2020年5月18日

もののあわれや純文学は単なる関西や東京の退廃主義

関西と東京の小説界が、不道徳な俗界を露悪的に写すのを「もののあわれ」「粋」「純文学」「サブカル」「萌え」等の様々な言い分で正統的な文学性と誤認させる傾向は、本居宣長が元凶といえると思う。そしてこの奇形性あるいは頽廃的傾向は、その内部に生きている人達には永遠に批判できない。

 半年ほど前だろうか、今もそうだがツイッターでの発信の使い道がさっぱりわからないので(フォロワー集めによる金儲けゲームとして使っている影響者らは、自分には唯の俗人にしかみえないのだ)、様々実験している中で、絡んできた荒らしとおもわしき人々に次の様なことをいわれた。
 荒らし曰く長文は悪で短文を書けないのは馬鹿(相手はそれをこちらが書かない、のではなく書けないのだと思い込んでいた。これ自体意味不明なのだが)、彼らにとって賢さの証である簡潔な表現には修飾語や文法は無用と。
 この言動をとる荒らしの周りに、複数人の匿名の荒らしが群れて口々に同意していた。まあ、彼らの本音としては相手に嫌がらせするのが半ば目的で、上記の無装飾短文主義みたいなものは論難のため適当にひねり出した言い分をかねており、あるいは純粋に言語知能が低い人達であるか何れかだと思われた。
 先ず自分は「愚かさ」その道徳的側面である「卑しさ」を理解するのは、程度が甚だしければ根本的には不可能だという脳に関する科学哲学的立場をとる。なぜなら人が他人の認知を推測できるのはその知能との類似性によるのであり、それが甚だ遠ければ辛うじて、形式面しかわからない筈だからである。
 それで、この匿名短文荒らしの人達はいってよければ悪い意味での典型的ツイッター民の一種だと思うのだが(そうであれば相手にするかいはないし自分は実際まともに相手にしなかった)、その愚かさや卑しさの類も、自分には未だに全然推測が及ばない。ただ外形的に彼らがいっていた言動だけ知っている。
 ツイートの140文字は原稿用紙の半分にも満たない短文の類だろうけれども、彼らにとってそれは長文らしかった。もし仮に議論上そう定義しているだけかもしれないがその可能性は状況的に排除する。この時点で彼らの言語知能は私のそれとは大きく違うので、やりとりは一層難しい。
 それで私はある内容を著すにあたって、最も合理的経路を辿って簡素に文面化する技法や、その才覚について彼らに優って同意するものであった。具体的には箴言や短詩、ショートエッセイの類を大長編小説より好む。それについてその場で彼らに説明したのだが、なぜか、彼らは理解できないらしかった。
 まあ彼らが超少数派のネット犯罪者かその変種にすぎないのでそもそも相手と合意をとりつけるなど論外で、最初から匿名でだれそれに嫌がらせの誹謗を衆愚に群れてしたいだけの単なる和人的下衆なのが恐らく真の原因なのだろうけれども、それはさておき、この内外差の構図はもののあわれ論と一緒だ。

 私小説は、もののあわれ論を花袋的な自然主義(西洋側のそれではなく、かなり曲解された恥の告白文)と混成させ、自称純文学となのりだした一部東京人の捏造物である。これが行き過ぎたのが芥川賞を一つの先兵宣伝部とする文芸誌なるもので、私はその社会をここでは最悪のサロンと形容したい。
 私と同時代人というか同齢でも、典型的私小説を書いている綿矢りさとか金原ひとみという人達がいた。で、私は彼女らが出てきた頃に東京にいたこともあって、あの人達の参加している社会をそれなりの距離で観察した。自分の結論としては、それは近づくべきではないほど低俗で、醜悪な俗物社会であった。
 なぜそういえるかだが、露悪趣味を完全に体化しきっている腐敗文化なのはいうまでもなく、そもそもその文芸誌の出版社の方は、ある俗悪なスノッブ社会で、利権で政界と癒着したりしていた(当時は僕も新宿にいたんだけれども、石原慎太郎が都知事で、綿矢が都庁で文芸誌上の会談とかしていた)。
 ところが、上記ツイッター民なる世界もそうだけれども、その東京商業文芸界、自称純文学の社会の内部にいると、自分達の根本的問題は盲点になってしまうらしい。自民党員とか右翼とかの仲間からは神道原理主義を批判するなど夢のまた夢であろう。山口4区で長州閥批判、やれるものならやってみてくれ。
 冒頭に書いたとおり、狭義の文芸(芸術的要素が求められる文)に純粋性なるものがもしあるとしても、その伝統からいえば、露悪趣味なんて昔から奇書の類でかなり異端のものか(「小説」自体がだが)、さもなければアリストテレスからは悲劇に一段劣るとみなされた喜劇、あるいは通俗小説の部類である。
 正確に言うと悲劇が優れた人物を描くのに対し喜劇は劣った人物を描く劇で、私小説とかもののあわれ趣味の類も後者に属する。つまり関西文芸は紫式部以来この悪書を量産する体制に入ってそこから出ていないのである。
 江戸を経て東京になった地域も、状況は似たり寄ったりでより一層卑俗なだけだ。
 さらにいうと、リアリズム小説、現実を模した物語の形式自体が元々低俗な奇書として出自している如何物の部類なので、明治期の私小説の人達がそれを必死こいて自己弁護してようが現代東京まで、下らなさは寸分も進化していない。正しくはより一層下らなくなっている。僕も彼らは語るに落ちると思う。
 この段落も典型的な随筆の反語構成だから抽象的かつ手短にまとめるが、勿論、全近代小説がごみなのではない。敢えて例えすら出さないが、見方によってはその種の私小説ではない美文の一つの高峰にある『草枕』『虞美人草』の類も、せりふは面白いのもあろうけれども、永遠的な聖典とは思えない。
 サブカル系はほぼ例外なく形式的にさえもっと酷い物だから、後世にとっても詳述する価値はないだろう。だが商業的にはそれしかない、あるいは、庶民や麻生太郎の間ではそれしかない、というほど隆盛を誇っていたという各種統計は平成令和期に生きていた私がここにいうのだから、主観的にも間違いない。

 上記の構図を簡素にいうと、同類相憐れむということだ。外部の目からは愚にもつかないガラスの中の蝿みたく、延々と限界にぶつかって意味のない努力を繰り返す。それが私小説なり、小説なり、サブカルなり、無装飾短文主義なりの内部で生きている人達の実相である。その外の世界は別の形で存在する。
 かれらからわれわれがなにを学べるか。
 外の世界をみれる人、もしくは外部世界にいる人と、かれらはなにが違うのか。
 恐らく種族自体が違う可能性もある。優生学かと思われるけれども、犬だって虫だって、人のある種の気持ちなんてわからないだろう。関西人には東北人の気持ちなんてわからない。
 関西人の中にも少しは純朴さを残した者がいても、周りがみんな関西人だったら宮沢賢治を読んで「おもろない」とかいって、げすな紫式部がいい小説だと思い込んで、おもいこまされて、不倫万歳耽ってアホアホいってるのかもしれんではないか? だが逆に岩手からみたらそれは暗愚な別の文化でしかない。
 これは文化のせいだという。本当にそうなのか、だって、その文化と種族が不即不離かもしれない。少なくとも私小説がどうちゃら、もののあわれがどうちゃらとか、関西人だの東京人だのしか言っている場面をみたことがないのだし、その外で生きている人々、生まれ育った和人がそんな妄想いだくだろうか?
 東京で生まれ育ったちんけな男は、世界の99%以上を構成するあらゆる場所を「田舎」「いなか」「地方」と呼んでいる。しかも謎に蔑んでいる。それは彼が馬鹿で、世間知らずで恥知らずで、驕りに耽っている本物の小人だからにすぎないが、何しろ世界の99%以上を知らずに貶しているのだから当然だ。
 で、その男と、上記した類の、ある文化の内部で生きて死ぬ(ある文化人としばしば見分けがつかない)種族なるものとは、そっくりである。
 われわれはその種の愚かさをなんと形容しよう? 私は、京都だの大阪だの奈良だの、東京だの神奈川だのの内部しか認知しえない人達をなんと思えばいいのか。

 もう一度冒頭の主題にもどる。
 私小説はいうまでもなく、そもそもその小説なるものは、根本的に下らないといおうか、子供騙しの寓話の類である。例え話で喜ぶなど説明の便利を除けば実に幼稚な話で、抽象的思考力の欠けた一部の人にとっての慰み物でしかないだろう。現実感の高い模倣的再現芸術は。
 それでその小説を立派な文化だ、みたいに言っている人達は、正直なところ無知か低言語力の部類かと思う。飽くまで子供用、民衆用の娯楽劇を文字面で展開させた物でしかない。同じ事は聖書にも言えるが、重要なのはイエスや神などの人物が語る倫理の方であって、実際、作劇法は筆者の演出でしかない。
 ノーベル文学賞が偉いんだと思っている衆愚(当人達は自分達が大卒だからそれなりに偉いとか思ってるだろうけれども、アカデミズムを超過した知性からみたら、学界や教授職に都合がいいよう愚鈍に洗脳可能な類型に再生産された民衆でしかない)、かれらもスウェーデンアカデミーも全く同類でしかない。
 そうであれば、私の目にはだけれども、欧米模倣かその追いつきに終始する輸入学府、その輸入元を権威だとかいっている人達、いわゆるアカデミシャンは全員例外なく馬鹿の部類なんだし、そのことは自分には10代の若人の頃から明らかだったので無視していた訳だが、要は文芸なる物もかれらの商売道具だ。
 ほんで、僕は権威という権威を張ってる連中は下人としか思えず、赤子の如き純粋な目で、あれ、天皇も棍棒黒尽くめヤクザにラスボス城守らせてる悪の親玉じゃん、とか、なーんだ小説家ってアイドルぶってる俗物じゃん、とか、土台直観してしまうわけで、結局、アカデミズムも宗教じゃんと思うのである。
 ツイッター系の短文厨って唯の莫迦なんだろうが、そうではなくとも文学マニアの僕からしたら、常々読む本だのブログ、サイトだのとにかく探してるわけだからツイート長だったら3秒でよみおわるから退屈してしまう。なんでもっと長文書いてくれないの、というならわかるが、スマホ勢の言語知能は低い。
 その低言語知性の荒野勢(スマホゲー『荒野行動』ばっかやってる小中学生)みたいなやつらに、僕がいかに勉強するに足る面白いものを必死に探してるか、探してきたかなんてきっと、未来永劫分からないだろう。いや、僕はその点からいえば文学マニアを超えて読書は呼吸みたいなものだから不可欠の生だ。

 私がこうやって連続ツイート状に一定長の文を書くのは、勿論、ツイッター発信の最善最美の使い方が毛頭わからんので実証実験の一部ではあるが、ここでまとめておくと、例え誰かがザ・意識の流れ文体で脱構築主義風の内容を書いてようがそんなのそいつの勝手であろう。なぜ一般化した短文厨にあわせる?
 もしジョイスに「頼む。芭蕉を真似てくれ!」とか、マドレーヌくっとる百年孤独なやつに「お前ばかだなwwとりまスマホで読みづらい」とかいっても意味がない。が、それをやってるのがツイッター勢の大部分なので、正直、形容ではあるが世界の言語的多様性の為には新型コロナウィルスより価値がない。