2020年1月13日

質素について

清貧は、もともと富裕でありうる人が、自分の取り分を寄付に回し、より質素な暮らしをしている時は正義のふるまいだが、現に富裕な人がさらに蓄財を図る過度のケチさのため守銭奴的ふるまいをしているときふさわしい形容句ではない。この場合、吝嗇・ケチといわれる。
 経営的な節約はケチではない。
 清貧が単なるケチさからきた偽装または勘違いであれば、それはそもそも貧しい人々を応援するという善意から出たふるまいではないので、貴族精神となんの関係もない。
 あるいは清貧が俗物根性と化しているある種の骨董趣味のよう、擬似的な高級感を演出している時も、貴族精神ではない。
 純粋な清貧は、本来無一物に悟り、物質的・精神的な馬乗りを愚かなふるまいとみて、競争や勝敗からみずから降りて、他人に譲る心を意味する。それは質素の本来のあり方で、貴族道徳的なものである。
 文化資本とみてこの種の精神性をもっている人は、尊敬を得る為に演技しているとき偽物である。
 純粋な清貧は、単に自己の良心をまったく満足させることを追求する。他人がかれらを尊敬しようがしまいが、利他心のみに基づいて富をより恵まれない人々へ譲るのが、質素の本質的目的といっていい。他人が名誉その他をわずかなりともお返しをしてくれると期待してやる投資は、この意味で喜捨ではない。