2019年10月16日

知的謙虚さの戒めとしての全知や絶対知を帯びる信仰対象の有用さ

あるツイッタラーの荒らしといってもいい人が、私をこっぴどく侮辱三昧し去っていった。そしてその後みていると、その人はバンクシーを確立された芸術家かのよう称賛していて、その他の、主に英語圏または外国人の権威を帯びている人々を、問答無用で礼賛しまくっている。
 この人の有様を眺めていて、ふと気づいた。というのも私の法学知からみて、この人の述べている憲法論の立場は必ずしも正義ではないというか、いわゆる脱構築以前のある法解釈を学園的権威に基づき、固執的に擁護するデリダ以前の態度なので、思慮の足りない浅はかな愚者にみえるのだが、この人の不寛容性や偏向性、そしてアカデミズムの権威づけゲームへの妄執的姿勢が帯びる逆説的に知的劣位としか思われない面は差し置き、彼女(対象の人物が女性なのでこう仮に呼ぶ)のもっているのはニーチェ的態度と思うのだ。神が全知の偶像なら、それへルサンチマンを抱いていたのは実はニーチェ側だったのだろう。
 神の死を述べながら、無神論や科学主義を狂信的に喧伝しているドーキンスは、ニーチェやこの女性と同じで、全知をねたんでいる。なぜなら彼らは哲学が永遠の疑義と自己懐疑、無限学習の連鎖にすぎない既知の事実、即ち未知の自覚に無自覚だからだ。それで相対知の程を誇りに思う教養俗物と化している。

 私は彼らが反面教師だと思う。それは神の死は彼らの当為たる全知への意志を諦める結果に繋がるからだし、上述のようその過ちは相対知にさえ正しい判断を行えなくしてしまう、根本的なねたみ、ressentiment、うらみの原因になるからだ。他の人間を同類として知の比較対象にしているからねたむのである。
 全知は永遠に到達できない理想だが、少なくともそれを帯びている筈の神格を目標にしない限り、人はしばしば、下らない見栄っ張りの俗物根性に簡単に毒されてしまう。その実例がその女であり、現に法解釈を自分の信じる仕方でのみ行い、他の立場を全く顧みないのは無論、自分の知性を誇りさえしている。

 聖書の中で、イエスは「主たる汝の神を試みてはならない」と悪魔(寓話としてだが、恐らく空腹の限界に迫って現れた、彼の妄想だろう)へ答えた(ルカ4、4:12)。これは全知の信仰性を述べているに等しく、そうであるからには、ニーチェや無神論者らは進んで、自らパスカルの賭けに負けているのだ。
 別の言い方にすれば、人は知的謙虚さを全知の当為を想起する中で絶えず取り戻すよすがとしてさえ、神なるものの本質にある完璧さの理想を信じている方が、確かに優れている。未知の優れ方を安直に暗愚と臆断しない為には、少なくとも比較対象が相対知の質では不十分で、常に絶対知でなければならない。

 我々は現世にあって、言語や感覚その他で認知しうる範囲で絶対知へ到達できないが(よく全知を帯びた預言者を偽装する教祖らが世渡りに失敗したり、彼らの述べた正義を含む真理が後世の批判に耐えきれない理由がこれだ)、単なる枠組みとしてその種の理念を想定できる。そしてそれを戒めとすべきだ。