IQ(Intelligence Quotient, 知能指数)は年齢分の精神年齢(知能年齢)の百分率なのだから、定義から同年代に対する偏差値でしかない。
またこれは一般知能因子gの一部について計測を試みた例で、一般知能の全てを網羅できない。そのうえ特殊知能因子sを説明しない。
IQの遺伝率は5~7割といわれているので、後天的にこの検査で使われる知能因子を鍛える作業をしないかぎり、うまれもった要素は変わらない。いいかえればIQに関するかぎり学習や勉強などで変動するのは3~5割である。
IQそのものは不完全なたとえだがPCでいうCPUやメモリの性能の様なもので、脳の(大雑把に)うまれもった性能を意味する。高性能PCをつかってもろくな用途に使われないこともあれば、低性能PCをつかっても偉大な達成をすることもできる。特殊PCに改造すれば高性能PCより優れた作業ができるだろう。
特別な才能を伸ばす、個性を伸ばすとは、IQのよう遺伝率が半分超ほどある部分ではなく、むしろその人の脳の特性を生かした特殊知能因子sに集中した自己教育の仕方といえるが、実際、「秀才必ずしも天才にあらず」なのでこれが傑出した偉業を成し遂げるには前提となる方法論である。
IQについて興味深い事実としては、子供のころの遺伝との相関性より、大人になってからのそれのほうが高い結果がでている。わかりやすくいうと、一般に信じられているのと違って、子供の時代に英才教育をしても、年を重ねるほどもとの地頭がでてくるということだ。子供なら5割は変動するらしいけど。
もっとわかりやすくいうと、いくら子供のころ勉強させ高学歴にしてあげても、年齢を重ねると段々と地が出てきて、もともと馬鹿だったんだね、とばれてしまう傾向にある。あたりまえといえばあたりまえなのだが。学歴社会だとこの事実は意図的になのだろうが隠蔽されている。若い頃の演技が一生通る。
確かに、平均化すると、学歴とIQには相関がある。これはおおまかに全員が等しい条件下で等しい目的で等しく高学歴を目指すとした場合の競争率の様な、ある種の理想条件でしかないので、現実には高IQの低学歴もいる。またIQと年収にも相関がある様にみえるが、これは人事差別の影響もあるだろう。
学歴差別をこの事実から逆算すると、次の様な構造がある。
第一に極東なら科挙が起源となって、言語性IQを酷使する勉強成果を、官僚としての事務能力の目安にしていたわけだ。上述のよう子供ががり勉すると5割程度この数値は変動しうるので、子供を出世させたい親が、学歴社会の原因である。
第二にマイケル・スペンスがシグナリング理論でいうところの企業内での人事差別の目安に、この学歴が転用された。企業側としては社内教育で個々の社員の能力をはかる費用を、便宜的に、学校に丸投げできるから楽だろうというわけだ。飽くまで平均化を前提にしているが経済学的には一見筋が通っている。
おおよそこの2つの側面、つまり親の深謀遠慮と、会社のわがままが、今日の学歴差別の起源といっていい。ほとんどの人達が公務員か会社員をえらばされる社会が続くかぎり、人の知能の一部を同年代に比べ偏差値化し、その目安に基づき人事しようとする、悪い意味での人間の機械扱いは続くかもしれない。
本来、議員は学歴差別を違法化するべきである。なぜならこの差別はうまれもったIQが5~7割ほど遺伝する事実があれば、ある人の後天的努力を無駄にするからだ。もっというと、うまれつき高いIQをもつ遺伝子の持ち主が、そうでない人より有利な条件で競争するデキレース状態を放置しているからである。
完全に公平な競争をはかろうとすれば、くりかえしIQ検査して最頻値をとり、その数値をハンディキャップとみて、各人が学習した成果から差し引かなければならない。つまりうまれつき高性能PCをもって作業に臨んでいる人とそうでない人の競争条件を等しくする事で、はじめてある人の努力がはかれる。
これを仮に「人間的競争条件」とする。たとえばIQ75の人が努力してあげた成果が500円だったとする。一方、IQ125の人のそれが1000円だったとする。一般に、機械的競争条件だと後者がえらばれ、前者はすておかれてしまう。だがこの両者は努力だけをみると、実は等しい成果かもしれない。
こうして、人間的競争条件を前提にすると、親の思いやりも、会社のわがままも、実はもともと不公平な競争へ人々をまきこむ意味で、非人道的なふるまいというしかない。もっと拡大してみると、資本主義経済そのものが、不公平で不条理な、機械的競争をさせている。結果、不利な人の疎外が起きるのだ。
この人間疎外が悲惨なのは、IQが加齢とともに馬脚をあらわすしくみになっているので、人生の前半でいくら学歴などで偽装しても、次第にもとの遺伝的能力差へ、平均結果が還元されてしまいがちなことだ。確かに自然はこの意味で不条理なのだが、文明の意義はより生きるに値する場をつくる営みである。
努力次第で成功できる。この文言はアメリカンドリームとして美化され、日本でも明治維新のとき運よく西日本の一部の県にうまれたので、藩閥政府からひいきされ巨万の富をえた卑怯な人達を美化する言説として残っている。IQだけに注目してもこの説は半分ウソであり、努力は公平に評価されていない。
われわれにできるのは、次の2つの対策だ。
1つは個々人の競争条件を、前述の学歴差別違法化、IQ最頻値検査からのハンディキャップ評価などでなるだけ公平なものに近づける工夫を続ける事だ。
もう1つは、そもそも競争結果で開いた成果差を全体として調整し、敗者復活に挑戦できる規則である。
韓愈は「弱肉強食」を動物界のルール、「道徳と法治」を人間界のルール、と両者を区別した。今日のIQについての研究状態からいえるのは、まだ現代は十分に人間化されていない。むしろ未開段階にあるといってもいい。なぜ日韓台など高IQとされる国々で自殺率が高いか。前述の意見を役立ててほしい。