ツイッター民の平均IQなり、数値化されない道徳性の質はよく分からないにしても、自分が1年とちょっと本腰を入れてやってみた感じ、想像できるのを下回って酷い場所で、2chと殆ど同じだと思った。経験上そういう場所には近寄らないに越したことはない。馬鹿は学ばないし、犯罪だけしてくるものだ。
で、自分がこの世に生まれて今この瞬間まで経験した全ての大部分が、この本に書いてあったので、自分では疑ってはいるものの、自分は知能指数が周りの人間達より高かった可能性が非常に高いと感じた。実際今この瞬間まで人類がサルにしか見えないので、基本的に動物園の中で困っている異星人状態だ。
僕には学校と名のつくものは、進学校を除いて地獄でしかなく、それというのも周りのサルの様な生命体が恐ろしく愚かで、悪徳に満ち、接するだけでも非常に有害だったからだ。だから自分はこの本に書いてある通り、できるだけ人を避ける様に生きてきた。つきあうとしてもごく限られた人物を選んでいた。
それが常態だったので、当たり前だが、組織には関わらないしかなかった。自分に二足歩行のサルには見えない生物が集まっている組織の様なものは生まれて1度も見たことがないので(進学校ですら僕の中では少し位はましなサル山くらいにしかみえなかったのだ。それでもだいぶ快適だったが)。
話に聞くところでは、世界で最も優れた学校は、ニュートンのいたケンブリッジのトリニティカレッジなんではないかと思う。僕個人がニュートンが人として最も好きな人物の一人で、或いはダーウィンの人となりや人生を敬愛しているひいき目もあるにしても、そういう場があると知ったのはずっと後だった。
自分はアカデミズム、つまり大学とか学会とかを最初から論外の場所だと思っていた。それは既成路線をくり返している馬鹿の集まりしか見えず、もっというと、15才のころ学問自体がそういう生涯学習者の集まりにしかみえなかったので殆ど興味をもっていなかった。それで芸術の方に興味をもっていた。
しかし諸経緯で建築を学ぶ機会を得て、その派生で(自分の知能の働きは、本質的な事にかなりすぐ辿り着く傾向がある)全学問の根底にある哲学に辿り着いたわけだが、結局、真理の探究を馬鹿真面目にやって大きな成果を挙げた個人の第一人者がニュートンであり、続けてダーウィンだった様に感じた。
ニュートンの自然哲学は自分にとっては模範的な人としての生き方に見えたし、ダーウィンについては『種の起源』を岩波文庫ではじめて読んだとき(10代後半だったと思う)、非常に感動した。人類の中にもサルの様な生物ではない、少しまともな知性をもった人が嘗ていたのだ、とダーウィンの著で知った。
ダーウィンは、大きな目でみれば自然科学のうち生物の分野で、進化論をみいだした人々の一部だったにすぎないのかもしれない。しかし彼は知性を使ってその作業を真摯にやって、『種の起源』という少しはまともに体系だった本を書いた。それで後世の僕に彼の思考を伝え、人類への絶望を少し救った訳だ。
別の言い方をすると、日本の学校教育の内部で、こういう人類の知性なり知能の進歩は、少なくとも全く学び得ない。自分は独学でやった。なぜそうなのかなら、まともな学者がいないのだ。例外なく体系的に学んでいない、枝葉末節の輸入学者なので、始まりから終わりまで立派な著書など永遠に書けない。
例えば、イエスやガウタマや、孔子やムハンムドは、彼らの地域で彼らの時代に最高の碩学の類だった様にも思う。アリストテレスもタレスからソクラテス、プラトンといった哲学者、或いはピタゴラスやユークリッドら個別の知識人まで、当時しられていた諸学を総合し、部分的に成功した一人だったろう。
自分の知能には、そういう総合的な知性を満たしていない個別の知識人、今の言い方でいう科学者が、余り賢い様にはみえなかった。そういう意味で最初から科学は全て小分野で、それらの学歴だの就職手形だのは全く愚者の次元にみえたので、無視して生きてきた。だから僕は知能が他の人と違ったのだろう。
確かに僕もそれぞれの科学(日本語でscienceを精確に訳すと「知識」なわけだが)には道具的価値を認めるが、知性の最高の顕現は、自分にとっては道徳だった。この意味でミルの意見にかなり賛同する。がミルは次に出す論点に関係してくるが、この論旨では最終的には彼の思想体系は否定される事になる。
ミル『自伝』(どうでもいいことを差し挟むと、水戸の古書店で文庫買ったのだが、薬品? かなにかがしみこんでるぽくて読むと目がちかちかする本なのだが)でミルは彼の興味が道徳哲学にあったと自筆しているのだが、確かに僕もそうだ。この点では本来、学者は全てそうでなければならないのだと思う。
現代のアカデミー(学界)は、科学、特に自然科学へ極端に偏った潮流を形成している。学問史からみると、産業革命以後の経済的フィードバックを余りに直視しすぎている。金儲けだの戦勝など、巨視的にみれば一瞬の戯事なのだから、本来、人はどう生きるべきか、道徳哲学が最終的な主題な筈である。
で、最初に挙げた本『高知能者のコミュニケーショントラブル』には、一言でいうと、リバタリアンの出現する時代的かつ状況的な必然性の様な物が、象徴的な形ではあるが書かれている。僕は一々頷くしかなかったというか、ある意味、ギフテッドを疑う自分の半生は典型的な宿命の上にあった様に感じた。
ミルは、有名な話の通り父親から高度な早熟教育を受け、詩によって救われるまで今でいう自然科学、つまり日本でほぼ強制されている類の、(形容的な意味で)冷たく死んだ物理的学問をおしつけられており、強烈な鬱病の状態にあった。自分も高校で芸術、特に絵の方面に進むまでは大体似た感じだった。
自分の家は放任主義に近いので親から勉強しろといわれた試しがないが、学校教育は(日本全体でほぼそうだろうが)極めて硬直的で、しかも明治(具体的には長州閥の伊藤博文による教育方式の輸入)の後遺症でドイツ軍隊式なので、アインシュタインの様に自由を愛する人には地獄的環境でしかありえない。
かつ日本特有の虐め環境、つまり『十七条の憲法』頃から全体主義的に天皇制によって指導された「和」の弊害で、個性を潰す文化がはっきりとあり、それは集団の平均値から外れている知能指数面での優等生側にも極めて抑圧的な働きをする。小学校で、学校教師が少しのミスをからかってくる等も経験した。
そんな最悪の学術教育環境が現代日本なので、やり過ごした人がいたとしても、極めて例外的な理路を辿る方法でしかありえない。自分の場合は芸術系の迂回路を経るしか、その抑圧を避ける方法はなかった。芸術系では科学系でみられる偏差値教育の様な無意味な受験ゲームが部分的に回避されるからだ。
しかし芸術系の方も、経験によって知ったのだが、ある意味でより腐敗した教育体制があった。これについては自分のブログ等で別の場所で既に部分的に記述してあるので後世がある程度辿れるだろうからここでは省く。だがこれも衝突前に回避する事が自分にできる最善の知的判断だった。
結局、自分は表向き、平凡者を偽装する事にした。この戦略を立てたのは10代後半頃で、それから日本の学校教育制度の内部にいながら実際にはその作業を「副業」のよう適当にこなし、実際の学術探求は独学でやる事にした。自分にはそれ以外の方法がなかった。日本では教育が知性に反するしくみだからだ。
もう一つ自分が工夫したのは、「和」による集団虐待の回避方法だ。冒頭に挙げた本に詳しいが分かり易くいうと、日本人全般は衆愚の様な極悪のサル達で、知能が異様に高い人を見つけると不確実性を低減させるため嫉妬混じりの問答無用の魔女狩りで殺そうとしてくるものだ。でこの戦略も同時期に立てた。
それはとにかく硬直的な日本特有の教育制度のしくみを逆用して、できるだけ平凡者を偽装するのに全力を使うことである。所が日本人全般はこの教育を偏差値・学歴差別目的に使っている。だから自分は他の人達と全く違う目的でシステムを利用しているのだが、そうと見抜かれない為に工夫を重ねた。
自分がそこまで苦役を重ね、自分の知能なり生まれもった才能を意図的に低くみせようとしているなど、親すら全く知らないに違いない。実際ここ以外でその事を誰かに説明した事もないし、今後もしないしかない。単に冒頭の本が私の様な人の甚大な労苦を一部吐露していたので自分だけではないらしい。
日本人全般は、恐らく原因は脳内物質(セロトニントランスポーター)の遺伝的構成によって不安を極度に感じ易いので不確実性をひたすら減らしたがる事に一端があるのだが、心からなんらかの型にはまった差別(時代によって形は違う)が好きな集団である。有害な人権侵害の天皇制に固執する等その例だ。
それで、恒常的にその差別心が行き過ぎている為(彼ら自身は一般知能が低すぎてその不合理に気づかない)、教育制度も当然の階級の様なものとして自明に捉えてしまう。その差別は成人後も同じサルがするものだから当たり前だが続き、会社名、役職名、年収、ノーベル賞など世俗的な地位要素として続く。
それで、自分は余計その種の民度が低い大都会の東京で、ここは末世末法の様な場所だと感じ、正に猿山の渦中に来てしまったなと感じた。衆愚は同類同士集まり易く、ダニングクルーガー効果で底なく傲慢なので、平城京も平安京も潰れてきたわけだが東京の滅亡も、自分にはとうに目に見えた近未来だった。
自分は日本政府(西日本の隅の野卑なテロリスト達が、まともな慶喜将軍を集団で濡れ衣する最悪の蛮行をした明治信者以来の、薩長藩閥体制が続いていた)が最初から最後まで馬鹿の集まりにしかみえなかったわけだが、福沢諭吉に影響され、啓蒙が可能だとある時期まで信じてしまっていた。
福沢は知識人としては中位の人物だったろう。それは彼自身が半ば状況的思想家といっていたのとある種、照合する。学者は普遍的見地から永遠の当為をいいあてている場合が最も尊く、当時に妥協しているほど卑しい。特に後者の方が現世利益があるが、前者は本来なんの利益もない義務に他ならないからだ。
その義務の見地から、福沢の言い分は、あるべき知識人の姿は「大衆世論の啓蒙者」として、長期的視野のない惑溺世論の行き過ぎに平衡を与える重しの役割であった。これはバークの受け売りなのだが。
「憂国の学者はただ須(すべか)らく文明の説を主張し、官私の別なく等しくこれを惑溺の中に救(すくい)て、以て衆論の方向を改めしめんことを勉むべきのみ」福沢諭吉『文明論之概略』
(参考「彼の乗っている船の均衡が、一方に積み荷をしすぎて危険になるようなときには、彼の理性のささやかな重量を、その均衡を保つ方にかけることを欲する」エドマンド・バーク『フランス革命の省察』)自分は10代後半頃から掲示板やブログ等でその種の啓蒙を続けたが、殆ど無意味だという結論に20年後辿り着いた。なぜ無意味なのかなら、地元に関しては衆愚の数が少ないので見解が通る余地があるが、日本単位ではそれは掻き消されより下卑た集団(特に都会人達)が数で圧政し最悪の政体になってしまう。
自分が都政をみきって損きりしたのは20代半ば頃だったが、それは全くの正解だったと思う。その当時も茨城県政の方が遥かに優れた政体だったし、現時点でも本質は変わっていない。国などどの組織単位でも似た事はいえるというのが、それから約10年しての自分の見地になっている。
つまり、優れた組織は元々なんらかの要因で相対的又は絶対的に優れた人物を集めてできていて、そうでない組織は永遠にその組織に匹敵できない。組織(体系的なでき方)自体を変える事は基本的にそれを全滅させる事でしかなしえないので、組織に対してできるのはふさわしい乗り換えだけなのである。
ここで冒頭の本にもどるが、自分はこういう思慮を通じ、啓蒙主義を間違いだったと先ず完全に認めるに至った。これはつい最近の事だ。特にコロナ騒動の前までまだ少しは信じていたが、思えば東日本大震災後も都民や関西人らの醜悪な公害の正当化が少しも反省されなかった事実を思えば未来も同じとみた。
この部分を少し具体的にいうと、自分は福島原発事故の前まで資本主義なりそれを敷衍した自由主義を合理的な社会秩序とみていたのだが、世界最悪の公害に直面しても被害者の前で暴利のため原発推進を続ける判断をくり返した多くの都民、都会人らの姿をみて、完全に反人道的な考えだと感じるに至った。
この意味で、東京都民なり南関東人一般は、他の原発をいなかにおしつけ暴利を貪っている大手電力会社がある各大都市民(関西圏、中京圏、福岡圏、愛媛、仙台、札幌などの人々一般)と同じくらい人でなしで、今後も彼らが自身の貪りの罪悪を反省するほど公的倫理の水準は高くなりえないと感じた。
彼らは高校程度の教育内で、過去の公害の事例や、外部不経済の内部化など人類史の学びを得ていた筈なのに、基本的人権すら守れない。それだけ民度が低い衆愚が都会で暴利に耽り、寧ろ犯罪被害をおしつけられるいなかより傲慢で、報道で自己洗脳しあい今後も害悪の根になるのは明らかだった。
いわば資本主義経済や、自由主義社会は、特に大都市部の衆愚政になんの解決も見出せない。それだけでなく更にその混沌や悪意ある増徴を強化してしまう。
が上述のよう啓蒙も不可能である。
それで自分はリバタリアニズムに惹かれる事になった。国や集団に期待をしなければその破滅も合理化できる。
例えば、ある国(例えば北欧圏、ドイツ)の公的民度が十分に高ければ公害防止のため原発政策を排除または漸減、いづれにしても国内や周辺諸国で全廃するだろう。だが衆愚国(例えば日本)では推進し自滅するだろう。巨視的にみれば亡びた国の衆愚が生存上不利になり淘汰されるのは望ましい秩序獲得だ。
それ以前、拝金主義者が声高に信じているリバタリアニズム自体には疑いの目を向けていたのだが、地球の秩序全体でみれば上述のよう公益に類する。というかそれ以外の思考で、日本政府、特に安倍最悪政権の暴走(明治政府の蛮行を正当化する明治テロリズム礼賛者の山や、長州閥独裁)を説明できない。
ここで冒頭の本を再び引き合いに出すが、その本では末尾でリバタリアニズムを実質、否定的に評していた。決して具体的な哲学用語を使っていた訳ではないが、いわば集団性の再獲得の為に衆愚(低知能集団)側に、元々集団に対し中立または善意な高知能者への譲歩を求める論調で終わっていたわけだ。
自分はそこで思った、これは功利主義の変奏だろうなと。
ミルはベンサムの定義した快楽計算を質的次元で再展開し、道徳的行為が単なる計量化できる(今の言い方ならいわば脳内麻薬の)快楽より上位にあるとした。衆愚が快楽装置たる無教養なサルなら、彼らにそんな理想がもちえようか? 無理だ。
少なくとも日本人衆愚はサブカルを社畜代で消費する生活が「人生の全て」で、その生活を保障するのは(古代に中国大陸・朝鮮半島から渡ってきた侵略者の一族たる)天皇で、神道教義を曖昧にし象徴と呼んで狂信しさえすれば、世界中から礼賛されると強烈に思い込んで、都会で公害をばらまき自滅する。
彼らにその外にある人生など妄想の端にでも出てきはしない。未来永劫無理であろう。彼らの想像力はもっと僅少で、アニメしか分からないのだし、自分がみるかぎり同世代の子供ほどその反知性主義は激烈になってもはや無謬の前提にまでなっている。馬鹿ほど偉い、というのが彼らのサル的信仰なのである。
とすると、冒頭の本の筆者は不可能な、かつ随分古い理想? というか妄想を掲げていると評する他ないだろう。そして世界規模でも、私が今見ている現象、知性の二極化は極端になっていく流れを示しこそすれ逆ではないと感じる。千年、二千年後に、再び中流の立派な国が再現されても日本ではないだろう。
私にそう感じさせた最大の人生経験は、正にここツイッターで、大勢の衆愚の様な人がたかってきて、次々愚にもつかない次の戯言を述べていた事だった。
先ず河野太郎という三文政治屋がツイッター上で公務情報を流しながら気に入らない国民をブロックする職権違反(米大統領で違憲判決)をしていた。
当然、河野太郎も違憲でなければならない。公税をはむ公僕は全体の奉仕者と定められている。だが彼を選出している神奈川県(東海道を辿って入ってくる関西系の労働者のたまり場になっていて、大分、商業都会化している)辺りの軽薄な民度にありそうな話だが、そんな基礎学力上の知識は毛頭ありえない。
彼ら神奈川県民を主とする衆愚は、彼に諂うツイートを連打し、国民ブロッカーの河野大臣とたわけていた。反論者をみたら当然の如く集団虐待して、詭弁や悪意ある誹謗で集団通報の濡れ衣など繰り返し、存在抹消していた。日本のインターネットではひろゆきが匿名掲示板を作って以来のお決まりの光景だ。
自分はそういう場に関わらない事にして随分経つが、その時は偶然、ツイッター民度の実験中だったので、燃料として一つだけ、米大統領の判決ニュースへのリンクを、河野によるブロックについて議論中のツイートへ投下してみた。すると暫くして予想どおり大量の悪意ある誹謗が集まってきた。
その時は河野問題を目立たせる為わざと燃料を投下し続けたら(つまり詭弁屋にソクラテス宜しく、助産術で反論し続けたら)どうなるか実験してみようと自分は考え、期限を1日ほどと区切って全ての悪意ある誹謗に正論を重ねてみた。当然の如く、2ch級の匿名ツイッタラーが発狂に発狂を重ねていった。
最終的に、たった1日の間、「米国では国会議員の国民ブロックは違憲だが、日本でもいづれそうならなければならない」との観点から、河野擁護者らが論理的反論をされるだけで、自分へDMで殺害予告をする匿名ツイッタラーまで出た。いつもながらそれだけ、日本人一般なりネット民の論理的思考力は低い。
勿論彼らを無視すれば、別の攻撃標的を探し延々とネットをうろついていくのが彼ら日本人衆愚(或いは荒らし)の生態だからそうしたら2日と経たず全員消えたわけだが、その時、自分が見た光景が自分の全人生にとって重要だった。
その荒らしたちの中には、なんと高校生が混じっていたのだ。
自分はその時まで、若者は学校の授業で新設された「情報」科目でネット倫理を学んでいる筈なので、野蛮だったひろゆき的中年以上と違って、インターネット上の荒らしには落ちぶれないだろうと楽観的見通しを持っていたので、大変に裏切られた。それで改めて、若害も存在しうるのだと悟った。
状況(匿名でネットを使う)が似ていて、遺伝子が類似なら、教育が多少違っても、同じ行動をしてしまう。その意味でフリン効果(IQの漸増)は否定される、とすれば、現代の衆愚は総じて過去も衆愚だったし、未来でもそうなのだろう。世代がましになる速度など体感できないほどゆっくりで逆行すらある。
しかも彼らは「短文を書け」と叫んでいた。どうやらツイッター140文字を読む言語知能にすら欠けていた。それで実際に短歌形式で返答してやったら、それへも愚にもつかない難癖を、しかも集団でつけていた。荒らしの典型的行動だ。
自分は『平家物語』の熊谷直実を思い出した。
息子ほどの齢の若人を殺めざるを得ない老兵は、戦を儚んで出家する。自分がその時みたのは年端も行かない高校生らしかったが、実に卑劣な態度で周りの匿名衆愚の一員をあおり、自分をろくでもない難癖で攻撃させようとしていた。2chやピグやツイッターなどあらゆる場所で頻繁に見た卑賤な日本人モブ。
それで自分は、啓蒙を諦めたのだった。彼らは教育によって変わらなかった。恐らく遺伝的要因の方が強く働いたのだろう。法的に荒らしを強制力で罰しでもしないかぎり、愚者は蛮行をやめない。それは世代間でも受け継がれる暗愚さなのだ。
冒頭の書の末尾は、功利主義の不可能さを軽視している。
ミルが豚と形容した人々、彼らが道徳的行為により高度な質的快楽、もしくは幸福を見出すなど、永遠にありえないことだろう。だからこそこの世から悪と見なせるあらゆる行為が消えなかったし、今後も消えない。良心の認知が欠如している精神病質的な人々の研究すら、まだ十分進んでいないが確かにいる。
それであれば、豚の様な人達に快楽を与えようとしても、それは高度な知能の持ち主には想定もできないものとならざるをえないだろう。高貴な人には醜行にしか見えない行動を幸福とみなす人々、下卑て悪趣味な娯楽に夢中で耽る人々、孔子にいわせれば小人達を中心にした経済学の体系も、世俗的なものだ。
衆愚の側が、高知能者に擦り寄ってその恩恵を受けようとすれば、現代の米国でそうしている類の資本主義的秩序によるしかないのが現実だろう。それは(ピーターティールの様な)超富豪のリバタリアンと、彼らに使われる被使用者たるその他大勢の貧民達になる筈だ。高知能者の喜びを後者は知り得ない。
例えばコロナ騒ぎの類を、高知能者はメタ認知で見ているので、大勢の金満老人達が死滅する事で逆に低成長に甘んじた日本経済の復調の原因になるだろうと自然に考えられるので、貧民達の困窮は巨視的には無視できる。資本主義はその意味で新手の奴隷制であり、高知能者に最も有利な体制を作り上げる。
その中で、冒頭の本の筆者は、衆愚側に高知能者へのすりより(理解できない限り永遠に不可能な話)だけでなく、高知能者側の自己犠牲的な慈悲を期待している訳だが、それを行うだけの道徳性をもちあわせた高知能者など、高知能者全体でもごく少数というしかない。道徳的知能は知能全体の一部だからだ。
例えば北欧圏は、アリストクラティックな(アリストテレスが優れた多数政治たる国政の基礎とした)中流の形成に多かれ少なかれ成功し、リバタリアンの餌食にならない運命の元にあると見なせる。だが日米英などはそうではないだろう。これらの国々は利己的性格のサイコパス的人物が社会を支配している。
安倍晋三にしても、例えば東京圏の老人(既得権)がもちあげている若手知識人の類(具体名は挙げないが)にしても、拝金的で、もしくは学歴・学閥主義的で、老人らの既成秩序を乱さないかそれを強化する意味で、非人道的な科学主義者が跋扈している。つまり米英の間接植民地化を進んで辿っている。
私はその様な日本国政の自滅的流れを、一人の啓蒙で断ち切れる、もしくは、もしできたとしても断ち切るべきとは思わなくなった。なぜなら、上述の理路で、この国はリバタリアンの触媒となり、大勢の衆愚が自滅を辿る事で、世界史に悪例を示す為に存在する場だと目に見える様になったからだ。
自分は、進んでその種の破滅を早めようとは思わない。二度手間に過ぎない。放っておけば自滅する。まず福沢のいう「世論の平均値」のあらゆる指標が既に破滅的兆候を示して随分長く、その傾向は現時点で若いほど加速している。安倍最悪政権の蛮行の山の前で、子供ほど礼賛をくり返すほど愚かな国民だ。
既に、リバタリアンの中でも行動が早い人々は、より優れた国々へ脱出済みでそちらで足場を築いている。それは正しい行動だった。たとえ一人がいかに優れていても大勢が愚昧なら足を引っ張られ、その組織に属する限りまともに実力を発揮すらできない。だから冒頭の本の著者は結論を間違えているのだ。
自分にいえるのは、「高知能な側は国家主義の様な集団的妄想、共同幻想に足をとられることはないだろうから、衆愚と進んで縁を切るのに集中するだろうし、それは仏陀の過去から今に至るまで同じだった」ということである。国が立て直せる、もしくは維持できるのは、中流の教育に成功した国々だけだ。
日本に関する限り、中流の形成に失敗した。具体的には竹中平蔵という米国かぶれの経済学者が、小泉父の政権で非正規雇用法を通し、政商としてかねを懐手にしだした時に決定的破滅がはじまった。新自由主義政策はアベノミクスと称する企業国有化で極まり、日本の経済的地位を周回遅れにしてしまった。
同様の観点からいえば、米国も中流形成により失敗しているので、中長期的な国の趨勢は怪しいということになるが、日本よりましなのは企業国有化(日銀・年金等によるETF買い)の様な国社政策を程あれ避けているので市場原理に忠実で企業は、健全な競争力を保っている点だ。
イギリスはやはり、サッチャー以後の新自由主義化のもと中流の形成に失敗している様にみえるが、企業の競争力の点でも中世的考え方をぬけだせず米中は無論、日本にすら新興企業のなさで見劣りするほどで、経済的地位のさらなる凋落は疑う余地がない。貴族精神は足枷になりこそすれ商業には役立たない。
これらの巨視的経済の興亡が明らかなのに、反知性主義を自明の前提とするよう旧態依然な学校でしつけられている衆愚にありえない高知能者への妥協や譲歩などやりよう筈もないのだから、日本で残る近い未来の可能性は、超格差社会での富裕なリバタリアン(成金)によるカリスマ的支配だけだろう。
なぜそういえるかなら、衆愚は高知能者の公知公徳など理解する筈もなければ理解するつもりもないので、永遠に社民主義や共産主義といった高度な公共的知性の産物を脳裏に納めたりしない。つまりネトウヨの類は千年後の日本でもますます悪辣な差別や、天皇と自民党の後釜への崇拝を繰り返している筈だ。
彼らに期待できるのは、目先のニンジンの様ぶら下げられた金銭への損得勘定だけであり、それも日銭を得る為の失業率などが最たる関心事になる筈だ。だが総じて雇用契約云々に気が回るほど賢くないので、社畜性を更に卑屈にした奴隷的地位を進んで欲し、それ以外の生態を集団迫害して済ます筈である。
こうして成金支配となったわが国は、既に教養ある人々から軽蔑されていたサブカル自慢東京時代を懐かしむほどもっと下品な姿を晒す様になり、経済的にみるかげもないほど凋落しながら堕落した三流国として、周辺で成長した一流以上の国々を集団で陰湿に差別する、プライドばかり高い嘗ての古都になる。
現代の京都は、近い未来の日本全体の一つのモデルといってもいい。現代のイギリスなら彼らが老体国になる原因になった英国病にかかってから変わらない宿命、日本の場合、嘗て世界2位の経済規模をもっていた、そして明治時代に欧米のさるまねをしたという二重の虚栄心を変えられなかった運命である。
「ではあなたはどうなのか?」
私の関心事は、その種の未来がほぼ予想できるにしても、少なくとも一通り日本語を操れる者として、文化人側からこの時代の精華を、少なくともその美質に於いて記録し後世に伝える事だろう。大勢が暗愚でもなおただ一人、傑出して賢くは、知恵と勇気でなりうるのだから。