人々が無数にいるのに、なぜ全ての有名大学に紙の入試で入学した人々が一様に一般知能について高く、そうでない人は賢くないと思い込むのか? この疑問は日本人特有の偏見についてだが。
統計的に成立しえないこととして、一般知能の高下とその集団での学歴(正確にはいわば典型的な公教育歴)又は大学学部への紙の試験での入学歴にどれ程の正相関がみられたとしても、これは一般知能の高下の全てを包含していない。つまり一般知能に関する事柄に限定しても、その集団で学歴差別は無効だ。
次に、一般知能以外の特性についてなら余計いうまでもなく、多重知能なり特殊知能因子なりについて、典型的な公教育歴は特に何も証明できない。
しかも一般知能が一定より高い子供が、保護者や教育者の意志に関わらず自身の判断で、凡人が集まる有名大学に入りたがらないのは当然というべきだろう。
これらの単なる諸々の知能因子についての大前提に加え、少なくとも日本での教育費とか典型的公教育へ順応的な指導・進路方針とかに自国民及び全人類が従順なり妄従的でなければならない義務もなければ、より進歩的な人々であればあるほど、その種の最低限度教育体制の外で子女の英才を伸ばすであろう。
斯くして、学歴差別だの入試偏差値に基づく教育差別だのは、完全に法の下の平等に於いて違憲なばかりか、無知を超えて悪意の代物だと断言してもいい。そういう差別的人間観で他人をあれこれ評している人が法的な基本的人権に基づく人道面で許されないのは当然ながら、倫理的にも科学的にも無法である。
更には、学習指導要領の範囲にある大学学部入試という紙の試験で検査できるのはその問答に於けるクイズの解き方を知っている、単なるクイズ正答能力に他ならない。勿論これは一般知能と特に何の関係もない。高い知能指数を持つ人々がその種の科挙的クイズ競争に従事するかは、唯の趣味の領域である。
東京のテレビ番組でクイズ王と東大生を呼んでいるが、これは誠にいい皮肉というべきだろう。彼らの全能力のうち、少なくとも紙の入試で一定の問答を正解させたのは、学習指導要領の範囲内にある謎解きを巧くやった、受験クイズ回答能だけである。それがより複雑で汎用的なクイズ回答能かはさておき。
ところで人工知能は、その種のクイズ回答能について圧倒的に人を上回る。こうして日本の偏差値教育は、その実用性について既に完全に破綻しているといえる。時代遅れが明かな制度を再生産している人々、その制度に妄従している時に無知な極悪人達も、国内に有害な差別を広めている点では同罪である。
他国に同等の汚点が存在しない偏差値入試に関わっている全ての犯罪者達は、早急に法整備により厳に罰する必要が絶対にある。彼らを増長させるほど国内で犠牲になる有能者、有為者が、より無能で邪悪な人々に取って代わられてしまうからだ。科挙と亡びた中華帝国を現代日本は寸分も笑えなくなっている。
また、偏差値入試に限らず、そもそも大学なる制度は、単に授業時間に応じた単位認定についてしか学生も教授も管理されていない。その形式では講義の間なにをしていようが、実際には何も学んでいなくとも卒業認定が取れてしまう。こうして日本の有名大学は往々にして愚者の楽園と成り下がっている。
Fランク等、予備校業界のうわ言をうのみにし、一部の大学を差別している愚民愚官愚皇がいるなら、この人々も一様に罰されるべきだろう。なぜなら有名大学が制度的にその有様なのに、破綻している偏差値入試理論で特定の所属を貶めるのは二重三重の悪意がなければできない人権侵害、知の弾圧だからだ。
マイケル・スペンスによるシグナリング理論は、単なる知能に関する誤解に基づく、人間性を致命的に傷つける如何物であり、日本的にいえば偏差値入試理論の派生物の様なものである。それで学位獲得難易度が高い制度を巧くやりのけたハッカーが正直者を欺け、ノーベル賞選考委員が偽りの権威を得る。
本来の教育は、学位などの免許もどきで人々に特権を付与するものであっては決してならない。その種の偽りの余地が十二分にある勲章を否定するところに科学的、哲学的、学術的精神がある。
これらは単なる学(体系的知識)に関する指摘だが、芸術に関しての教育は実質不可能なので、事はより複雑だ。
ボザールを元とする芸術大学は全て、芸術自体の発展に反動的な役割を果たしてきたことは史家のみならず衆知である。アカデミズム(学園主義)が否定的語彙になっているのは何も近代芸術だけの話ではない。本質的に組織的保守性に基づいた全ての学問・芸術の集団は、バウハウスですら進歩の反動なのだ。
既知の理論学習が必須な学に比べ、創造による芸術は伝統芸能の様な模倣的形式に比べてすらより一層、アカデミー(学園、ここでは大学から幼稚園まで全教育組織)による学習のおしつけが抑圧的に働く。岡倉天心がいうよう、芸術の本質は創造で、飽くまで模倣的精神に逆らうからだ(『日本美術史』)。全ての芸術・美術・音楽大学、その他の芸能学校なども、芸術全体にとって害悪以外何物でもないと断言してよい。これらの組織を保全しようとする者は、永遠不朽の芸術の殿堂の入り口にすら立てない。又は改善によって、芸術系教育組織を僅かでも創造的にできると考える者も、唯の五十歩百歩だ。
芸術に関する限り、科学的・哲学的教育組織(広義で宗教教育組織を含む)に比べてより一層、特定の個人を中心にした仮の形しかなりたちえないであろう。それというのも、徒弟制の形で創造的成果を残した実例は複数あるが、その工房は飽くまで特定の個人の手足となった弟子達がいただけなのである。芸術の創造は、飽くまで個人の独創性から出てくる。それは美学的領域で「天才」の業といわれてきた。知能の面で傑出した個性の持ち主であればこそ、余人に替え難い成果を挙げうるのであり、その作品は無数の追随者を生み出す点で、傑作と呼ばれる。この種の品物をうみだせる組織は個人に依存している。
シュンペーターが経営学の領域で定義した革新(innovation)は、芸術界でいう天才による独創の換喩である。ジョブスの「本物の芸術家は届ける」(必ずしも真でない)は、自身をダビンチに繋がる天才の系譜になぞらえ、ジョブス復帰後のアップル製品の革新性を工房制下での傑作のたとえとしたのである。組織は独創を抑える側に働く。それは他人に理解不能な考えや、そもそも伝達困難な諸過程を経なければ実現しえない品物、芸事を為すには、とかく他者全員と無関係に行動しなければならないからである。
芸術に関する学歴は全て紛い物、偽物である。それは天才は必ずや教育しえないからだ。
美術史・批評上の分類用語に部外者の芸術(outsider art)、又はその原義である生の芸術(Art Brut)とされるものは、(当時の)学園に於ける古典的(伝統的・保守的・多数派的)傾向の作風に対立するもののうち、特定の知的・精神障害をもつ人々や、素人筋に見えるものへあてられる偏見に過ぎない。なぜなら、本来の芸術は、それが傑作で古典的傾向を逸脱していればいるほど分類不能な筈だからであり、いわばそこで部外者とは美術史・批評上の便宜の為に、障害者・素人筋と見える作風を無理に分類した定義でしかない。超芸術トマソン類も、リヒターのいう素人写真類も、皆同じ土俵でしかないのだ。
美術史家は通史を書く便宜に本流を無理に捏造しなければならなかった。彼らはやがて文脈主義を編み出し、重ねて西洋中心主義やそれに対置される諸地域史をうみだした。米国で文脈の乗っ取りを企てたグリーンバーグは、部分的にそれを成功させた。だがこれらはどれも欧米での高文化的流儀でしかない。
全芸術は、原義であるart、arsがもともと技、そこから派生して人工物を指す言葉である通り、到底、これらの欧米高文化に本流視される枠に収まらない。民芸も副文化も例外ではない。芸術一般のうち純粋美術は、史的独創を宿命づけられた本流に属するものだが、その限界も歴史的陣取り合戦にある。我々の世界にある全技のうち、最広義で人工性を含まない自然の業(単なる偶然性を生かした絵などではなく、生の自然)とそれとの混合物(近例ならアースワークなど)も含め、大半の芸術性は歴史的陣取り合戦と無関係に営まれており、実際、純粋美術界はそれらの中に有る、秩序だった遊戯でしかない。
純粋美術を教えるという事は、乃ち独創という学習と関係しているとは限らない目標を追求させるに等しいが、これを巧くやれる人とそうでない人は、そもそも指導で分かれる訳ではない。特殊な個性は偶発的に出現し、学問の領域なら段階を経ることができる模倣者達とは全く別の場所に突如現れうるからだ。
程あれ模倣的要素がある、非純粋美術的な全技は、時に学習が有用であったり時に有害であったり、時にどちらでもなかったりする。それらは技が置かれている条件によっており、芸術家、職人、工場労働者、技術者、工学者全てに一律の基準があてはまりはしない。芸術歴は科学歴より多彩で複雑なのである。
学歴、教育差別を平然と行っている全ての人々は人道に対する大犯罪者に等しいが、その中でも最も邪悪だといっていいのが、この種の学習不能な純粋美術に於ける天才に、その全く役に立たない規矩を無理に当てはめ、彼らを死に至らしめている凡愚だ。世界史にはその例が無数にあり、美術家を殺めてきた。こうもいえる、純粋美術の天才は、教育という模倣の強要、ロボット人間づくりを目的とする既知の抑圧作用への決定的な反抗者で、全教育に存在根拠そのものから逆らう彼らがいればこそ科学的・哲学的・宗教的教育に適応できなかった人々が救済されうる。独創は模倣をどこまでも破壊するからである。純粋美術の成果、傑作は誰の目にも明かな代物であり、教育による色眼鏡でしか事物の潜在的価値を判定できなくなっている全ての俗物を拒絶する。天才は教育できない。もし教育者が彼らに与えられる影響があるとしても、全てが有害なものだろう。模倣的精神は彼らの独創性を押さえつけるだけだからだ。
全芸術家のうち、最も独創性が明らかな人々は、今日知られる限りこの様に純粋な独創性のみによって格を判定される(世界史的に再検証され続ける)純粋美術の天才といえるだろうが、そういった人々の存在は、人はうまれながらあるいは育ちの中で人々と全く別格として自由に生きてよいという希望なのだ。
科学は哲学の部分でしかない。宗教学は過去の思想史で、後自然学(形而上学)と分類される人文領域の一部であり、広義で社会学に属する。哲学(philosophy、知恵の友愛)という言葉の特殊性は、科学(science、知識)に比べ、芸術学を含む全ての研究を包含する点で、宗教や芸術も当然無視できない。
哲学を究めようとする人は、単なる全科学、全宗教学、全芸術学を修めるだけでなく、科学史、美術・芸術史、思想史など既知の理論を遍く知り尽くさねばならないだろう。哲学の領域で部分的な知識しか持たないままなんらかの成果を挙げた人がいても、それは哲学全体を完成させるには程遠いままだ。哲学の教育歴は、この意味で一般教養(自由教養)歴と同一でなければならないだろう。教育機関や保護者、家庭教師、私塾、その他の教育者に監査されたそれであれ、独学などによるそれであれ、個別の科学に関する履歴ほど単純でも単線的でもありえない。教養学部で習うだけで到底足りるわけでもない。
孔子が学習と思索を分けて論じた様に(『論語』為政第二、十五)、哲学は単なる学習履歴ではない。この意味では科学者も、彼らが記号による科学言語、しばしば自然言語に加えそれらを用いた自然や社会を単に過去の学者の成果から見習うだけでなく、自ら新たな研究成果をみいだす点では思索が介在する。道徳(倫理)を論じるにあたっては、根拠となる規則が既知の自然そのものにはない上に、過去の社会も単なる参考にしかならないので、諸学習の上に思索の余地が十分にある。いいかえれば道徳・倫理学者は単なる学習者に留まらず、思索家でなければならない。この意味では詩人や文章・講演作家と類似だ。
思索(日常語でいう思考)は、既存の知識を道具とし、その上に自らの工夫や発想を加え、新たな構想や記号配列、その他の考えをうみだすことである。思考力は学習力と必ずしも一致していない。この為、史上に名のある重要な道徳哲学者が必ずしも多読でなかったり、そもそも典型教育歴がなかったりする。これと逆に、生涯学習者で、見るべき新発見の研究成果を何も残さなかった人々がいる。芸術や哲学に比べればより単純な学習履歴によっている科学教育で博士号を得た人々も、必ずしも優秀な研究者になるとはいえないのはこの為だ。思索の力が弱いと、学習に秀でていても永久に哲学的成果を挙げられない。
一体、我々の人生に直接意味をもつのは、自然や社会に関する客観的知識ではなく、我々の行動・言動を法・心で統御する道徳である。それは自然・社会の両科学が対象にする古今の事実の類ではなく、人々の言行かくあるべしと理想をのべた各々の信念にすぎないが、それなしに人は立派でありえない。
プラトンは不良がいる現実をみて、全ての人々が哲学者になるのは不可能だと考え、全国民のうち見込みある一部の子女に哲学教育を施し(いわばあらゆる教養に加え自ら考える能力を育て)、そういう選良のうち最高徳の持ち主が、国王になるべきだとした。その種の理想は今日可能だろうか?
日本では天皇制と呼ばれる特殊な神聖政治(祭政政治)が形式面で延長され、実質的無答責のもと国政権能をもたないはず教祖が君臨する。皇室はプラトンに想定されていない。しかも徳川光圀は彼の哲学中で皇室が不徳でも、武士は忠臣たるべしと論じた(『常山文集』巻十五序、『古文孝経』序の引用)。今日、日本国民一般は江戸時代初期に光圀が孔子伝とされるこの考えを援用した忠臣徳目に、法と心の両面を支配されている。この拘束の為、彼らは天皇が違憲な退位法を要求してもそれを非難しないし、実際には宮内庁を通じた習近平接受拒否のよう国政に直接干渉してきても、寧ろ皇室の肩をもってしまう。中世ローマで教皇による神聖政治と、皇帝その他による世俗政治の矛盾が生じ、数多の混乱と反省の果て、イギリスのジョン・ロックが『市民政府論』を著し、西洋圏で政教一致が否定されるに至った。日本は祭政一致に関する限り、同時代の光圀以来、全く逆の道を、政治哲学的に辿った。天皇は移民の末裔と自身を神話の中で語る(天孫降臨)。天皇とは『史記』の伝説上の中華皇帝、三皇の一員の名乗りであり、その名を借りて、古代奈良の一人の自称移民の末裔が自身の暴力を王権神授説で権威づけはじめた。これが宗教的権威を兼ねる天皇権力の根源的成り立ちで、戦後も残存したのである。
将軍の地位は、祭政政治(マツリゴト。天皇による祖先崇拝の祭祀で権力の起源を神秘化し、民衆を複雑めかした虚仮威しを通じ従順にさせる諸宗教行為)に裏づけられていた為、徳川宗家中心の封建制を維持するに天皇崇拝の忠臣道徳は好適だった。薩長藩閥や自民党はこれを盗用、寡頭政治の根拠にした。これらの天皇と、首相(嘗ての将軍)の二重権力は、何も変化がなかった。世襲の天皇らは世俗政治上の無能が明らかとなり、その虚構を維持する為だけに彼らの作った宗教的統治にのっかろうとした歴代将軍、歴代首相は、GHQ司令官同様に、名目的地位をまつりあげることでいたづらに国政を複雑化した。
天皇は、なるほどお飾りでしかない。彼が全国民中で最高徳の持ち主であるという現実的根拠は何もないし、世襲でそれが再獲得できるほど哲学の全過程は生易しい道ではない。その虚構の維持費は、中身がないばかりか古代から続く差別的要素を含むカルト宗教を疑わない衆愚を啓蒙しない費用と天秤勘定だ。
日本国が再生するには、この虚構を根本的に除去し、全く現実的な世俗国家を再開するしかないのだろう。単に世俗政治を司る内閣府が、薩長閥の残党による自民寡頭政で腐敗しているだけではなく、平成・令和の皇室自身、表立って国政に干渉している無法者なのが明らかで、神聖政治も何ら成立していない。天皇が飛鳥時代に奈良県で権勢を張り出す前、全国には古墳を残す豪族統治があり、いわば地方自治の下にあった。更に遡ればアイヌで150年前までそうあったよう、世襲的な身分差のない縄文人が、少なくとも砂原遺跡から12万年近く共和政を執っていた。大化の改新から1375年の天皇制は真の伝統ではない。神聖政治(祭政政治)の体裁を執る現日本政府は、いわば自国民を愚民視している偽の共和(民主)国家である。神聖政治が宗教儀式など、どう見ても現実的効用のない迷信を煽っていた時期に、子供騙しで法や暴力を用いず国民を治めるには意味があったかもしれないが、今日では国政を混迷させるだけだ。
新生日本は、自国民のうち、最高徳の者を最高権力者に就ける穏当な共和政治で営まれるだろう。その為に、直接投票の大統領制が執られるだろう。プラトンに聴かずとも、どの時期の哲学者でも、全員が本来この状態を政治的理想としてきた。それが現実的に不可能だった時期に、諸制度が試されただけだ。直接投票が不可能だった時期、乃ち資産家など有力者とそうでない者(例えば奴隷)の間に人権格差があり、後者の無力な者に投票権が与えられていなかった時代、少数支配がみられた。また天皇制が典型例なよう、将軍の様な世俗政治家より不徳にも関わらず旧支配者が世襲で居座るとき単独政治がみられた。直接投票ができる条件、具体的には投票用紙やインターネットによる電子投票の情報環境が整っている現状、全国民が総評で最高徳と信じる者をえり抜くこと、また自国の行政代表とし、単なる世襲の(十分に不徳でありうる)天皇に従うべし、特定政党に属するべしといった付帯条件もつけないのが自然だ。
学歴・教育差別は、この様な単なる私を超えた公共全てを含む政治道徳に関する哲学的最高能力の持ち主を前提的に、育てえなくする。個別の科学に関する既知の学習履歴がある者とか、芸術についての紛い物の学習履歴とか、海外大学の博士学位などで、集団全体の利害にまつわる思索能力は証左できない。
「民衆政治の最良の学校にして最善の成功保証は、地方自治の実践」(James Bryce "Modern democracies", 1921)との格言は、国政の腐敗に関わらず、直接投票制をとる都道府県以下の単位では、今も善政ができると教えている。現日本政府とそこに寄生する皇室を倒すのは、正義の地方連合によるだろう。
既存の大学、大学院等で既知の知識や、そこから幾らか進歩した研究手法を教えたり、その為の実験施設を提供しているとしても、それらの全知識を網羅して学ぶには一生では到底足りない。いいかえれば哲学を完成させるには博士号程度では全然足りず、全博士を遥か超えた思索能力が必要とされる。ある時代、ある国民で最高徳の持ち主は、彼らにしりうるあらゆる手段を使って学んだろうし、その上に考え抜いた道徳的理想の元により優れた社会を作ろうとするだろう。別の理想の持ち主との戦いがある為、単なる政争抜きにそういった理想が実現されることはないが、いづれかの理想がその集団を統べる。
学歴・教育差別は、当然、既知の典型的な科学習得歴とか、天才以外が秀でた独創性を発揮するとはいえない芸術に関するなんらかの偽の歴とか、その他の一般教養のちょっとした試験結果とかを除き、最高徳を何ら裏づけることはできない。なぜなら学習能力と思索能力は基本的に別な上に科学は道徳でない。科学的傑物が道徳的無能である、狂った科学者であるといった場合、或いは過去の全世界について知り尽くしている大教養人でも集団全体をおもいやる思考力が欠如し人道に対する重罪人になる場合など、学歴・教育差別に基づき人格的評価のみならず公徳の質を見誤るのは、自らの利害を取り違えることだ。