2020年1月24日

差別やひいきを免れて物を見る工夫

僕にとって難しかったのは、自分の中で弱者への差別的偏見を免れることではなく、高学歴と称する人々の圧倒的愚かさをひいき(逆差別)ぬきに自覚することのほうだった。
 自分は優しい性格らしく、自我が芽生えて以来、弱い者虐めのたぐいに関わることはないのだが、ひいきを完全無視するのは難しかった。
 特に自分が失望したのは、無意識に、東大京大以上で修士以上の学位をもつ人々に、自分が期待する平均的知性なり徳性以上を前提にしてしまったことだ。これで何度も騙された。
 負の偏見を戒めるのは私徳的に容易だが、正の偏見については別のコツが必要だ。

 先ずIQや学歴を無視しなければならない。その上で、高学歴な相手の知性を過度に高く見積もってはいけない。
 なぜなら、第一にIQは知性の本の部分でしかなく、それを正しく使えていない人は無数にいて、愚かな判断をくり返すものだからだ。
 第二に徳性(善性)のほうはIQや学歴と特に相関性がない。
 ことさらサイコパスと呼ばれる種類の脳の持ち主がいて、その様な人々は一部の知性が優れていても、徳性のほうは著しく欠いている場合がある。しかも一定以上の学歴をもっていて、演技的に高い地位を占め、徳性の偽装を施している時すらある。だが垣間見える冷酷無慈悲な言動で本性はみてとれるものだ。

 それに、次の様な種類の人達もいた。というより、高学歴と称する人々の殆どがその類型だったが。
 その人は実に愚劣な言動をしながら、自分の学歴をたねに、周りでより賢い言説をしている人々を罵倒している。
 自分はその種の言動が、「肩書きの効用」からくる知性への悪疫だとみてとって、中学歴をめざす様になった。
 実際の知性徳性をどれほど高めようとも、自分の学歴が世間からみての中庸を超えなければ、自らの言動をひいきしてくるひともいなければ、自分自身で過度に思い上がる余地もない。

 この世にある差別も、多少あれ似た構造をもっている。
 自分が都内にくらしていると単に都民にみえるだけで複数のひいきを経験したが、茨城に移った途端、地域への偏見から差別してくる人だらけになった。自分は同時期の同一人物な以上、日本人の相当数は地域差別主義者で、この点で暗愚なのである。
 では自分はひいきされるがわと、差別されるがわどちらを選んだかといえば、現に茨城で差別されるがわを選んだ。暗愚な人をより簡単にみわけられる利点がある。
 いうまでもなく現実の茨城は美質が多い。人口あたり研究所数が最多の都道府県でもある。裸の王様にならず、差別してくる暗愚な人も篩い分けられる。

 環境の条件も、学歴や所属といった属性も、差別やひいきぬきに物を見るのを邪魔するとき、有害である。
 自分が偏見を全くもたないのは事実上不可能だから、できるだけ、自分の偏見が解除されやすい状況に身を置くのが次善だ。またひいきされるより差別される状況のほうが真実を見やすい。