ダライラマ14世が「科学的に考える」ことで正しく生きられる(究極の幸せや喜びを得られる)といったが、間違いだ。
カントが既にこの種の科学主義では、永遠に道徳は導き出せないと三批判書で解説している。自然や社会の分析からは、永久に「当為」(~すべき)は導き出せない。それはひとの信仰だ。
一方、哲学は宗教も包含する。
「科学的に考える」とダライラマがどういう意味で言ったのかにもよるが、科学主義の諸方法論は、自然・社会の分析にとっての道具にとどまるので、後自然学(形而上学)の対象となる倫理(道徳)や信仰の考察に直接つかえるとは限らない。時に別の道具が必要だからこそマッドサイエンティストもいる。
もしダライラマが「哲学的に考える」のが幸福だ、といったなら、こちらの方がより正しい。尤も、これはアリストテレスの幸福主義なので、幸福について別に定義している人達も無数にいる。
そしてダライラマが信仰や金儲けを否定したのはかなりの程度、彼の恣意だろう。信は究極の徳の一つだろうし、神の様な観念に対するものであれ、直接ひとへ対するものであれ、それなくして人の存立基盤がない様なものだ。金儲けについても資本主義信者はそれを幸福と同一視しているといってもいい。
ドラッグ(麻薬)とアルコール(酒)は、少なくとも前者は一般に悪徳とみなされるので刹那的享楽主義を否定したものと捉えられるが、後者については適量で健康に望ましい見解もあるので、酒造業者への間接的嫌がらせみたいにみえる。麻薬中毒が危険とか過度の飲酒はアルコール中毒になるというべきだ。
「科学的に考える」のが究極の幸せや喜びとの説は、所詮、分析的知能の使い道にすぎず総合的知能の使い方ではないので、最も総合的な頭脳の使い道としての道徳的判断に科学は要素としてしか役立たない事を見逃している。部分を全体より究極だとするのは、ダライラマの哲学が未熟だと示している。