2019年12月22日

なぜ知識人は高貴でなければならないか

愚か者が途中で賢くなった例はみたことがないし、それは後天的に教育したり何かを学習させたりしても多かれ少なかれ同じにみえた。また性悪が途中でお人よしに変化した場合もみたことがない。
 性格が変わりうると信じれば変化し易くなると心理学はいうが、うつなどの性格遺伝子もみつかっている。
 優生学は過ちだったと総じて考えられているし自分もそう思う。しかし一般にIQの5割から7割が遺伝すると述べる遺伝学者もいる。経験的事実として、生まれつきの身体・脳の要素と、後天的要素がどちらもあるとみなすのが当然かと思う。

 自分はこれ以外に文化的習癖の偏りも興味をもち色々研究した。
 国内ですら無数の落差があり、自分は何度も文化衝撃を受けた。細かく挙げればきりがないが、自分より感受性が鈍かったり、観察力の劣った人達は、文化差にそもそも気づかないらしかった。鈍い人には環境やその中で動いているミームの運動はどれも同じくらいの刺激しか与えないし、見分けもつかない。
 驚くべきことは、この世では愚鈍な者も繁殖していて彼らは寧ろその性質ゆえにいよいよ傲慢である。「野蛮」という言葉はその種の人々を表現するのに使われてきたが、実際にはその様に別の文化を差別的に蔑視する人々も別種の野蛮さ、すなわち共感力の低さや人類学上の無知をさらしているだけである。
 逆にうまれながらの賢者はますます賢くなり、うまれつき善良なる人はどんどん聖哲に近づいていく。ちょうどゲーミングPCを使いながら最後まで性能の一部を発揮しないのが却って難しい様に、天才にうまれればもはや凡愚に同調させられるのが拷問に等しい。この事実をしらないから凡人は常に悪質なのだ。
 ある凡人としか呼びようがない主婦がいっていた。「秀才は可哀想、いつも孤立していて寂しそう」と。自分はこの意見に大変驚いた。サルの群れに混ざれといわれて、みな勿論いやいややっていると思っていたのに、それが楽しいと感じられる人がいたとはまるで知らなかったからだ。知能は生まれつき違う。
 恐ろしい事に、同調圧力を加えて常々嫌がらせや最大限の悪意で人の足を引っ張っている衆愚は、彼らと同質の存在しかこの世にいないと思い込み、もしかすればだが善意で、まるでちがう他人を彼らと同級の吐き気がする暗愚な悪徳仲間におとしたがっているらしい。そんな事実があれば。信じられない話だ。

 明治の知識人は武士階級あるいは公家の残党として、往々にして愚民観をもっていた。大正デモクラシーの挫折も、彼らが一般民衆への権力付与を拒んだ面が大きい。これは今にして振り返ると、ダニクル効果にしかみえない。だが現実にその時代を生きていた人達の目には相当違った風景がみえたに違いない。
 現に平成末期では安倍法とでも呼ぶべき悪法の数々がつぎつぎ二権独裁者の手になり流布され、それらのどれも学部程度の法学知がありさえすれば凄まじく落第とわかる戦前退行公害の様なものなのだが、一般民衆は今の今まで内閣支持率を半分ほども与えている。愚民観もつだけの民衆側の状況もあったのだ。

 この国の構成員は、皇族、知識人、大衆とおよそ3種に大別され、それぞれアリストテレス政治学の分類に倣えば王、貴族、民衆に該当する。多数政治はこのうち民衆の多数決に主権を与えるものだが、少なくとも知識人からみれば劣った判断が多い。ナチスも安倍政権も多数決で選ばれている。
 うまれつき知能に違う面がある様、知識人になりうる人と大衆のままでしかない人とは、皇族と違って転化できるのにわかれている。両者にはっきりした境目はないが、根本的に違っている点もあって、それは貴族精神の有無であろう。堕落した知識人には、その種の意識は失われているから存在意義がない。
 薩長藩閥(明治寡頭政治)を形成していた似非知識人らは権力の寡占体制によって堕落し、民衆の公益を損ないながら華族令を発布し皇族に侍っていた。日本史上ではよくあるパターンだ。そして彼ら元勲を美化している人達も、高貴な精神の失われた偽貴族を成金程の見方で肯っており、単に愚かなのである。

 なぜ民衆の中に、うまれつきかしこかったり、うまれつき品性よろしかったりする人がいて、かつ彼らが成長後も少数派としてますます傾向を強めていくかだが、勿論、脳そのものが違うのもあれば、社会的には分業のため残ったしくみと考えられる。ある国の知的上限は基本的に、この知識人らが担っている。
 民衆の最低レベルは、特に秀でた面のない多数派の一部にあらゆることに最も劣った者も含んでいるので、すなわちその国全体の知性や道徳の最低ラインを意味している。護送船団方式とよばれる考え方はこの最低ラインの底上げに使われていた。しかし自己責任論では、最も劣った者からきりすてが行われる。

 私がここで書いておきたいのは、万難を排して、最も不利な者の利益最大化(ロールズの第二正義)が、知識人らが共通して認識すべき今日の貴族精神なのであり、それがすなわち社会正義なるものの基本公準でなければならない、という原則だ。この考え方によれば、例えば初期仏教の態度も全く正しくない。
 確かに福祉の現場にいる人達からみても、それがはなはだ崇高な理想であり、刑務所の現実をしらないからそういえると机上の空論扱いされるわけだが、次の言葉を思い出してほしい。私はある中国人に「理想を馬鹿にするべきではない」といわれた。これは真理であり、高い理想なくして現実も変えられない。
 格差社会が自由至上主義にいきつくと、もはや最も愚かな極貧者を助ける動機など全く失われてしまう。彼ら自身、向上心を全て喪失しているだけでなく、学習性無気力をこえた恨みのなか社会全体を敵視するばかりであり、反社会的存在として生に絶望してしまいがちである。そしてテロや自殺に走りやすい。
 ある社会が生きるに値する(by宮崎駿)かを確定するのは、実際、当人の貧富ではない。他人がたった一人であれ、無条件にその人を助けようとしてくれるかだ。だが皇族が私利を優先し、(安倍自民党の様な)寡頭政治家らも福祉を軽視し、宗教すら信者を搾取している状況で、孤立無援者には誰もいない。
 非正規雇用法や株主資本主義の導入で日本企業も労働者を「社畜」扱いしがちであり、実質的に奴隷状態でいきている民衆は卑屈な心魂に陥り、おのれの身に危険が及ばない安全な鬱憤の捌け口を自分より不利な立場にいる人々へ向けやすい。この種の民衆の堕落も浅ましいが、貴族が業は正義の回復である。

 武士にも一流と二流がいた。弱い者イジメを憎むといった新渡戸的倫理観をもっていたのは必ずしも全員ではなかったろう。それは今日の知識人、俗に文化人と呼ばれている人々の間でも同じだ。実際、中卒芸人を公然と差別的に侮辱三昧した某大学長補佐もいたくらいで、品性は貴族精神の持ち主にしかない。
 むしろ、自分が真にかしこければ、あるいはおのれの道徳が民衆より一層高貴な段階に進んでいれば、なにゆえ民衆の中で劣っている者をわざわざ攻撃する必要があるのか。それは知力の乱用であり、そんな時間があればなんらかの啓発で最低ラインの底上げに力を貸すか、上限をひきあげる本業に励むべきだ。

 人は生まれつき違う面もある。そしてこれは劣った面をもつ者をさらに陥れてよいことを全然意味しない。その様な弱者虐待のふるまいをしている者は、単に無意味であるばかりか有害であり、集団全体の底を抜けさせ、指導的役割にある者が本来もつべきだった正義の徳も民衆以下とみなされるだけである。
 相手が劣った知性しかもっていない、または無数の徳目とその相克について無知であるがゆえ、彼らをより高次な立場から正しい方へ導くのがあるべき知識人の態度だ。全く同じ事は民衆に対してだけでなく皇族方へ向けてもいえる。一人御進講に於いてだけでなく、常に国は優れた少数派が全体の模範となる。
 もしわが国の皇族が品性下劣にして民衆の公害をなんとも思わず、世襲のボンボンたる座に安住しているなら、それは彼らよりはるかに優れた貴族が民衆の模範になっていないからだ。米国人の大勢がなぜ英王室でなく、彼ら自身を倫理的紐帯にしているか考えればよく、より優れた人が現にいるせいである。

 以上を重々考え、我々は嘗て儒学者らが修身からはじめたよう、自ら俯仰天地に愧じぬ私徳を完成へ向け日々反省しつつ、社会全体の公知公徳をいかに最大化するかに尽力すべきであり、単に自身の名利または興味だけをおいかけている様ではいけない。その種の私知は結局、独裁と同じ末路に終わるのだから。