きのうまで天皇廃止論で皇室の存在意義を否定していたが、名古屋市長を侮辱しまくる東京の自称アーティストらの品性下劣振り、あるいは神奈川くんだりの商人らの同様の侮辱を目の当たりにすると、天皇が下賤の階級にあっては或る品位の保障になっているのではないかという直観的仮説が導かれた。
確かに、高貴な階級にあっては、身分差別に過ぎない上に俗物根性の塊である皇室は、逆に虚栄心と世襲権力にしがみつく下品さや、ある種の諧謔の対象になっている。だがこれは、もっと下賤な階級にとっては高踏すぎる精神で、実質的に真似られない。有職故実がないばかりか皇室を研究していないからだ。南関東は、商人階級の集まりでその殆どは、下級商人で占められている。いってみれば下流の集まりである。そこでアーティスト気取りの同業組合連は普段から、品位の面でも江戸町人となんの違いもない質だが、今回も、皇室を侮辱する事の深刻さをなにも悟らず、飽くまで名古屋市長へ侮辱を重ねていた。
仮に、皇室廃止に向けていくとしても、飽くまで日本の政を世界で最も長い間治めてきた家系の方々へ、敬意をもって扱うのが人としての道だろう。その場合でも、侮辱的な表現をアートだか表現自由の建前で重ねるのは許すべきとも思えない。いくら公人だからといって、批判にも一定の品位が必要と思った。
例えばイギリスで王室ジョークはよくみられるわけで、よかれあしかれ公には(まあ宮内記者会とかマスコミ各社の自主規制として)皇室タブーもあれば、厳密には政教分離でもない日本は、他国とその点では政治・宗教的文化が違う。天皇は世俗的権力者ではない。神聖酋長の延長にある存在なのである。
自分は、きのうまで日本人全体が右傾化の果て天皇制ファシズムに陥る危険性をみてとって(たった75年前、それで一度国が亡んでいるし、昭和天皇自身が「臣民があまりに皇室を信じすぎた」等と反省の弁を述べていたくらいで)、できるだけ皇室批判の表現で、政治上、自由のバランスをとろうとしていた。
が。名古屋市長が真摯な座り込みで、いわば尊皇の武士みたいに体当たりで、天皇陛下を焼くのは解せないと抗議している現場をみて、東京人でお洒落系国際アーティスト気取りの下衆とか、神奈川で進次郎支持してる三文商人とかが、彼を侮辱しまくるのを見ていたら、これは逆の心配もあると悟った。下賤の徒は最初から名声、地位、欲望に忠実かつ単細胞でいかなる品位ももっていないし、それを誇ってすらいる真性俗物なのだが、彼らが皇室タブーを犯すのは王権神授説批判みたいな高等な理論ではなく(それだって『市民政府論』(『統治二論』)は300年前の話なのだが)、単なる芸能人への中傷レベルの悪意だった。
福沢諭吉は、皇室の存在意義は、愚民には目に見える対象にしか権威の源泉を認められないので、一種の子供騙しだと、ある種の天皇機関説を述べていた。私はきのう、これに加え、真性俗物である愚民にとっては、その俗物根性を極めた皇室は品位保持の目安になっているのではないかと勘付いたのである。富、名声、装飾の為の肩書、最高の特権、想像できる限り他人の羨望するだろう上流気取りの特徴をあまねく満たすのが皇室をその一種として含む、王侯の権威づけのやり方なので、愚民一般からみると、妬ましい対象であると同時に、彼らの欲望たる俗物根性にとって手の届かない目標値にみえるのである。
或る意味では、皇室は愚民の欲望を体現化した存在なのだから、究極では愚民と同類なのだろう。だからこそ彼らは、他人を事ある毎に身分差別する為より下賤な人達の多い都心で暮らすのを好むのだし、中華思想に基づく傲慢な差別観は、東京や京都に伝染し、寧ろ愚民と共犯して一種の俗物社会を作る。名古屋市長を侮辱している「上流アーティスト気取り」の例えば東京芸大閥は、学力水準はとんでもなく低いとしても、根本的には地位や身分を得て肩書の特権を享受し、芸術作品で羨望されたさに集まっているので、もともと皇室や愚民の欲望と、中身は大して違いがない。
皇室を直接的に侮辱する行政展(しかも国税を要求している)を応援するのが品位に欠けた愚民の振る舞いだとしても、そして彼らの生存圏が、俗物根性の極点としての皇室と共犯しつつ共存しているとしても、結局、真の芸術はこのどちらにも加担すべきではないのだ。愚民にも天皇にも。彼らは同罪だから。
より深くは、天皇の偽善を暴いたり、愛知県知事のヘイト表現裁きの恣意を皮肉ったりするべきなのだし、名古屋市長の真剣な尊皇思想を小馬鹿にするのもなんの笑いごとにもならない。苦笑すら湧いてこないし、そんなことをして芸術家だといわれても、表現の自由を履き違えているとしかいいようがない。
結局、愚民側は今後も、何も変わらないのかもしれない。上智と下愚は移らず。恐らく東京も、江戸時代以前からこうだったのだろうし、未来でも同じくらい愚劣で下賤、且つ傲慢で無反省なのであろう。京都市民一般の陰湿な差別的性質が一度でも変わったことがあったろうか。愚民に期待しても意味はない。
よりよく変わりうるとしたら、中人以上だ。特に純粋な学術的考察ができる高知性者らは、俗の有様を離れてみて、皇室タブーを巡る状況分析から、天皇保守側にも、愚民による表現乱用の下品さ側にも肩入れせず、単に世論の品位を保たせるばかりか、天皇制の差別的要素を周知させるのに力を使うべきだ。敢えていうなら、専ら共和政へ向けての中道ということになるが、仮に共和政以外の政体に向かうとしても、やはり世論の中庸を捉え、そこをずれないよう極端に触れやすい世論の逆を突いて、場を整える、正確にいうと集団浅慮を解除するのが、知性の役割だと私は思う。福沢諭吉も同様のことをいっていた。