2020年1月2日

尊卑は思いやりの度合い

卑しい人は、悪徳と呼ばれる判断の癖を、なんらかのきっかけで無意識に刷り込まれていることがほとんどである。一方、道徳相対主義によると、たとえば差別の権化である天皇皇族は人権からみれば天敵だが、神道信者からみると教祖に他ならないといった尊卑判断のクラスター分裂がある様に一見みえる。
 自分のもつ道徳体系の中では、ある人は卑しい。そして道徳相対主義を文化多元論の一種として批判的に検証し、普遍的道徳により近づいている人は、複数の道徳クラスターの間をより正しく弁別できるとみずから考えやすい。
 だが、これは本当か? 単なる確証バイアスか確かめるすべがあるだろうか?
 この世に神の様な、外部監査できる存在がいない限り、我々は普遍的道徳の類を自己認識できないのではないか?(辛うじて複数クラスター群に、共通化された最低限度の道徳規範である法すら普遍的・通時的ではありえない。つまり法は集団や時代で違う)

 もしそうなら、尊卑の認知は何の為にあるのか?

 進化についての生物学は、性選択の理論を延長させ、そもそも道徳をある個人が集団を操る為の戦略だとした。私はここに道徳の一つの起源があることを認める。それは幻想・妄想であり、主観や信念を超えてありえないのだから、他人と道徳が違うのはむしろ普通のありさまだからだ。国や民族性の起源だ。
 他人を自分に都合よく操る目的で、あるひとが尊かったり卑しかったり感じられるなんらかの言行をとる。教皇が彼を無理にひきよせた女性信者の手をひっぱたき、のち謝罪する。娼婦が男の純潔を侮辱する。これらはどちらも彼らの職能に都合よく、他人を使っているのである。だが、利己性は道徳ではない。
 本来の道徳は、利他性なのだから、他人を自分の都合で操るものであってはならない。そうであれば道徳相対主義を容認しなければならないはずだ。普遍的道徳も否定されねばならない。単に、より利他性の高い行いをみずからふみ行うと同時に、他人についてそれを期待しないものでなければならない。
 除夜の鐘がうるさいので中止しろ、と大勢の日本仏教を受け入れている信徒以外がいう。これは道徳相対主義に基づく苦情なので、なんの問題もない。しかしこれを非難している人は、当然だが自文化中心主義に基づいて、この公害を容認させようというのだ。より利己的なのは後者であり前者ではない。
 都民が原発公害で他日本人の生命財産を奪いながら、自分のゼニガネ惜しさに己の一生は安全地帯と考え、原発推進すべしと述べる。あるいは急進的環境論者が、そうする。これらの主張はやはり自文化中心主義に基づく利己性のおしつけである。他人には公害なのに、自己反省がない。今日の不徳の起源だ。
 道徳相対主義を非難する人達は、多文化主義や文化相対主義といった文化多元論の類も、多かれ少なかれ否定する。彼らは単に他人の立場で物を考える能力が不足しているのである。
 この高慢がいきつくところ中華思想であり、たとえば京都市民や都民の一部がそうあるよう自分を謎の上位者と思い上がる。

 思いやりが脳内で、下前頭回、扁桃体、島(insula)、内側前頭前野などと関連して働く共感とすると、他人にとって望ましいふるまいをできる様にするのは、他人の状況の読み取りであり、しかもその他人が自分と似たところがないのを前提に、文化差についても理解がある人ほどよく思いやれる。
 尊卑とは、斯くしてある人の利他度を指すのだ。問題は、利他度は道徳に依存しない。道徳はなんらかの個別的な行動規則に還元される、様々な信念にすぎないからだ(不正を省みず権力にしがみつくより常々正直たるべきか? 儲けのどれだけを喜捨すべきか? いかなる場合も死刑はゆるされないか?)。
 道徳相対主義、普遍的道徳論などいずれも考え方(イデオロギー)でしかない。つまり、これらは道徳の種類である。利他度を尊卑と考えるのは、やはり利他主義の考え方、と思われる。だがそうではない。尊卑はひとが認知できる思いやりの程度で、考え方、あらゆる道徳に基づいて存在するのではないから。
(わかりやすく書けば、アイン・ランドの様な利己主義者からなんらかの受益があっても、それは尊卑いずれかの濃度として感知されるだろう。モラルやエシックスについての信念は、必ずしもひとの尊卑と一致するのではないのだ)