「アカデミズム academism」は、アカデミーacademy+思想ismの合成語である。
ギリシアのアテネ北西にアカデモス Academosなる伝説上の英雄にちなんだ聖なる森があった。そこにプラトンが現地の地名アカデメイア academeiaと冠した学園を作ったので、学園をアカデミー acamedyと総称することになった。
アカデミズムの和訳はひとつに確定されていないが、直訳なら学園思想、学園主義となる。
この言葉は色々な意味で使われるが、否定的・批判的な文脈のとき、官学風の融通の利かなさとか、空理空論に耽る虚学的な役立たなさとか、伝統にこだわって現実の進歩を拒絶する後進性などを指したりする。
で、学術(学問や芸術)に関する限り、アカデミズムは根本で全く意味がないことを理解すべきだ。
よく今日の世間では学歴、学位とか、教授の肩書きとか、受賞歴とか、あるいは論文の引用回数で、学術的業績をはかろうとする。自分の詳しくない分野だと余計この傾向がある。がこれは無意味な偏見だ。
たとえば千年、二千年といった巨視的単位でみるとすぐわかるが、一流以上の業績を挙げた人たちは必ずしも当時の学園に属していたわけでもなければ、その中で与えられた地位が偉大さとして残っているのではない。当たり前だが、学術的業績が偉いのであり、学者や芸術家の同時代での地位が目的ではない。
世界には無数の学園があった。しかし今日までその名をとどめている場所がそう多くあるわけでもない。日本だと「坂東の大学」と呼ばれていた栃木の足利学校が最古の学園と考えられているわけだけど、当時の学者らの業績は一般にほとんど知られていない。これはどの学園思想についてもあてはまる。
詭弁に「伝統に訴える論証」があるが、伝統の長さはそれ自体も或る価値ではあるかもしれないが、学術的業績の確かさを裏づける証拠にはならない(たとえば単に古くから信じられていたからといって、地球が平らな板で象の鼻に支えられてはいないとガガーリンは確かめてしまった)。学園の伝統も同じだ。
つまり、我々は学術的業績に集中すればよいのであり、この点では、大学や研究所など教育・研究機関は単なる場でしかない。場のほうが主体となって、免許制をとり、皆伝の人が羽振りをきかせているのは、中世剣術の世界と似ている。だが剣豪の宮本武蔵や塚原卜伝らは武者修行で腕を磨いていたのだ。
実力は免許ではかられるものではない。現実に剣を交えたら一瞬で勝敗がつく。これと学術の能力は全く相似である。
道場破りしまくる必要があるかはわからないが、今日の名だたる大学とか研究所で最高の地位を占めている人達が、一介の素浪人に、或る学問や芸術の才能で敗れることは普通にあるのだ。
なぜ学園主義が人々に信じられているか。それは上述のよう、自分にはろくにわからない分野の実力は、客観的指標が仮にでもなければ、見抜きづらいせいだ。このせいで、より一般的な学術能力の目安にあたる指標が、ますますはぶりをきかせやすい。東大生なら賢いとか、ハーバードなら凄いと勘違いする。
なぜ多くの人達が、免許にあたる学歴・学位を得たがるかなら、この後光効果を狙っているせいだ。より一般的な、つまりなんらかの能力の共通因子にあたる優秀さの証明書を手に入れてしまえば、なにをやってもできるかのよう偽装しやすいわけだ。無論これは本来、学究の為にあった学園主義の悪用だが。
既にのべたよう、同時代の地位争いは、学術業績と特に関係がない。部外者には見えていないが事実である。
中世イギリスの大学には靴修理の職人が出入りしていた。彼らは「門前の小僧習わぬ経を読む」式に、しらずに耳学問でにわか知識を仕入れていた。やがて部外者の名義が靴屋snobになった。
スノッブは今日では「知ったかぶりをする人」とか、日本語だと「俗物」と意訳され、教養あるふりを偽装しているが本当は表面的な知識しか持っていない、底の浅い上流文化人きどりなどを指す言葉になった。後者はニーチェの「教養俗物」という用語に近い語彙だが、学園主義者も俗物の一種である。
いいかえると、学術は決して他人を煙に巻く為にあるのではない。むしろ全くこれの逆の態度が、教養ある人にふさわしい。たとえばカントは『判断力批判』(159節補注)で「啓蒙は訳知り顔で相手の知性を越えたことを教えてやるといった態度ではなく、否定的な考え方で公衆の迷信を晴らす態度」という。
つまり「そんなことも知らないの? まだ東京で消耗してるの?」みたいな態度は、カントにいわせれば啓蒙ではない。血液型占いでは色々な性格を4つくらいに類型化できない、とか、どちらかといえばビッグファイブといわれる心理学の性格分析のほうが確度が高いらしい、くらいの態度が、啓蒙的らしい。
学問のスノッブは知ったかぶりコメンテーターがテレビとかネット(しかも匿名)で無数にいるからさほどめずらしくないかもしれないが、芸術のスノッブはもっとたちが悪い。なぜならこの分野は感性論とか感覚論と呼ばれる立場があって、主観でなんとでも評価できたりする。なんでもセンスないといえる。
ところが芸術の歴史家たちは無数の表現をあるジャンル(種類)に分け、スタイル(様式)ごとに先駆者や代表者を選出する。この曲はジャズで、電子ジャズ様式だとか。そうやって音楽史上にマイルス・デイビスが一定の地位を占める様になるが、素人は歴史家の目をもたないのでその様式の追随者らと見分けがつかない。
つまり芸術に詳しくない部外者と、内部者のうち歴史的批評眼をもっている人の違いは、無数の表現のうち、珍しい種類や様式を見分ける知識量に依存しているわけだが、スノッブはこの評価を偽装する。いくらでも偽装する。だって素人は本当に不案内なので、彼らへはなんとでも騙せてしまうのだから。
学問でも事情はいくらか似ている。どうでもいい様な発見でも、同時代の多くの学者(教授とか学会の会員など)がイイネといったら権威づけされるので、全く偉すぎ同時代にだれも理解者がいない発見に比べ、大変な名誉を受ける。この間に忍び込んでくるのが学問の部外者で、真に偉い知識人を冷遇する。
たとえばメンデルとか修道院でマメを育てていたわけだけど、当時の大学教授とか物凄く威張っていても、彼の業績なんて理解していなかった。死後十何年もたってから別の人がたまたま同一法則を見つけたから遺伝子発見の先駆者と認められた。彼は学会誌に論文のせてもらえてたからまだましなほうである。
この学会というやつだが、いわゆるサークルだ。とてもとても偉ぶっているけれども、本質は同人サークルとか学校の部活みたいなのの大人版でしかない。趣味が同じ人が集まっている。しかし、アカデミズムからみるとこの学会なるものが大変に悪影響をもたらしている。だって排他的クラブ活動なのだから。
絵だとこの種のサークルは「会派」といわれている。そして会派同士が公募展で何人入選だからこっちがえらいみたいなバトルじみたことをしており、かといって国とか県とかの公共団体主催の賞の審査員も、大きな会派の上位メンバーなんだからデキレースをやっているのです。要は派閥ネタで飯食っている。
まあ市くらいの単位だと、僕の市もだけど公募展(市美展)素人はだしの人ばっか、いやそもそもジジババの老後の趣味展示な上に、競争率が低くて審査ないまま展示してもらえる。それは会派のくだらねー銭ゲバ的権威づけごっこが忍び込む余地がないだけましだから僕は自分の市だけでしか展示しなかった。
ここでわかるのは、部外者は勿の論、絵の体系的な知識とかない。部外者って芸大卒じゃない人、とかそういうのではない。芸大のやくざな構造について語ると紙幅が足りぬので手短にいうと、芸大とは会派の一種だ。で、芸術表現に学歴は先ずなんら役立たないので、教授に媚を売った証拠の種でしかない。
つまり部外者とかアートスノッブのたぐいは、絵そのものを歴史家次元でちゃんと評価できないのをいいことに、適当にその会派の箔を目安に、業界に忍び込んでくる。だってそれなら偉そうな肩書きついてるの褒めとけば知ったかぶれるのだから。こうしてどの時代にも芸術愛好家のモドキが大量発生する。
たとえば芥川賞だのターナー賞だの、まあ高松宮殿下記念世界文化賞みたいに「それなり」の歴史的批評眼がなくはないみたいなのも中にはあるけど(それなりです)、ノーベル文学賞みたいに全然、まともに小説よめてないでしょっていうスウェーデンの文学系の教授だかの個人的趣味賞みたいなのもある。
だから芸術の評価に会派だの学歴だの受賞歴だのをもちだすやつは、このツイート読んでるくらいだから玄人はだしたちにはいうまでもないのではありますが、意味なし。だって箔と関係ないんだもの。芸術の凄さは感覚論だけでもないんですね。上述のよう歴史軸とか色々あって、多様な評価ができるのです。
多分これが後世に残ったら色々参照される発言を残しておくと、ある人にとって自分の子の描いたお父さん(とか誰でもいいけど保護者)の顔とかいう絵のほうが、ピカソのキュビズム初期のたけー愛人の絵より、そりゃ主観的価値はあるでしょう。世間の価値づけとギャップが生じるのは俗物性のせいですね。
芸術なんて全部、スノッブがプレミアム(手数料)載せてくれて価格投機してるといっていいでしょう。理解できないほど高尚で、出現頻度が恐ろしく低い様式の開発者は、歴史に残って美術・音楽・文学史家とかいう第一部外者の人達(だって作家自身じゃないから部外者ですから)から手数料とる。
ある意味、死後にしか認められないみたいに、出現頻度が超低いとこの手数料は作家当人には帰ってこず、集団制作のときもそうだが、投機した評価額分はその作品の所有者のものになる。芸術って人工的に宝物を作るみたいな作業。まあ本題じゃないから次回書く機会があればもっと詳しく書くけど。
まとめると、
1.学術の業績は世間的地位とか名声と何の関係もない
2.学術の部外者はその分野の手数料を増す存在
したがって、ここでいいたかったのは、ちゃんとした学問・芸術をやりたい人は、部外者を無視し、また世俗に拘泥せず、純粋学術の探求にひたすら献身的であるべきという話。