2020年3月10日

肉体は神性に至る手段

自分にとって肉体は余り重要ではない。その肉体は動物的なものにすぎないので、自分にとってこの世で意味があるのは特に脳の働きのうち、我々が魂とか精神と呼んできた要素だ。
 随分前から自分はこの感覚をもっていて、それで死を恐れていない。肉体は仮の物で失われるが、魂の働きは伝達で永遠だ。
 自分はできるだけその魂の働きに全人生を注ぎ込んできたし、今後もそうするだろう。
 思えば子供の頃から僕は肉体としてのこの世になんの価値も認めていなかった様に思う。
 プラトンより僕の方が、より現世に執着がない。なぜなら肉体の価値を彼より低くしか認めていないからだ。
 3歳の頃に母親が疲れて昼寝するとき、自分は疲れていないので無理やり隣で寝させられたのだが、このとき暑苦しくて一人で考えていた。なぜこれほど苦痛な肉体に縛られなければならないのかと。
 その後も肉体を通じてはこの世に、特に優れた点は認められなかった。寧ろ自分には肉体は邪魔だった。
 しかし、自分のみてきた現世の人類たちは、この肉体に極めて囚われ易く、寧ろ肉体に動かされている人達が多かった。というか自分以外の全人類がそうみえた。
 自分だけが肉体を他人事の様にみているので、その要素に一喜一憂できない。だから女がイケメンがどうとかいっていても、猿にしかみえない。
 ヒトはさも高級な被造物ぶっているが、それは古代ユダヤ人の聖書による捏造で、ダーウィンがみぬいたよう類人猿から進化した二足歩行の猿の変種だろう。だから僕の目からみると、ヒトがサルなのは正しいのだ。
 彼らはサルなのだが自分がサルと気づいていない。つまり傲慢なサルなのである。

 自分にとって特に意味をもっていたのは、純粋美術、つまり音楽、絵、彫刻、建築、文芸の類だった。なぜそうなのかならこれらは精神性の純度の高い結晶だったからだ。肉体に余り関わるところがなく、外部の物を人間向けにつくりかえたものだった。その中でも精神性が高い物の方がより親しみ易かった。
 これと逆に、運動競技とか、舞踊の様な身体芸術とか、政治とか、商業の様な肉体を直接使う生業は、自分にとって次元が低い、又は親しみづらい物に感じられた。というか余り興味がもてない。特に商人については拝金的な利己心に基づき行動している点が自分と余りに違う生態なので、完全に他人事だ。
 ウォーホルが「僕を知りたければ僕の絵をみればいい。僕はゼロだ」云々といっていたのだが、自分も彼のそれらの発言と文脈は違うにしても(彼は機械ぶっていたが、自分は神性に極力近づきたい)、半分は同意する。なぜならこの肉体の方に自分は自分の意味とか価値を認めていないからだ。

 自分にとって、この世は、この精神、或いは脳のつくりだす意識が、世界を観察する為の装置である。その意味でアリストテレスがいう観想が最高幸福だという意見に、かなりの程度同意する。アリストテレスと違うとしても、自分は聴覚その他の感覚も使うし、寧ろ主体的に世界を作り変えるのに意義をみる。
 アリストテレスは最高幸福をただひたすら受動的なものだとみていた。しかし自分が(結果として短期間になったが弟子入りに行った)妹島和世氏の仕事を身近に見て感じたのは、神性には能動的な要素もある。寧ろ世界全体を自在に、理想的に作り直す能力が、技術面での神性、全能性の様に感じた。
 妹島氏はそうは思ってないだろうが、建築の場合も、その装飾要素といえる絵や彫刻の場合と同じく、ある意味で創作の神に仕える様なところに行き着く。自分のみたかぎり、彼女は無限につくり、その中で最善の形を探り続けていたのだが、形相論でいう可能・現実態の間に目的の形を探っていた。
 つまり究極の形は、他の手段ではなくそれ自体が目的の形、いいかえれば神的なもの足らざるを得ない。その神らしさに近づくには、無限の試作が必要である。なぜならそれは理想そのもので、当為だからだ。妹島氏はこれゆえ、設計期間が許すかぎりギリギリまで果てしない試作を重ねていた。
 芸術家として為しうるのは、一生の期間をギリギリまで使って、この神性に漸近し続けることである。
 もし可能なら、人は一芸に秀でるだけでなく全能を目指さなければならない。結果としては万能性にしか到達できないだろうが、それでも神性にできるだけ接近し続ける努力が、理想の目的と一致する。
 もしこの世界が最早つくりかえる必要がないほど完璧なら、肉体も必要ない。なぜ肉体があるかなら、生物学的にいえば環境に再適応する為だ。能動的に環境を作りかえる必要があるのは、いわば理想の世界がまだ出来上がっていないせいである。
 完成した世界で人は寧ろ神のよう永遠に幸福であるだろう。

 とるにたりない芸術家は、下賤な理想を作品に投影している。現代でいえば漫画家やアニメーターらがその類である。彼らは低俗な理想しかもっていないので、理想の純度であるところの抽象性の低い作品しかつくりえない。
 つまり神性には次元がある。特に最高次元の神性は、最もその抽象度が高い。
 この世で為しうるしごとのすべてもこの抽象性の次元にすぎないのだから、できるだけ高次元の抽象度で理想を表現するのが、能動的な神性の為すべきわざである。
 肉体は所詮この為には手段でしかない。調度、高い山に登る者が手足その他を使ってそうする様に、肉体は神性へ至る機能でしかない。