2020年1月27日

仏陀の思想をのりこえる為の性愛を間接化した中道理論

仏陀の偉大な思想的達成は複数あると思うが、一番目立って西洋思想を否定するのは『ダンマパダ』『ウダーナヴァルガ』などでの「愛執するなかれ」とか「愛する人にも愛しない人にも会うな」の文言だろう。愛を否定している。
 西洋人一般は愛をイエスやプラトンに遡って肯定的価値と思い込んでいる。
 僕は全人類の全思想家でも仏陀ことガウタマ・シッダールタが最も偉い人の一人なのは今のところ確かだろうと思っているが、その中でも最も金言に等しいのが、この愛の否定だ。神の概念を使わず、業によって道徳体系をまとめているのも凄いのだが、愛の否定は彼の究極の点として全西洋文明を超えている。
 古代ユダヤ人は「産めよ殖やせよ」と旧約聖書の中で神にいわせ、ユダヤ民族の繁殖率を高めようと誘導していた。後に預言者イエスが抽出したアガペーの部分として、暗に性愛を肯定していた。
 同じ事はエロスの普遍性を説くプラトンについてもあたる。
 ヘブライズムもヘレニズムも愛執している。
 しかし仏陀は愛を否定する。なぜなら彼にとって死が救いだからだ。のちの世で無余涅槃といわれる全煩悩が消滅した状態は、すなわち死後である。意識がなくなり肉体は物質に還元されるので、もはや繁殖の輪廻に囚われなくなるという洞察だ。
 今でいえば無性の勧め。都民らの性売買罪も当然否定する。
 都民らの描く同人漫画の殆どは、愛欲のうち変態性欲を描いている。この意味で西洋的性愛とも違って、東京町人・商人らが性売買罪の趣味を持ち、その美化をはかっていると解釈していいだろう。江戸時代ならいきといい平成時代なら萌えといっていた。これも仏陀は全否定する。性愛は煩悩に過ぎないからだ。
 自分の知る限り、この仏陀の考え方は比類がない。ニーチェが仏陀を虚無主義者と形容し、超人思想の面から批判したのが唯一の攻撃といってもいいが、それも仏陀の道徳的地位を全く破壊できていない。だって仮に仏教が虚無主義だろうが愛の否定による死の救済性を、理論的に否定できていないのだから。
 ニーチェは、イエスやキリスト教信者を否定したいばかりに、超人思想を思いついた。曰く自己犠牲を否定し、力への欲望を認め、永劫回帰の肯定が必要であると。この意味で、輪廻からの解脱を説いた仏陀と対極的だが、仏陀の根本思想である業の否定、つまり解脱をニーチェは理解さえできていないのだ。
 ニーチェとしては業の肯定が救世主願望的な自己犠牲をのりこえるすべだったのだろうが、仏陀は業そのものを否定する地点に進むのが最終目的だった。それを無欲を意味するサンスクリット語nirvāṇa(nis: out + vana: blown、吹き消し)といっていた。パーリ原語のnibbānaを漢語へ音訳し涅槃ともいう。
 しかし、西洋文化に影響を受けた人達は、性的少数者も含め、性愛なり博愛を肯定する。もともと東洋文明にとってこの要素は、仏陀の段階でのりこえられていた。だからのちに死後の人を仏陀気の訛りからホトケといったのである。仏教では自殺を勧めないが、世俗的職業を捨てた乞食による自然死を勧める。
 なぜ死を究極目的にしていたのに、仏陀自身は自殺を肯定しなかったか? 彼が苦行の果てに中道を最善とみなしたのと関係している。ここも独特なところで繁殖を否定し、死を理想視するのに、生前は乞食でよいという。性欲は全否定するのに生命維持の為の食欲とか、睡眠欲は全否定しない。
 思うに、仏陀ことガウタマは、今の時代なら極貧の放浪詩人だった。元皇太子だが王位を捨てた。それで周りの人々は彼にカリスマをみていた節があるが、思想内容も当時としてインド思想の批評的まとめなので今の日本の自分にも伝わっている。
 仏陀は生命が生き延びようとする苦痛回避は認めたらしい。
 したがって餓死は苦行にすぎないので最後まで、必要最小の食事は否定できなかったらしい。悟った頃の仏陀はまだ30代で去勢もしなかったろうから性欲そのものが全くなくなってはいなかったろうが、解脱の理論的見地から昔儲けた子以外の繁殖につながる性行為を否定しだした。この点で無性主義になった。
 愛の否定は、仏陀の思想の中では、上述の理路をもっているわけだが、その代わりのちに慈悲と呼ばれる別の種類のアガペーを説いていたかの様にいわれている。しかし、自分が『ダンマパダ』を読む限りこれはある意味で後世の理想化にすぎない。仏陀自身は愚者を救おうなど一度もしてないからだ。
 つまり、慈悲(仏教用語で、マイトリーやカルナーと呼ばれる要素)は大乗仏教的な虚構である。原始仏教の段階では、仏陀自身「愚者を見聞きするな」と、輪廻をくり返している凡愚から離れる様に勧めていた。この意味でニーチェも仏陀にいわせれば凡夫でしかない。愚者は仏陀にとって救済対象ではない。
 然るに、現代の日本人はどうだろう? 彼らは一般に、繁殖なり恋愛なり性売買罪を勝ち組かの様にいう欧米かぶれ、又は町人思想かぶれになっている。仏陀にいわせれば、繁殖こそ苦(dukkha, dus: 悪い + kha: 空。不快)の始まりである。生態は快苦に導かれ繁殖するが、そのうち苦痛を仏陀は強調する。
 確かに古代インド社会は医療面などが不完全で、今の日本より苦痛が多かったろう。現代日本でも不快に注目すればあまたある。問題は、根本思想の点で、繁殖や性行為を肯定するかどうかだ。仏陀は性の快楽追求を否定する。なぜならそもそも愛や、輪廻(いわば生まれること)を否定しているからである。
 では愛のない性行為、つまり町人の末裔というべき東京都民らが性風俗などで盛んに肯定している様な、単なる性的快楽の追求は? 仏陀はこれも否定している(『ダンマパダ』284など)。だから現代東京のサブカルなんて性愛要素だらけだから当然全否定されるし、平安文学なんかも全く俗悪なだけである。
 こういうわけで、紫式部からはじまって新海誠まで、京都だの東京だのの俗作家達は必死になってというか、無知なのもあるだろうけど、仏陀の思想を否定するなり、そもそも知らずに獣じみた野蛮な有様を描いて、世界に恥売ってきたわけだ。欧米人一般も同等程度の蛮族だから愛欲を肯定しているわけです。

 じゃあ僕がどう考えているかを最後に書くが、仏陀の思想的見地ってのりこえなければ現代人として哲学上の達成っていえないんじゃないかなとある時点から僕は考え始めた。だからといって京都や東京の俗作家共(村上春樹や綿矢りさみたいなの)みたいに下品には成れない。結局つぎの様な考えに至った。
 僕が人生経験としていえるのは、愛を全否定すると完全な孤独になる。仏陀は孤独を美化していた。確かに彼の考えも一理あるが、僕的には中道理論の矛盾じゃねえかなと感じている。生殖器が機能してればテストステロンのせいで性欲って全否定できない。ということは性愛の全否定には、根本に矛盾がある。
 親鸞みたいな俗坊主の態度も、その後の京都で、豪華な寺の観光収入がっぽり儲けて芸妓遊び坊主の醜態とかみてると酷い結果だなと僕は思って軽蔑せざるをえないし、そもそも性売買罪って人身売買的要素あるだろうしこれも人として不道徳だろうけれども、性愛の間接化が可能な次善ではないかという話。
 具体的にいうと、文通で愛を交わしましたの方が、具体的に交尾しましたより間接的である。婉曲的というと変態性欲みたいな誤解を受けそうだからここでは間接的というが、要は、文明人として性愛の直接さを避けていればいるほど、それは上品といえるのではないか? プラトニックラブがその典型だ。
 したがって、食事と同様に、睡眠とか性欲についても中庸がある筈なのだが、この世で性愛に望みうるのはその間接化による上品さが限度と思う。確かに、究極では純潔(童貞、処女)のまま死ぬ方がよい。これはキリスト教でも同じ見解だが、理由としては自己犠牲が望みうるかぎり最も上品だからだろう。
 しかし、現実的に性愛が全否定しきれないなら、できるだけそれを間接化すると共に、アガペーぽい慈悲に近づける方がましという話だ。これは聖者一般がそうしていた。
 仏陀の思想をのりこえるといっても親鸞レベルの意見にみえるだろうが、ここまで辿りつくのに相当の試行錯誤したので簡単ではない。
 自分の意見と親鸞の思想の違いは、自分のは悪人正機説は採用しない。自分はこの点、仏陀と同じ意見で、愚者が救われるとは思っていない。そもそも繁殖が救いとも余り思わず、生物としての自然現象の一種に過ぎないと思う。
 単に、性愛を全否定するのは仏陀の中道についての思想的矛盾だと思う。
 性愛は、性欲まじりなら根本に利己性がまじっているので、その表れ方ができるだけ間接化されていないと他人にとって多かれ少なかれ下品と感じるものだ。後世になるほど物質の余裕ができるのだからより上品な人が育ちうる。なら現代の上品さは未来の下品さにすぎない。つまり間接化しすぎは本来ない。

 結論を書くと、欧米人一般は愛の間接化を理論的に発見していなかった。だから公然とキスもすれば、ドラマの中でも頻繁に交尾する。これを下品というのだ。
 東京・京阪・中京圏みたいに町人文化の影響度が濃い都市部も、煩悩肯定の直接さで下品な傾向がある。
 望ましいのは仏陀を見習った上品さだ。
 仏陀は食事や睡眠については中道を勧めていたのに、なぜか性についてだけ全否定する極論を述べていた。これは彼の矛盾にすぎないので、より彼の私徳の先に進むには、性愛についても、できるだけ慈悲深く間接化しながらだが、中庸を守るのが望ましい生き方だと私は考えた。