2020年2月2日

寛容さとは人のひらけ方の度合い

寛容さが両極の社会と、中くらいの社会を比べた時、自由の余地がなく極端に不寛容な社会がロボットにしか向いておらず過ごし辛いのは言うまでもないが、極端に寛容なそれと中程度のそれは比較に足る。

 極端に寛容だといかなる急激な変化も容認されるので、いわゆる伝統の継続性がなくなる筈だ。
 然るに伝統とは、保守的な脳がもつ幻想である。過去の大抵の伝統も、古代から多少あれ変わってきた要素を含んでおり、全く古代と同じ状態を維持しているとみなせるものであれ、類人猿時代以前からの進化はどこかにあるだろう。もし全人類が全伝統を尊重するつもりなら藍藻や炭素にもどらねばならない。
 つまり、民族、国、nationと呼ばれる単位は、この種の幻想に基づく共同体である。彼らは少なからず伝統と呼ばれる過去の経験を共有しているが故に、そうでない相手より共通認識を抱き易いため同胞感情をもつ。例えばブレグジットはこの幻想の暴走で、中程度の寛容さとは幻想への固執にほかならない。

 いわば寛容さは幻想の持ち易さの度合いである。共同幻想がただの勘違いや、過去の生き物及び社会の不確実かつ柔軟な再適応過程を正しく反省的に認識できていない証拠であるからには、寛容さが高ければ高いほど、その社会がよい意味で合理的に営まれうる証といっていいだろう。
 が人は完璧ではない。
 つまり、最高の寛容さをもつには、誰でも多少あれ縋りがちな自分の生育過程に於ける共同幻想を捨てねばならない。無我を究極とし、万物流転、諸行無常の認識をつね新たにする必要がある。それは嘗て悟った人にしかよく為しえないほど難しかった。
 こうして、中位の寛容さの社会は半開の社会である。